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1999 FESTIVAL PMA McLAREN MERCEDES MP4-13 N.HEIDFELD (GOODWOOD FESTIVAL OF SPEED)
GOODWOOD FESTIVAL OF SPEED ヒルクライム新記録 ニック・ハイドフェルド ニック・ハイドフェルド ドイツ出身 1997年 ドイツF3チャンピオン(5勝) 1998年国際F3000 ランク2位(3勝) 同年マクラーレン・メルセデスのテスト担当 1999年国際F3000チャンピオン(4勝) マクラーレン・メルセデスのテストも継続 同年ドイツで行われているモーターイベント GOODWOOD FESTIVAL OF SPEEDに参加 前年度チャンピオンマシンMP4-13をドライブ イベントの目玉となるヒルクライムのレースで 41.60のコースレコードを出し この記録は2022年にマックス・チルトンに 破られるまで23年間コース レコードであった ハイドフェルドはこのイベントには 3年連続での出場であり 1997年MP4/11B 1998年MP4/12をドライブ それぞれその年の最速タイムであった モデルはミニチャンプス 長年メルセデスはハイドフェルドの サポートをしていたが 彼が実際にメルセデスエンジン・マシンで F1に参戦する機会は残念ながら無かった 前年度チャンピオンマシンにふさわしく カーナンバーNo.1 のハイドフェルド タバコ広告禁止の為 Nick表記
240217 N.HEIDFELD FESTIVAL 1999FW12C
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1999 TEST PMA PROST PEUGEOT AP02 N.HEIDFELD
メルセデス契約下 N.ハイドフェルド プロストよりF1デビューに向けたテストカー 1999年国際F3000チャンピオン(4勝)を 引っ提げてメルセデスとの契約の元 2000年よりプロストよりF1デビューが 決定したドイツ出身ニック ハイドフェルド 前年度のモデルAP02の ハイドフェルドのテストドライブを ミニチャンプスでモデル化 1296台限定 この発売当時はダイキャストが主流の為 当年のモデルの発売は 年末から~翌年にかけてで 前年度の型を使用するTEST CARや SHOW CARなども多数ラインナップされた
240217 N.HEIDFELD 1999 無しFW12C
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1999 11TH PMA PROST PEUGEOT AP02 J.TRULLI
トゥルーリ初の表彰台2位 PROST PEUGEOT AP02 前年度チーム唯一のポイント獲得 1999年もプロスト残留のトゥルーリ チームメイトはオリビエ・パニス シーズン全体で苦戦が続き 前半戦の入賞はR5スペインの6位のみ R14ヨーロッパGP 荒れたレースでスチュワートが ジョニー・ハーバートにより初優勝 トゥルーリは同じくスチュワートの バリチェロを抑えて初の2位表彰台 トゥルーリの通算表彰台は11回 チームプロストとしては 1997年以来の2度目の2位で チーム最後の表彰台となった トゥルーリは7ポイントで年間11位 翌2000年はジョーダンに移籍 モデルはミニチャンプス 当時はプレイステーションで F1ゲームソフト Formula One 99が 発売されていた関係もあり サイドポンツーンに同社のロゴがある
231202 J.TRULLI 1999 19FW12C
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1999 6TH PMA WILLIAMS SUPERTEC FW21 R.SCHUMACHER
ウイリアムズに移籍 ラルフ・シューマッハ 孤軍奮闘 WILLIAMS SUPERTEC FW21 1999年ウイリアムズに移籍の F1 3シーズン目のラルフ・シューマッハ チームメイトはインディ帰りの アレサンドロ・ザナルディ 約2年落ちのルノーエンジンである スパーテックエンジンで苦戦の中 開幕戦オーストラリアGP 予選8位→決勝3位表彰台 16戦中12戦完走中11度の入賞 R12イタリアGPでは2位表彰台を 自身初のファステストラップで記録 ラルフの生涯FLは8回 チームメイトのザナルディが無得点の中 孤軍奮闘で表彰台3回35P 年間順位は6位 1999年評価を上げたドライバ―の1人であった チームはメカクローム(ルノー)エンジンと別れ 翌2000年はBMWエンジンでの参戦となる モデルはミニチャンプス タバコスポンサーのWinfieldの赤をベースに フェニックスをイメージしたようなカラー 1999年のみのカラーリング 同モデルはホットウィールからも発売 #1999年
231121 R.SCHUMACHER 1999 1回FW12C
