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1977 12TH SPARK COPERSUCAR FD04 E.FITTIPALDI
コパーシュカー2年目 カラー変更 エマーソン COPERSUCAR FD04 1977年エマーソンは兄のウイルソンが 設立したチーム コパーシュカー2年目 序盤2戦はインゴ・ホフマンが2NDドライバー 前半戦は前年度のマシンFD04を流用し カラーは自国ブラジルのナショナルカラー でもあるイエローに変更された 開幕戦アルゼンチンGPで決勝4位 R2地元ブラジルGPでも連続4位獲得 序盤4戦で3度の入賞と全戦完走 前年度のマシンの信頼性がUPし好成績 後半戦はニューマシンF5を投入したが 一転不振で予選落ち2回 入賞は1回 最終戦日本GPは残念ながら欠場 シーズンでは4位3回 5位1回 11ポイントでランキング12位 実質1人ドライバーながらチームも コンストラクター9位と着実に進歩した モデルはSPARK R2ブラジルGP 仕様 予選18位→決勝4位入賞 鮮やかなブラジルイエローのマシン FD04は信頼性が増し1977年使用された 7戦中6戦で完走 3度の入賞
240517 E.FITTIPALDI 1977 28FW12C
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1977 11TH PMA BRABHAM ALFA ROMEO BT45B H.J.STUCK
ハンス・スタック ベストシーズン 自身初&連続表彰台 BRABHAM BT45B 1977年スタックはR3南アフリカGPに ロスマンズのマーチでエントリー R4アメリカWESTからは飛行機事故で他界した カルロス・パーチェの後任として ブラバム・アルファロメオに移籍 チームメイトはジョン・ワトソン 3度の入賞して迎えたR11ドイツGP 予選5位→決勝 自身初の3位表彰台獲得 R12オーストリアGPでも連続の3位 スタックのキャリア表彰台はこの2度のみ R15アメリカEASTでキャリア唯一となる 予選フロントロー獲得 オープニングラップから14周 こちらも唯一となるリードラップを記録も ヘビーウェットコンディション中 単独スピンでリタイア 勝利を逃した 年間では5度の入賞で15ポイント ワトソン(13位)を上回るランキング11位 スタックのベストシーズン しかしニキ・ラウダ加入に伴いシート喪失 スタックは翌1978年はシャドウに移籍 モデルはミニチャンプス GP仕様表記無しのRACE CAR仕様 ゴードン・マレー作の1976年導入した BT45の改良版Bスペック仕様 BT45Cとして翌1978年R2まで使用された マルティニレーシングのスポンサーは この年限りでブラバムは終了
240408 H.J.STUCK 1977 8FW12C
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1977 19TH SPARK ATS PNSKE PC4 J.P.JARIER
ATS ペンスキー買収でF1参戦 ジャン・ピエール・ジャリエ PNSKE PC4 ドイツの自動車部品サプライヤーATS 1976年末F1でペンスキーを買収 1977年チームATSとして参戦 マシンはペンスキー製を使用 ドライバーは前年までシャドウに所属した ジャン・ピエール・ジャリエの1台体制 R4アメリカGPより参戦 予選9位→決勝6位 初戦でポイント獲得の活躍をみせたものの 以降の入賞は無くペンスキーは この年限りでF1から撤退 チームATSは翌1978年からは コンストラクター名もATSとして 1984年まで参戦する ジャリエは終盤シャドウとリジェからも 1戦ずつ参戦もポイント獲得はなかった モデルはスパーク R4アメリカWEST GP アメリカの名門PENSKEの車体の 最後のポイント獲得となった
240322 J.P.JARIER 1977 34FW12C
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1977 (37TH) EBRRO (HEROS RACING) KOJIMA KE009 K.HOSHINO
星野一義 2度目のF1参戦 1977年日本GP KOJIMA KE009 1977年コジマエンジニアリングは 前年注目を集めたKE007後継KE009を開発 同年の最終戦日本GPに登場させた 当初はダンロップタイヤでの出走予定で あったが日本グランプリのテレビ放映権を ブリヂストンが所持していたため 初参戦となるブリヂストンタイヤを装着 ドライバーはブリヂストンタイヤ系の 星野一義をHEROS RACINGとコラボで起用 予選は前年度コジマでの(長谷見)10位には 及ばなかったものの参戦した日本人3人の (高橋国光 高原敬武)中ではトップの11位 決勝はブリヂストンタイヤとの マッチングにも苦しみ2周遅れの11位 星野とコジマのF1挑戦はこの年で終了した モデルはEBRRO 星野一義の2度目 F1挑戦となった R17日本GP仕様 予選11位→決勝11位 白いボディーにコックピット前に日の丸 スポンサーのUNI-PEXは1974年設立の 電気通信機器の販売会社
