de San Martín, José (ホセ・デ・サン=マルティン)

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アルゼンチン 1908年

(1778-1850)
アルゼンチンの軍人・政治家。
 アルゼンチン北東部の小さな村で、軍人の子として生まれる。7歳で家族とともにスペインに渡る。サン=マルティンは職業軍人としての道を進み、22年間スペイン軍で働いた。スペイン軍では陸軍中佐まで昇進し、1811年にはスペイン軍の師団長にまでなったが、母国アルゼンチンでの独立運動を耳にして、今まで築いた全ての地位を捨てて帰国を決意する。
 1812年、ラ・プラタ連合州として独立していた母国に帰国し、ブエノスアイレスの革命政府に参加する。1813年2月3日、サン・ロレンソの戦いでサン=マルティン指揮するラ・プラタ軍はスペインを撃破する。

 さらにベルグラーノ将軍から北部軍の指揮を引き継ぎ、1817年初頭、亡命チリ人の独立指導者ベルナルド・オイギンスらと共にメンドーサから出撃、スペイン軍の油断をついてアンデス山脈越えを行い、チャカブコの戦いに勝利。1月25日にサンティアゴに入城を果たす。チリの議会はサン・マルティンを執政官に選出したが、サン=マルティンはこの申し出を断り、この戦いに協力したオイギンスをチリの元首として指名した。その後、4月5日マイプーの戦いで再びスペイン軍を破ると、チリの最終的な独立が確定した。

 チリをオイギンスに任せると、サン=マルティンはペルー攻略に乗り出した。しかし軍隊を海上輸送するため艦隊を組織するため2年近くかかり、元英王立海軍軍人のトマス・コクランの力を借りて、ようやくリマに向けて艦隊が出発したのは1820年8月であった。1821年7月9日にサン・マルティンはリマに入城。ペルー独立を宣言した。しかしペルーの独立は海岸部分にとどまり、アルト・ペルー(現在のボリビア地域)に勢力を張るスペイン軍に対抗する兵力は持ち合わせていなかった上、マルティンの取った奴隷解放などの政策は現地の既得権益層の支持を得られなかった。

 キトとグアヤキル(現在のエクアドル)解放を目指し戦っていたシモン・ボリバルらの大コロンビア軍に支援を求め、グアヤキルでボリバルと会談を行ったが決裂、失望したサン=マルティンは帰国し引退を決意する。しかしアルゼンチン内部の政争に巻き込まれることを嫌い、妻子とともにイギリスに亡命、最後はフランスのブーローニュ・シュル・メールで余生を送り、失意の内に死去した。
 

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