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1999 3RD HOT WHEELS JORDAN MUGEN HONDA199 H.H.FRENTZEN
フレンツェン ベストシーズンの活躍 年間2勝 JORDAN MUGEN HONDA199 1999年 フレンツェンはジョーダンに移籍 チーム・メイトはデーモン・ヒル 前年度加入のマイク・ガスコインが手掛けた ジョーダン199はローダウンサーキット 中心にマシンの威力を発揮 フレンツェンは戦略が決まった R7フランスGPでシーズン初勝利 R13イタリアGPは予選2位から トップのハッキネン(マクラーレン)の ミスにも助けられてシーズン2勝目を上げ この時点ではチャンピオン争いにも加わった 最終チーム61ポイント中54ポイントを フレンツェンが稼ぎ出し ジョーダン史上チームベストの コンストラクタ―3位を獲得 自身も年間3位となり キャリアベストシーズンの活躍であった (ベストリザルトは1997年 年間2位) モデルはHOT WHEELS ジョーダンのチームロゴと 右下には紅白の縁石のある台座で このデザインは1999年モデルのみ ミニチャンプス(画像2)からは チームセットでドライバ―フィギュアと カーナンバー無でリリースされている
231115 H.H.FRENTZEN 1999 8FW12C
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1999 17TH PMA MINARDI FORD M01 M.GENE
ミナルディ 4年ぶりのポイント 新人マルク・ジェネ MINARDI FORD M01 マルク・ジェネ スペイン出身 1998年当時スペインでのトップフォーミュラ ワールドシリーズ・バイ・ニッサン初代王者 1999年ミナルディからF1デビュー ハイライトはR14ヨーロッパGP チームメイトのルカ・バドエルが 終盤4位走行中にエンジンが壊れリタイア 人目もはばからず涙流す中 ジェネは5位に順位を上げる その後チャンピオン争いの ミカ・ハッキネン(マクラーレン)と エディ・アーバイン(フェラーリ)が猛追 ハッキネンには抜かれたものの アーバインは何とか抑えて6位入賞 ジェネのF1初入賞はミナルディの 1995年最終オーストラリアGP以来 4年ぶり(65戦)ぶりのポイント獲得 コンストラクタ―でBARとの争いに 勝った貴重な1Pを獲得したジェネは 評価も上がり翌2000年もチームに残留 モデルはミニチャンプス 前年度に続くシルバーとブルーを 基調とするカラーリング メインスポンサーのテレフォニカは スペインの大手通信会社 マルク・ジェネの持ち込みスポンサー
231107 M.GENE 1999 21FW12C
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1999 14TH PMA RED BULL SAUBER PETRONAS C18 P.DINIZ
チームメイトに年間で勝利 P・デニス SAUBER PETRONAS C18 1999年デニスはアロウズからサウバーに移籍 チームメイトはジャン・アレジ デニスは強力なブラジルスポンサーマネーを チームにもたらすだけでなく ドライバ―としても勤勉化であった為 中堅チームからはオファーが絶えなかった デニスはギアボックストラブルなどもあり 年間での完走は僅か4(/16戦)回 しかしその完走の内の3戦で ねばりの6位入賞を果たした (R6カナダ R8イギリス R9ドイツ) この3Pで年間14位となり チームメイトのアレジ(2P)を上回った デニスは翌2000年もサウバーに残留 再びミカ・サロとタッグを組むことになる モデルはミニチャンプス デニス車はミラーとシート周辺は黄色 アレジ車は赤で区別されている この時代のザウバーは似たような カラーリングが多く セコハン市場価格も抑え気味
231103 P.DINIZ 1999 1/43FW12C
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1999 9TH PMA BENETTON PLAYLIFE B199 G.FISICHELLA
ジャンカルロ・フィジケラ 3年連続 カナダ表彰台 BENETTON B199 フィジケラはベネトン2年目 チームメイトは昨年同様A・ブルツ ニューマシンB199を投入し フィジケラは開幕~R6で4度の入賞 R6カナダGPは2位表彰台を獲得 フィジケラはカナダGPと相性が良く これで1997年のジョーダン時代から 3位→2位→2位と3年連続表彰台 しかしながらこれ以降は 1997年のルノーエンジンがベースの 自社のファッションブランドの1つである PLAYLIFEのバッジネームを付けた エンジンも足を引っ張り入賞はゼロ コンストラクタ―もベネトンのF1参入した 1986年以来となる6位に転落した モデルはミニチャンプス タバコMILD SEVEN仕様に変更 1999年発売分よりミニチャンプスの ドライバ―フィギアの質が向上したが このベネトンとウイリアムズのモデルは 以前のままのフィギアを使用