240317 K.HOSHINO 1977 52FW12C
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1977 16TH SPARK SHADOW DN5B R.ZORZI
チームメイトの悲劇 R.ゾルツィ SHADOW DN5B レンツォ・ゾルジ イタリア出身 1975年 ヨーロッパF3 3位(1勝) 同年・翌1976年にウイリアムズで 各1戦 資金持ち込みでF1出場 1976年 後のアロウズチーム設立の1人 フランコ・アンブロオの支援を受けて シャドウのシート獲得 チームメイトはトム・プライス R2ブラジルGP 予選18位 決勝は完走7台のサバイバルの中 生き残りキャリア唯一となる6位入賞 悲劇はR3南アフリカGP ゾルジはエンジンが壊れコース脇に マシンを止めたが小規模な火災が発生 その火災の消火を試みたマーシャルが コースを横切りゾルジのマシンに向かう際 レース中のチームメイトのトム・プライスの マシンにはねられ死亡 プライスもマーシャルの消火器が直撃し 帰らぬ人となってしまった ゾルジはR5スペインGPまでの出場で 資金が尽きてシートを失い これがF1での最後のレースとなった モデルはスパーク ゾルジのキャリア唯一入賞の R2ブラジルGP 予選18位→決勝6位 旧型のDN5Bの漆黒マシンで 資金援助のあったアンブロオの 名前がマシンに貼られている
240224 R.ZORZI 1977 17FW12C
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1977 19TH SPARK LIGIER JS7 J.P.JARIER
1977年日本GP リジェ初の2台体制 ジャンピエール ジャリエ LIGIER JS7 1977年 最終戦日本GP 富士SW この年ジャック・ラフィーで初優勝を 果たしたリジェは初の2台目をエントリー ドライバーはジャンピエール・ジャリエ ジャリエは当年ATSで出場し R4アメリカWESTで6位入賞 その後途中チームを離脱 シャドウで1戦出場し最終戦のみリジェ 慣れないマシンに手こずり予選17位 決勝は3周目にマトラエンジンが壊れリタイア チームメイトのラフィーが5位入賞をしている ジャリエはこの後2度リジェに所属 1981年2戦のみ1983年レギュラーで参戦も リジェでのポイント獲得は出来なかった モデルはスパーク 日本GP仕様 予選17位→決勝リタイア スパークの初期頃生産 シルバースリーブ タバコブランド GITANES仕様 リジェでは唯一となるカーナンバー27 27番は翌1978年~アラン・ジョーンズがつけ 1980年ウイリアムズに初栄冠をもたらし 1981年はジル・ヴィルヌーブが付けて その後 所謂フェラーリのカリスマ ナンバーとなった
240220 J.P.JARIER 1977 27FW12C
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1977 (45TH) IXO RENAULT RS01 J.P.JABOUILLE
オールフレンチ ルノーデビュー ジャン・ピエール・ジャブイユ RENAULT RS01 1977年フランスのルノーが参戦 RS01にはF2用をベースとした F1初のターボエンジンを搭載 タイヤはミシュランが初参戦 F1初のラジアルタイヤを装着 燃料はエルフ ドライバーはジャン・ピエール・ジャブイユ オールフレンチでのF1挑戦が始まった R9フランスGPはあえて避けて R10イギリスGPよりデビュー 予選21位→決勝はエンジンが壊れリタイア 2戦欠場後のR13オランダGPでは 予選10位と健闘も決勝はリタイア 年間で5戦出場 1度予選落ち 決勝進んだ4戦はいずれもリタイア たびたびエンジンから白煙をあげ イエロー・ティーポットを揶揄された 最終戦日本GP(富士SW)は不参加 F1界においてはターボエンジン 幕開けに向けた記念すべき1台 モデルはIXO (デアゴスティーニ) F1マシンコレクション GP仕様の表記はないが フロントウイング形状 リアウイングのカラー・ロゴから 初参戦のR10イギリスGP仕様と思われます
240208 J.P.JABOUILLE F1マシンコレクション 1977FW12C
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1977 17TH SPARK ENSING N177 C.REGAZZONI
