全日空商事 【1/200】【YS21147】 全日空 YS−11 旧塗装 "オリンピア" JA8645

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全日空 YS−11
旧塗装
"オリンピア"
レジJA8645

私のパイロット人生のスタートと国産旅客機YS-11のデビューとの間には、偶然とはいえ無視できない繋がりが.......。
航空大学に在学中の1964年夏、飛行訓練の合間にふと滑走路方向を見やると、南国宮崎の夏の猛暑の中、開発途上のYS-11が休むことなく離陸を繰り返している。
高温下の離陸性能のデータ取りか。耳には心地よく響くターボプロップの金属音。眼には強烈な太陽光を反射してぎらぎら輝く胴体のジュラルミン。いつしかこの飛行機を操縦してみたいという想いが私の心の中に急速に膨らんでくる。
希望かなって1965年4月に全日空入社。7月末全日空へ一番機(JA8644)が納入されてくる。
それと同じ頃、はたして我々仲間8人はYS-11の副操縦士要員の一期生の指名を受けることになる。
限定変更訓練(YS-11の操縦資格取得訓練)開始。翌1966年4月、無事新人YS-11副操縦士誕生。
伊丹空港から西へ・・高知、松山、大分、宮崎、鹿児島へと飛び回る忙しいけれど充実した日々が始まる。今日の機長は旧海軍出身のH氏。
仕事にはめっぽう厳しく腕も良いが部下想いの頼りがいのある飛行機野郎だ。毎日のフライトが先輩の技術を盗む大切な場。
機長の操縦ぶりを観察するのは勿論のこと、雑談の中に盛り込まれる技術に関する一言一言に耳をそばだてる。そうだ!H機長との乗務ではこんなこともあった。
それは当時の全日空の唯一の定期国際線であった鹿児島一那覇線の乗務の際のこと、機長の操縦するYS-11は沖縄本島を右下に見ながら那覇空港に向けゆるく旋回を続けている。突然右手を操縦桿から離し後方に過ぎ去る海面に向け敬礼をする機長。
「同期生が何人もこの海の底に眠っているんだよ」。機長の顔を一瞬よぎった寂しさの影を見たのである。
今、その同じ空を何事も無かったかのように民間機で飛んでいる
。平和である幸せをあらためて強く感じた瞬間であった。鹿児島一那覇線を飛ぶYS-11には二本の短波通信用のアンテナ・ケーブルが、垂直尾翼から操縦室の屋根上の二本の角に向けて張り渡してある。
この鹿児島一那覇線のような洋上飛行では当時、位置通報のための短波通信機が必須であった。
後のYS-11Aとの外見上の大きな違いの一つでもある。また導入当初のYS-11にはオートパイロットは勿論のこと気象用のレーダーも装備されていない。
梅雨前線の中をやみくも、眼と勘を頼りに飛んでいた。そんなとき会社から「今度購入する7号機にオートパイロットか気象レーダーのどちらかを装備することになった。どっちにする?」という問いかけがあった。当時は、貧乏会社ゆえ両方は駄目とのこと。パイロットの総意はもちろん「レーダー」。パイロットへの会社からの最高の贈り物となった。
YS-11には当初、技術的な問題点が多々あったが、一つ一つの問題にたいし解決の努力が続けられ後のYS-11Aへと繋がってゆくのである。
YS-11とYS-11Aの操縦性能を比較したとき、舵は重いが滑らかで素直なのは断然YS-11の方である。
YS-11で巣立ちYS-11で鍛えられたかっての雛鳥たちは、僅か4年後の1970年、次々とYS-11,YS-11Aの機長として羽ばたいてゆくことになる。
         
         〈元ANA YS-11機長 久保田幸郎〉

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