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1974 14TH SPARK (FRANK WILLIAMS) ISO Marlboro FW03 A.MERZARIO
F・ウイリアムズに移籍 キャリア最高予選3位 A・メルツァリオ ISO Marlboro FW03 1974年フェラーリを離脱した アルトゥーロ・メルツァリオは フランクウイリアムズのチームに移籍 コンストラクター名称はISO Marlboro チームは基本メルツァリオ1人体制で 途中数名のドライバーがスポット参戦 終盤は新人ジャック・ラフィーが加入 メルツァリオはR3南アフリカで キャリアベストの予選3位→決勝6位入賞 R14イタリアGPは予選15位ながら 決勝は4位入賞でこちらもキャリアタイ記録 並びにメルツァリオの生涯最後の入賞 年間では入賞2回 ランキング14位 モデルはスパーク メルッザリオの地元 R14イタリアGP仕様 予選15位→決勝4位 メルッザリオ キャリア最後5度目の入賞 タバコブランド Marlboro貼付 前年度フェラーリ所属時に 設計ミスなどもありまともに走行できなかった 事に対してエンツオ・フェラーリは謝罪の意を 述べており ファラーリから支援を受け メルッザリオのヘルメットには 跳馬のロゴが付けられている #1974年
240523 A.MERZARIO 1974 20FW12C
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1974 (21ST) SPARK (HILL) LOLA T370 G.EDWARDS
チーム ヒル ローラのシャーシで参戦 ガイ・エドワーズ デビュー LOLA T370 ガイ・エドワーズ イギリス出身 1974年 チーム ヒルのセカンドドライバー としてF1デビューを果たす チームヒルはこの年イギリスの コンストラクターであるローラにマシンを依頼 エリック・ブロードウェイが設計した T370はF5000がベースで巨大エアボックが特徴 開幕戦 アルゼンチンGP 決勝11位完走 R6モナコGP決勝8位 R7スウェーデン決勝7位 予選ではエースのグラハム・ヒルに3度勝つなど まずまずの走りを見せたが怪我の影響もあり R10・R11 連続予選落ちしてチームを解雇 結果的にR7スウェーデンGPの決勝7位が エドワーズのキャリアベストリザルトとなった モデルはスパーク 開幕戦アルゼンチンGP仕様 予選25位→決勝11位 チームのメインスポンサーである タバコブランド Embassy仕様 ガイ・エドワーズは息子シーン・エドワーズも レーシングドライバーであり 2013年ニュルブルクリンク24時間レース覇者 同年の映画〖ラッシュ/プライドと友情〗に 父のガイ・エドワーズ役で出演の珍しい経歴 シーンは残念ながらこの年にレース事故死
240512 G.EDWARDS 1974 1/43FW12C
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1974 (27TH) SPARK BRABHAM BT44 R.OPEL
リヒテンシュタイン出身 オペル一族 リッキー・フォン・オペル リッキー・フォン・オペル 出生地はアメリカ 国籍はF1で唯一となるリヒテンシュタイン 曾祖父はドイツ自動車メーカー オペルの創始者アダム・オペル 1972年イギリスF3 チャンピオン 1973年エンサインからF1デビュー 1974年開幕戦のみをエンサイン R4スペインGPより R・ロバーツの代わりに ブラバムのセカンドドライバーとして出場 資金持ち込みでシート獲得 R4スペイン R5ベルギー 連続リタイア R6モナコは予選落ち R7スウェーデンGP予選20位→決勝9位 R8オランダGP予選23位→連続決勝9位 R9フランスGPは予選落ち この後ブラバムのセカンドドライバーは カルロス・パーチェとなり リッキー・フォン・オペルの F1でのキャリアは終了 その後タイの田舎にある仏教僧院で僧侶となり 外界との連絡を絶っている状態と言われている モデルはスパーク R7スウェーデンGP仕様 予選20位→決勝9位 ゴードン・マレー作 三角断面モノコックなど 特徴的なフォルムのBT44 シーズン終了後 富士スピードウェイで F1のデモンストレート・ランに カルロス・ロイテマンがこのマシンで出走 桑島正美もBT44をテスト走行させている 🏁リッキー・フォン・オペル(リヒテンシュタイン) 【決勝出走数】 11回(入賞0回 予選落ち回) 【予選最高位】 10位 1973年 ENSING R10オランダ 【決勝最高位】 9位(2回) 1974年 BRABHAM R7 スウェーデン 1974年 BRABHAM R7 オランダ
240215 R.OPEL 1974 8FW12C
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1974 (31TH) SPARK SURTEES TS16 D.QUESTER
