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1988 (18TH) SPARK LARROUSE LOLA LC88 Y.DALMAS
ラルース2台体制 ヤニック・ダルマス 日本GP欠場で… LARROUSE LOLA LC88 1988年 参戦2年目のラルースは 2台エントリーとなり 前年度終盤3戦で スポット参戦したヤニック・ダルマスを起用 チームメイトはフィリップ・アリオー ダルマスは当時フランスの若手ABCD (アレジ ベルナール コマス ダルマス) と呼ばれた中で1番最初のF1シート獲得 R2サンマリノGPから3戦連続完走 R5カナダGPは予選落ちしたものの R6アメリカGPから5戦連続完走 ポイント獲得はならなかったが 決勝でP・アリオーを上回る成績 R15日本GPを前に中耳炎を患い欠場 翌年ザグスピードからデビューの決まっていた 鈴木亜久里が急遽の出場となり レーシングスーツはダルマスの物を着用 予選20位→決勝16位完走 R16最終オーストラリアGPも欠場 同郷フランスのピエル・アンリ・ラファネルが 起用されたがこちらは予選落ちしている モデルはスパーク R3モナコGP仕様 予選21位→決勝7位 チームのシーズンベストリザルトタイ この後同じく公道サーキットの R6アメリカGP デトロイトでも決勝7位 ポイント獲得に一歩届かなかった コックピット回りにタバコスポンサー CAMELのデカールが別添えで貼り付済み
240129 Y.DALMAS 1988 29FW12C
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1982 (27TH) CP MODEL ARROWS A4 B.HENTON
ブライアン・ヘントン 3戦限りのアロウズ ARROWS A4 1982年前年度は新規チームトールマンで 12戦中11戦の予選落ちのヘントンであったが アロウズのレギュラーシートを獲得 チームメイトはマウロ・バルディ アロウズはニューマシンのA4を開幕から投入 イタリアのセラミックタイルメーカー RANGOがスポンサーとなり 前年のゴールド系のカラーから オレンジを基調にタイルを施す カラーリングで人目を惹きつけた ヘントンは開幕・R2と連続予選落ち R3アメリカWEST予選20位→決勝リタイア R4~はスリム・ボルグッドが抜けた ティレルに移籍して最終戦まで参戦 ヘントン離脱後のアロウズは マルク・スレールが加入 バルディ共にチームを立て直し各2回 チームで4度の入賞をしている モデルはCP MODEL 入賞したバルディ/スレールでなく 3戦限りのマニアックなヘントン車をリリース
230812 B.HENTON 1982 29FW12C
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1978 (28TH) PMA B&S FABRICATIONS McLAREN FORD M23 N.PIQUET
ネルソン・ピケ デビューイヤー 1978年プライベーター McLAREN FORD M23 3度のワールドチャンピオン ネルソン・ピケ デビューイヤーの1978年は3チームに所属 R11ドイツGPはエンサインでデビュー R12オーストリアGPからはプライベーター B&S FABRICATIONSで型落ちの マクラーレン フォードM23で3戦出場 マールボロではなくチェスターフィールドの タバコスポンサー仕様 完走はR14イタリアGPのみで9位 1973年に導入されたマクラーレンM23 6年間使用された名車の最後は ネルソン・ピケのドライビングであった 最終戦はブラバムのサードカーで出場 翌1979年はブラバムのレギュラードライバ―
N.PIQUET 1.872 29 1/43FW12C
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1992 19TH SPARK VENTURI LARROUSSE LC92 LAMBORGHINI B.GACHOT
