全日空商事 【1/500】【NHS52004】ANA B737-200 モヒカン&トリトン (JA8401・JA8453)

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ANA
B737-200 モヒカン
レジJA8401
B737-200 トリトン
レジJA8453

    〜BOLING 737-200 (モヒカン)〜
ANAが昭和43年(1968年)2月導入決定した地方路線用短距離ジェット機BOEING737-200型である。
当時、地方路線には40人乗りのF27型フレンドシップ及び67人乗りバイカウント828型ターボプロップ機が活躍していたが急激に旅客需要が拡大しておりその対応と地方路線の強化を図る必要があった。
さらに将来的展望として第一次空港整備5ヵ年計画など地方基地の整備強化方針が明確化され宮崎、鹿児島、広島などのジェット就航が可能となりつつあり昭和45年の万国博覧会開催による旅客の急増予測、新産業都市の指定(昭和39年から41年)など大きな地方都市間の流動が見込まれていた。
選定にはDC-9、BAC111なども候補にあがったが短距離用ジェットとして経済性が特に優れていた点、搭載能力とバランス性に優れ高度化したエレクトロニクスで安全性への配慮が高いこと、空港の条件がよければ1,500m前後の滑走路長ですむこと、駐機時間の比較的短い地方基地での点検が容易であること、B727と部品の互換性があったことでBOEING737の優位性が認められた。
昭和43年(1968年)4月15日、ボーイング社と4機の購入契約が調印されその価格は1機あたり部品代込み13億9,700万円、総額55億
9,000万円であった。BOEING737の優位性を決定づけたのはJT8D-9エンジン2基を両翼の下に吊り下げたことによりリアエンジン機と比べ体尾部構造の複雑化が解消され重量軽減が図られ輸送能力が増え生産性が高まった点にあったがその結果、目の高さの位置でエンジン点検が出来ることが地方空港における整備性の向上に大きく寄与することとなった。
全長30.48mの短い機体に115人乗りの高い輸送力を持つことでミニミニジャンボの愛称がついたが単位あたり輸送コストはB727の87%におさえられている。
運航乗員は2名。JA8401はBOEING737-200型導入1号機で新塗装のモヒカンルックの装いで昭和44年5月28日に羽田空港に到着。昭和44年(1969年)6月20日東京一大阪、大阪一福岡線の初就航に続き7月1日大阪一宮崎線にも就航し本格的なローカル線のジェット化が始まるとともに大量高速輸送時代が到来した。

    〜BOEING 737-200 (トリトン)〜
現在、2名のパイロットで操縦する航空機は世界中で2 Men Conceptという考えで運航されている。
2 Men Conceptは2人乗務における職務分担の考え方である。
コックピットでの職務分担は機長と副操縦士とは別に操縦するパイロットPF (Pilot Flying)とモニターするパイロットPNF (Pilot Not Flying)である。B737(ビースリー)はANAのパイロットが2人で乗務するようになった初めてのジェット機であった。
2 Men Conceptの考え方はB737の時代にはまだなかった。手を伸ばせばあらかたの計器に届いてしまう狭いコックピットの中では2人で乗務していてもお互いに操作が輻輳してしまう場面もあった。
そこで自分の責任の職務エリアをはっきり決めるArea of Responsibilityを確立させようという動きが出てきたのは1980年代に入ってからだったと元BOEING737指導操縦士の一人は語る。
B737が活躍した昭和44年(1969年)から平成4年(1992年)の23年間はコックピット内のジェット機運航・安全運航に対する考え方が大きく進化していった時期でもあった。
B737はB727(ビーツー)が2名のパイロットとフライトエンジニアの3人で乗務したのに比べFEの役割を2人でこなさなければならない分負荷はかかった。
しかもB737は小さな機体の安定を維持するのが難しくパイロットの持っている技量のうまい・へたがすぐ判ってしまう機体でもあった。その分パイロットたちはB737のコックピットで鍛えられていった。
コンピューターを搭載した2人乗りのBOEING767が導入されても3人乗務に慣れたパイロットより2人乗りのB737パイロットはスムースに移行ができたという。
B737は改良型アドバンスの導入によりグルービングを施した1,500m級滑走路を持つ地方空港への就航が可能になり活躍の場が大きく広がった。
特に昭和51年(1976年)12月1日、山形空港グルービング滑走路完成と同時就航により1,500m空港でのジェット化を初めて実現した功績は大きものがあった。
中海に面した1,500m滑走路に降りていく米子空港(当時)では着陸時のブレーキの効きのよさを実感したと回想する。
一方でB737に乗務したパイロットはエンルート上の高い雲を越えたいときに35,000ftまでしか上がれない最大運用限界高度に苦労させられた思い出もある。
大型機のように41,000ftまで上がれれば必ず安定した雲上に出ることが出来るのに・・・と。
もっともAPUもなくエアコンの効きが悪く暑く寒いコックピットで12,000~13,000ftを飛んでいた厳しいYS-11から移ってきたパイロットにはB737のコックピット環境は別世界だった。
B737には来日した海外のVIP特別機として昭和55年(1980年)4月17日スウェーデンのグスタフ国王夫妻(東京一大阪)、昭和56年(1981年)2月25日ローマ法王(東京一広島一長崎)の運航実績がある。
昭和58年(1983年)以降モヒカンルックの機体は順次トリトンカラーの新塗装に塗り替えられた。
B737のラストフライトは平成4年(1992年)8月31日、山形一東京線NH806便(山形発15:30、羽田着16:30)。羽田空港で行われたラストフライトセレモニーにはB737の退役を惜しんで駆けつけた多くの関係者の姿があった。
B737による総飛行時間は73万2000時間、総飛行距離は4億720万km(地球約1万周に相当)、総旅客数5,070万人であった。(いずれもH.4.7.31現在)
ラストフライトを努めたJA8453はBOEING製造番号21767 昭和54年(1979年)6月25日製造、ANAに導入されたスーパー(SUP17)と呼ばれたBOEING737-200Adv.の最終グループの1機である。
勇ましいエンジン音とともに離陸していくBOEING737-200型の姿は日本の空から去って過去のものとなったが今日、最新鋭機BOEING737-800型の導入が始まっている。

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