チームエンサイン 初のフル参戦 C・レガッツォーニ ENSING N177 トータル6年間過ごしたフェラーリを 離れたクレイ・レガッツォーニは 1977年エンサインに移籍 エンサインは1台エントリー 中盤よりセオドールがエンサインの 車体を購入してP・タンベイがエントリー エンサインN177は前年のN176を マイナーチェンジしたのみながら 開幕戦で予選12位→決勝6位入賞 中盤自身初の予選落ちをするも 終盤R14イタリア R15アメリカで 連続で5位入賞で年間5P ランキング17位 タンベイも同じく5Pでエンサインの コンストラクター10Pはベストリザルト エンサインは前年不参加の 最終日本GP(富士SW)にもエントリー レガッツォーニの予選はスポット参加した 星野一義(KOJIMA)の一つ前の10位 決勝は43週エンジンが壊れリタイア モデルはスパーク 開幕戦アルゼンチンGP予選12→決勝6位 マシンにはレガッツォーニの パーソナルスポンサーである スイスの時計ブランドTISSOTがスポンサー N177のマシンは1979年途中まで使用
240201 C.REGAZZONI 1977 22FW12C
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1977 14TH PMA TYRRELL FORD P34 R.PETERSON
ティレル6輪 P34 2NDシーズン 苦戦のロニー・ピーターソン 1977年ティレル6輪 2シーズン目 マーチよりロニー・ピーターソンが移籍 パトリック・デパイユはチーム残留 P34はトップスピード向上のため エンジンまで覆うカウルを開発 FIRST NATIONAL CITYの スポンサーが付きコックピット周りは 白のアクセントのカラーに変更 移籍のピーターソンは6輪に馴染めず 開幕より4戦連続のリタイア R7ベルギーGPでシーズン唯一の表彰台3位 R15アメリカでFLを記録するものの 他の入賞は2回にとどまり年間14位 R17日本GPは予選18位 決勝は6周目にビルヌーブ(フェラーリ)と 絡みリタイアに終わる ピータソンは翌1978年はロータスに戻り これが最後のシーズンとなってしまう モデルはミニチャンプス 1977年のP34のモデルは 先にモナコGP仕様が発売され 後にGP仕様表記の無い仕様が発売された 珍しいパターンでフルカウルの再現と ドライバ―フィギュアが改良されている
231229 R.PETERSON 1977 1回FW12C
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1977 (30TH) SPARK HESKETH 308E H.ERTL
フランク・ダニー作 HESKETH 308E ハラルド・アーテル ポイント獲得ならず 1977年ヘスケスは資金難により 開幕~R4までを欠場 R5スペインGPでニューマシン308Eを投入 翌1978年序盤まで使用されて ヘスケスの最後のマシンとなった このヘスケス308Eは後に 空力のスペシャリストとも呼ばれ ウイリアムズ・ロータス・リジェ等で 活躍したフランク・ダニーのデザイン ドライバ―は前年より残留の ハラルド・アーテル(オーストリア) チームメイトはルパート・キーガン アーテルはR7ベルギーGP 予選25位→決勝9位が最高位 R9フランスGPでシーズン2度目の 予選落ちを最後にチームを離れ ヘスケスもノーポイントでシーズン終了 モデルはスパーク R7ベルギーGP仕様 アートル シーズンベスト9位 メインスポンサーのHEYCOは ナイロン樹脂製や金属製の配線材料を 販売するアメリカの会社 1970年代ではあまり見ないFORDのロゴが フロントウイングに存在する
231214 H.ERTL 1977 25FW12C
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1977 2ND PMA WOLF FORD WR3 J.SCHECKER
ウルフ初戦勝利の快挙 ジョディー・シェクター WOLF WR3 それまでフランク・ウイリアムズの スポンサーであったカナダの 石油王のウォルター ウルフが 半ば強引にチームを買取 ウォルター ウルフ レーシングを立ち上げた ウルフWR1は所謂キットカー ポスルズウェイトが設計をまとめ上げ 当初から起用予定のドライバ― ジョディー・シェクターの体格に合わせて コックピットが造られている 迎えた開幕戦アルゼンチンGPで 予選10位から上位陣の脱落にも助けられて 残り6周でトップに立ちまさかの優勝 F1創成期の1950年代を除いた場合 参戦チーム初戦での勝利は 1977年のウルフと2009年のブラウンGPのみ その後2勝でシーズン3勝含む9度の表彰台で 年間ドライバ―ランキングは2位 シェクター1台エントリーながら コンストラクタ―4位と堂々たる成績だった モデルはミニチャンプス 最終戦日本GP仕様 台紙はWR1であるが正しくはWR3(形は一緒) 予選6位→決勝トラブルで10位 シーズン唯一のノーポイントの完走 他の完走は全て表彰台獲得 なんといってもインダクションポッド横の 田宮模型の二つの星が輝いています
230915 J.SCHECKTER 1977 2回FW12C