フランス高級車 ヴェンチュリー参入 B・ガショー最後の入賞 LARROUSSE LC92 ラルースチームは資金難により 1992年はフランスの自動車メーカーの ヴェンチュリーが株式を買取参入 日本のMINEサーキットや 姫路セントラルパークを運営の セントラルパーク(土井産業)がメインスポンサー エンジンは90年以来のランボルギーニV12 チームは予備予選組に回ったが ガショーは予備予選・予選とも全て通過 R6モナコGP 予備予選2位 予選15位 A・セナ(マクラーレン)N・マンセル(ウイリアムズ)の 伝説の優勝争いの中 ガショーは決勝6位入賞 チームはこの年唯一 ガショーは生涯最後の4回目の入賞 ヴェンチュリーはこの年のみでF1から撤退 ラルースカラーともいうべき配色が CABINの赤も加わってとてもバランスの良い1台 #F1-1992年
221026 B.GACHOT 29 1/43FW12C
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1979 20TH+α PMA ARROWS A2 R.PATRESE
1979年後半戦登場 ARROWS A2 R・パトレーゼは苦戦の後半ノーポイント 前輪ロッキングアームまでカウルで覆い 車体全体を一枚の翼に見立てた形状で 高いダウンフォースを得ようという コンセプトのARROWS A2は スポンサーのヴァルシュタイナーの ゴールドを纏い黄金の弾丸とも呼ばれた R8フランスGPから導入されたが R・パトレーゼはシャーシの剛性に欠け 安定性の悪いA2で苦戦をして 後半戦はノーポイントに終わる A2での成績の最高位は 予選R11オーストラリアGP13位 決勝R13イタリアGP13位 R14カナダGPでは旧型のA1に戻して出場 こちらのモデルは今は無きあるショップで 購入しましたがよく見ると初期不良で A2の特徴でもある角のように突き出した サイドミラーがついていません・・・ #F1-1979年 #ヴァルシュタイナー J・マス車はサイドミラーついています↓ https://muuseo.com/FW12C/items/695?theme_id=34203
R.PATRESE 29 1/43 ARROWSFW12C
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1995 16TH PMA SAUBER FORD C14 J.-C.BOULLION
ジャン=クリストフ・ブイヨン フランス出身1995年のみのF1参戦 1994年はルネ・アルヌーらが設立した 名門DAMSで国際F3000のチャンピオン 1995年はウイリアムズのテストドライバー 不振のK・ベンドリンガーに代わり ウイリアムズからのレンタルという形で R5モナコGPよりザウバーで参戦 予選はTMのH・H・フレンチェンの全敗 R9ドイツGPで予選14位→5位 R12イタリアGPで予選14位→6位の 上位陣の脱落もあり2回の入賞を果たす 終盤2戦はK・ベンドリンガーの復帰に伴い シートを失い 以降ウイリアムズや ティレルにてテストドライバーを務めるも F1でドライブは無かった SAUBER FORD C14はF1で初めて 世界のエナジードリンクの中で 最も高い市場シェアを誇る RED BULLがスポンサーとして参加 2004年までの永きに渡りザウバーをサポート 2005年にRED BULL RACINGを設立した #1995
J.-C.BOULLION 29 1/43 SAUBERFW12C
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1995 (28TH) PMA SAUBER FORD C14 K.WENDLINGER
1990年代メルセデス三羽烏の一人 カール・ベンドリンガー最後のマシン 1994年のモナコでの意識不明の事故から 復帰したベンドリンガーであったが 1995年は速さが見られなくなり チームメイトの H・H・フレンツェンに遅れを取り 開幕4戦までで完走1回の13位 ついには前年度事故のR5モナコで J・C・ブイヨンにシートを奪われた その後テストドライバーとして復調し 終盤2戦で復帰するもR16鈴鹿 決勝10位 最終戦のオーストラリアでは 体調不良によりリタイヤ このレースでF1のキャリアを終えた 生涯成績で最高は4位が3回 期待されながらも表彰台無し 事故が悔やまれるドライバ―であった 🏁カール・ベンドリンガー(オーストリア) 【決勝出走数】41回 (入賞7回) 【予選最高位】5位(2回) 1993年 SAUBER R3ヨーロッパ 1993年 SAUBER R4サンマリノ 【決勝最高位】4位(3回) 1993年 MARCH R7カナダ 1993年 SAUBER R12イタリア 1994年 SAUBER R3サンマリノ