231031 G.FISICHELLA 1999 9FW12C
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1999 (21ST) PMA BAR 01 SUPERTEC J.VILLENEUVE
ジャック・ビルヌーブ チーム初年度 11戦連続リタイア BAR 01 SUPERTEC 鳴り物入りで登場したBAR シーズン前のプレス発表では ビルヌーブ車➡ラッキーストライク ゾンタ車➡555 ブランドの別々のカラーで 登場したがレギュレーション違反となり却下 結局 左➡ラッキーストライク 右➡555を 真ん中のファスナーでつなぐ斬新なデザイン ジャックは開幕戦~R11ハンガリーまで 11戦連続のリタイア これは現在においても開幕からの 連続リタイアのワースト記録 年度またぎの連続リタイアを含めても 歴代ワースと3位のリタイア記録 (ワースト2位 12戦 A・チェザリス) (ワースト1位 14戦 I・カペリ) 2年前のワールドチャンピオンが まさかのノーポイント 決勝最高はR13イタリアGPの8位 チームのシーズン最高7位は ゾンタの代役のM・サロが記録という BAR1年目は悲劇のシーズンであった モデルはミニチャンプス BAT(ブリティシュ アメリカン タバコ) 社の2大主要ブランド 【LUCKY STRIKE】【555】を それぞれ左右でデカール加工 この年限りのデザイン
231029 J.VILLENEUVE 1999 22FW12C
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1999 16TH PMA PROST PEUGEOT AP02 O.PANIS
オリビエ・パニス F1 6年目 フレンチチームと決別 PROST AP02 前年度ノーポイントに終わったパニス 1999年もヤルノ・トゥルーリと共に プロスト グランプリに残留 R2ブラジルGPで予選13位から 2年ぶりとなる6位入賞を果たすと R7地元フランスGPでは予選3位と健闘 途中完走率の高いパニスは7戦連続の完走と 粘りの走りを見せたものの R10ドイツGPの2度目の6位と 入賞は僅かに2回に終わり シーズンで2ポイント 16位に終わった 1994年リジェ~プロストと6年過ごした フランスチームから離脱 翌2000年はウイリアムズからのオファーが 単年であったこともあって断り マクラーレンのテストドライバーとして契約 この時のテストドライバーしての働きが 再びパニスの評価を上げて 2001年はBARでF1に復帰する モデルはミニチャンプス タバコ ゴロワーズはバーコード仕様 何故か台紙の車体表記が PROST GRAND PRIX 1999 となっている
231023 O.PANIS 1999 18FW12C
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1999 7TH HOT WHEELS STEWART FORD SF3 R.BARRICHELLO
スチュワート3年目 集大成 チーム最高成績 R・バリチェロ チームは前年度末にジョーダンから テクニカルディレクターの ゲーリー・アンダーソン獲得 フォード軽量V10エンジンとマシンがマッチ チーム3年目のバリチェロは R3サンマリノで3位表彰台 R7フランスGP予選でチーム初 自身は2度目となるPPを獲得 決勝もシーズン2度目の3位表彰台 翌シーズンからチームをフォードが買収 ジャガーとして生まれ変わる事が 発表された直後のR14ヨーロッパGPでは チームメイトのジョニー・ハーバートが優勝 バリチェロも3位の1・3フィニッシュとなった チームは2人で36ポイントを獲得し コンストラクター4位に躍進 完走率では20/32回で全体の2位タイ ワールドチャンピオン ジャッキー・スチュワート設立の チームは最終年に最高の成績を残した モデルはHOT WHEELS 購入したのは大阪梅田にある モデルガレージ・ロムが かつて大阪なんば(日本橋)に 出店していたセコハン中心の2号店 当時(2010年頃)月1回くらい通っていました
231018 R.BARRICHELLO 1999 16FW12C
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1999 5TH HOT WHEELS FERRARI F399 M.SCHUMACHER〖🏆2〗
ミハエル・シューマッハ骨折で欠場も 終盤2戦に驚異の復活 FERRARI F399 1999年ミハエル フェラーリ4年目 チームメイトはエディー・アーバイン R3サンマリノR4モナコで連勝 シーリーズをリードするも M・ハッキネン(マクラーレン)に 逆転され迎えたR8イギリスGP 予選2位より決勝開始直後 赤旗が 出ている中チームによる伝達も遅れる中 リアのブレーキトラブルでタイアバリアに 直角に突っ込み右足を骨折で長期離脱 残りシーズン欠場も噂されたが R15マレーシアGPで予選PPで復活 決勝はチャンピオン争いのアーバインに 譲り自身は2位表彰台で驚異の復活 最終R16日本GPもPP獲得 決勝はアーバインにタイトルは獲得 させることはできなかったが フェラーリの1983年以来の コンストラクターチャンピオン獲得に貢献 モデルは HOT WHEELS 台座をミニチャンプス仕様に載せ替え Marlboro仕様に変更しています こちらはMuuseoでもお馴染みの 大阪なんばにある アダムスキー (当時サイケデリア)で2008年9月に購入