K.WENDLINGER 1995 29 1/43FW12C
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1994 19TH PMA SAUBER MERCEDES C13 K.WENDLINGER
エンジンにメルセデスのエンブレムが付き チーム名もSAUBER MERCEDESとした1994年 K・ベンドリンガーはチーム2年目 TMは新人のH・H・フレンチェン 序盤3戦予選はベンドリンガー全敗 レースではR1ブラジル6位 R3サンマリノで4位と面目を保つ しかしR4のモナコのフリー走行で 大クラッシュを起こし昏睡状態に 2度と意識が戻ることは無いとまで言われたが 奇跡的に事故から25日目に意識が戻った 終盤2戦復帰を望んだが体調が不完全のため J.J.レートが代役で走行 ベンドリンガーの事故後 チームは自主的にコックピット横に サイドプロテクターを装備 1996年から義務化となった 表彰台や優勝を望み事前にテストを重ねて 臨んだサウバーだったが不発に終わり 業を煮やしメルセデスは ザウバーとの契約を解除 1995年はマクラーレンとタッグを組みます #1994
K.WENDLINGER 29 1/43 SAUBERFW12C
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1993 12TH PMA SAUBER C12 K.WENDLINGER
オーストリア出身のK.ベンドリンガー M.シューマッハ H.H.フレンチェンと メルセデス三羽烏と呼ばれた サウバー参戦準備のため1992年は マーチから終盤2戦を残し離脱 シーズンオフのテストでは ウィリアムズに次ぐタイムをたたき出した 序盤はリタイヤが続いたものの R13イタリア4位 R14ポルトガル5位 など4回の入賞でTMのレートを 上回る年間12位 7ポイント インダクションポッド横の 【JOOP!】はドイツの生活関連用品ブランド スポンサーが少ないこともあり 【!】のマークがすごく目立ちました LIGHTHOUSEのロゴが無い 序盤戦のモデルの方が サウバーC12の不気味さを 一層感じます #1993
K.WENDLINGER 29 1/43 SAUBERFW12C
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1988 (35TH) SPARK LARROUSSE LOLA LC88 A.SUZUKI
1988年R15日本GP 鈴鹿 鈴木亜久里のデビューモデル 翌年ザグスピードでの参戦が決定していたが Y・ダルマスの病気欠場で急遽スポット参戦 (レーシングスーツはダルマスのものを使用) 予選20位→決勝はスピンもあったが16位完走 これ以降ラルース(ローラ)と 日本人ドライバ―との関係ができ 鈴木亜久里(90.91年)片山右京(92年)のレギュラー参戦 鈴木利男(93年)野田英樹(94年)のスポット参戦と 4人の日本人ドライバ―がF1デビューしています 日本人のデビューを切り開く きっかけとなった1台かもしれません #1988
A.SUZUKI Racing on 29 1/43FW12C
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1989 13TH ONYX LARROUSSE LOLA LC89 M.ALBORETO
ティレル離脱でラルース移籍 ミケーレ・アルボレート LOLA LC89 1989年資金難のティレルは フランスGPよりタバコブランドCAMELの スポンサーを獲得 これに伴い個人Marlboro契約ドライバーの ミケーレ・アルボレートはMarlboroとの 契約を破棄してチームに残るか チーム離脱するかを迫られた アルボレートはフェラーリ時代からの Marlboroに恩義がある為チーム離脱を決断 しかしラルースからの熱烈なオファーを受け 結局はMarlboro個人契約を破棄して CAMELスポンサーのラルースに加入 R9ドイツGPより予備予選からの参加となり 序盤は予備予選は通過も決勝レースは苦戦 5戦中完走はR13ポルトガルの11位のみ 終盤3戦は予備予選落ち2回 予選落ち1回 この間にチームメイトのP・アリオーが この年唯一のポイントを獲得した アルボレートは翌1990年は フットワークのスポンサーのアロウズに移籍 モデルはONYX CAMELのデカールが元々貼られているモデル ONYは LOLA LC89はアリオーと アルボレートの2人のラインナップ発売 パッケージにスポンサー各種が印刷
M.ALBORETO 1989 29 1/43FW12C
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1991 21ST ONYX LARROUSSE FORD 091 E.BERNARD
#1991 #F1-1991年
E.BERNARD 29 1/43 LARROUSSEFW12C
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1990 13TH PMA LARROUSSE LAMBORGHINI LOLA LC90 E.BERNARD
エリック・ベルナール シート獲得 自身初入賞 LARROUSSE LOLA LC90 前年度ラルースでスポット参戦で F1デビューを果たしたベルナールは 1990年同チームのレギュラーシートを獲得 チームメイトは鈴木亜久里 この年ラルースは前年度の成績により 予備予選からの出場 ベルナールは前半8戦すべて予備予選突破 8戦中5戦がトップ通過 R4モナコGP決勝6位自身初入賞 ベルナールのキャリア入賞は5回 R8イギリスGPでも4位に入り チームは後半戦予備予選免除 後半戦はR10ハンガリーで6位も 終盤は5戦連続のリタイア R15鈴鹿で鈴木亜久里の3位表彰台で 亜久里にポイントでも逆転されて 年間では5ポイントランキング13位 しかしチームは同じフランスのリジェからの 指摘でローラの車体であるにもかかわらず ラルースで登録していたことが問題とされ チームポイントを剥奪され資金難に陥った ドライバーポイントは有効とされた モデルはミニチャンプス GP表記の無いRACE CAR仕様 車体にはGEO(ESPO) TOSHIBA TDKなどの ジャパンマネーのスポンサーが多数あり 画像1枚目はどなたかが作成したオリジナル台紙
E.BERNARD 1990 1.404 29FW12C
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1989 (31ST) SPARK LARROUSSE LOLA LC89 E.BERNARD
エリック・ベルナール F1デビュー 地元 フランス初完走 LOLA LC89 エリック・ベルナール フランス出身 当時のフランス若手ABCDの一人 A アレジ B ベルナール C コマス D ダルマス 1989年国際F3000 3位(1勝) (チャンピオン アレジ 2位コマス) 1989 R7フランスGP ラルースが不振のY・ダルマスの代わりに ベルナールを起用しF1 デビュー 予選15位→決勝11位完走 翌R8ドイツGP 予選13位→決勝 リタイア ラルースはティレルを解雇され タバコスポンサー関連の問題がクリアに なったミケーレ・アルボレートを起用 この年ベルナールは国際F3000に専念 翌1990年はラルースの レギュラーシート獲得 鈴木亜久里のチームメイトとなる
E.BERNARD 29 1/43 CAMELFW12C
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1983 15TH SPARK ARROWS A6 M.SURER
スポットスポンサーGOLIA 1983年 イタリアGP ARROWS A6 1983年マルク・スレールはアロウズ2年目 チームメイトは①チコ・セラ→ ②アラン・ジョーンズ③ティエリー・ブーツェン 1983年はグランドエフェクトカーが禁止 所謂フラットボトム規定に適応した ニューマシンアロウズA6を開幕から投入 スレールはR4戦まで全戦完走 決勝5位2回 6位1回で5ポイント獲得 R7アメリカEAST GPは予選5位 これはスレールの生涯予選ベスト アロウズはこの年メインスポンサーが無く スポットスポンサーに合わせ カラーリングが毎戦変わり R13イタリアGPではイタリアで有名な キャンディのゴリア(GOLIA)がスポンサー 同社のキャンディーの包み紙が マシンに施されたインパクトのある1台 ドイツのRACELAND社の別注モデル スレールはこのGPは予選20位→決勝10位
M.SURER 400 29 1/43FW12C