230920 M.SCHUMACHER 1999 1回FW12C
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1999 (20TH) PMA ARROWS A20 T.TAKAGI
開幕直前アロウズシート獲得 高木虎之介ポイントならずARROWS A20 1999年シーズン開幕直前に アロウズのシートを獲得の高木虎之介 チームメイトは新人ペドロ・デ・ラ・ロサ 開幕戦オーストラリアで予選17位 決勝は入賞一歩手前の7位完走 この予選・決勝のリザルトがシーズンベスト 決勝の7位は虎之介のキャリアベスト このGPではデ・ラ・ロサが6位入賞 チームに貴重な1ポイントをもたらし 1ポイントで並んだミナルディには 虎之介の7位により上回り コンストラクターで9位となった 虎之介はこの年でF1からは去り 日本人フル参戦ドライバ―としては 唯一の無得点者でF1通算32戦(失格1回)で ノーポイントは歴代ワースト4位 翌2000年フォーミュラーニッポンに復帰 10戦中8勝で圧勝のチャンピオンを獲得 2003年にはインディ500の ルーキーオブザイヤーを獲得している モデルはミニチャンプス 収集初期に購入したモデル この年の虎之介のモデルは TEST CAR /SHOW CAR /別注モデルなど 沢山のバリエーションが存在する 🏁高木虎之介 (日本) 【決勝出走数】31回 【予選最高位】13位(2回) 1998年 ティレル R1オーストラリア 1998年 ティレル R3アルゼンチン 【決勝最高位】 7位 1996年 アロウズ R1オーストラリア
230913 T.TAKAGI 1999 15FW12C
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1999 4TH PMA McLAREN MERCEDES MP4‐14 D.COULTHARD
デビッド・クルザード2勝上げるも コンストラクター連覇逃す MP4-14 1999年マクラーレン4年目のクルザード チームメイトは変わらずM・ハッキネン ニューマシンのMP4-14は エイドリアン・ニューウェイのデザイン 前年のMP4-13と外見は変わらないものの リアの絞込み ラジエーターコンパクト化 重量配分の見直し ホイールベースの短小化 など大きくコンセプトを変更した クルーザードは予選でPPは無かったものの 予選全てで2列目より前のスタート しかし決勝ではメカニカルトラブルが クルザード車中心に多く発生した それでもR8地元イギリスGP R12ベルギーGP と2勝を上げてR12イタリアGP時点では ワールドチャンピオン争いに残った そこからまさかの3戦連続のリタイア チャンピオン争いから脱落するだけでなく コンストラクターもフェラーリに敗れた 結局チャンピオンのハッキネンの 約2/3のポイント48Pで年間4位に終わった モデルはMINICHAMPS McLaren EDITION シリーズ台紙の28番目 タバコ【WEST】加工しております
230911 D.COULTHARD 1999 3回FW12C
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1999 12TH HOT WHEELS JORDAN MUGEN HONDA199 D.HILL
初の親子WC デーモン・ヒル引退 JORDAN MUGEN HONDA199 1999年ジョーダン2年目のデイモン・ヒル チームメイトはH・H・フレンツェン 予選・決勝ともフレンツェンに押されて 前半6戦での入賞はR4サンマリノの4位のみ R7フランスGP早々にシーズン限りの引退発表 その後R8地元イギリスで5位 R11ハンガリー/R12ベルギーの6位 年間では4度の入賞 7ポイント12位 最終R16日本GP鈴鹿でこの年のジョーダンの テストドライバーであった中野信二が 代役での出場も噂されたがヒルは 最終戦まで出場し最後はリタイヤに終わった 1996年に初の親子2代でのチャンピオンと なったデーモン・ヒルであったが その後アロウズ1年・ジョーダン2年の わずか3年で静かにサーキットを去った モデルはHOT WHEELS 1999年・翌2000年のジョーダンは HOT WHEELSでの販売となったが 後のジョーダンSETとして ミニチャンプスからも(画像5) ドライバ―フィギュアレスで発売された 🏁デーモン・ヒル (イギリス) 【決勝出走数】 114回 (入賞56回-表彰台42回) 【予選最高位】 PP(20回) 【決勝最高位】 優勝(22回) 【ファステストLAP】 (19回) 【WORLD CHAMPION】1996年
230904 D.HILL 1999 7FW12C