ディエター・クエスター F1唯一の出場 SURTEES TS16 ディエター・クエスター オーストリア出身 1969年のF1ドイツGP 当時参加可能であったBMWのF2のマシンで エントリーするも 同BMWチームの ゲルハルト・ミッターがマシントラブルで 還らぬ人となってしまいBMWチームは棄権 クエスターもレースを欠場した その5年後の1974年母国オーストリアGPに チーム・サーティスで出場 この年サーティスはC・パーチェと J・マスがシーズン途中で離脱 オーストリアGPにはプライベター含め サーティスから4名のドライバーが エントリーしたが 決勝進出は クエスター(予選25位)ただ1人 決勝はトップから3周遅れの9位完走 クエスターのF1はこの1戦限り 他のカテゴリー とりわけ24時間レースは 多数の参戦があり生涯で53回出場 2018年にHSRクラシック・デイトナが 自身最後のレースで当時年齢は79歳であった モデルはスパーク オーストリアGP仕様 予選25位→決勝9位 マニアックなモデルのリリースの多い ドイツのレースランド社別注モデル
240206 D.QUESTER 1974 300FW12C
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1974 (42ND) SPARK BRABHAM BT44 R.ROBARTS
ゴードン・マレー作 BRABHAM BT44 新人 R・ローバーツ デビュー 1974年ブラバムはカルロス・ロイテマンの チームメイトとしてイギリス出身の 開幕から新人リチャード・ロバーツを起用 ブラバムは資金不足を補う為 ロバーツの持ち込み資金期待 BT44はゴートン・マレー作のBT42の 2分割ラジエター収納のスポーツカーノーズ 三角断面モノコックを継続して採用 ロバーツはR2アルゼンチンの決勝15位が最高 R3終了時で持ち込み資金が不足し代りに オペル一族のリッキー・フォン・オペルに シートを奪われその後複数のドライバ―に交代 ロバーツはイソ・マールボロ(ウイリアムズ)で R7スウェーデンGPエントリーも決勝は未出走 F1の参戦は1974年限りで終了 モデルはスパーク 開幕戦アルゼンチンGP仕様 キャリアベストリザルトの予選23位 決勝は35/53でギアボックスが壊れリタイア スポンサー獲得が難航してマシンは テスト仕様のようにまっ白でカーナンバー⑧と GOODYEAR・CAMPIONプラグのロゴのみ存在
231222 R.ROBARTS 1974 8FW12C
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1974 9TH SPARK TYRRELL 007 P.DEPAILLER
パトリック・デパイユ 初のフル参戦 キャリア唯一のPP TYRRELL 007 1974年前年度の最終戦F・セーベルが他界 哀しみのチャンピオン ジャッキー・シチュワートが引退 ティレルは1972年に自チームで スポット参戦したパトリック・デパイユ起用 チームメイトはジョディー・シェクター デパイユは旧車のティレル005で 開幕戦のアルゼンチンGPで6位初入賞 デパイユの生涯入賞は36回 R3南アフリカGP予選15位→決勝4位 R7スウェーデンGPではニューマシンの ティレル007で予選PPを獲得 デパイユのPPはキャリア唯一 決勝は2位 シェクターと1・2フィニッシュ デパイユの通算表彰台は19回 フル参戦初年度の入賞6回で年間9位 チャンピオン争いに絡んだシェクターとは 約3倍のポイント差がついた F1と並行して参戦したヨーロッパF2は 年間4勝をあげてチャンピオンを獲得 モデルはスパーク R7スウェーデンGP仕様 デパイユ生涯唯一のPPと2位初表彰台 さらに自身初のファステストラップも記録 デパイユのFLは生涯4回
231217 P.DEPAILLER 1974 1回FW12C
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1974 11TH IXO McLAREN FORD M23 M.HAILWOOD
マイク・ヘイルウッド F1ラスト YARDLEY McLAREN FORD M23 1974年マクラーレンは新たなスポンサーで タバコの多国籍企業フィリップモリスの マールボロとアメリカ石油のテキサコを獲得 しかしながら前年までの化粧品会社 ヤードレーとの契約も残っており 所謂Bチームとしてプラス1台体制を取り そのチームにマイク・ヘイルウッドを起用 ヘイルウッドは開幕から3戦連続入賞 R3南アフリカGPは自身2度目の表彰台3位 R4以降の入賞はR8オランダの4位のみ R11ドイツGP終盤5位走行中に マシントラブルによりバリアに衝突 長時間閉じ込められて両脚を骨折 そのままF1からは引退となった その後2輪ドライバ―としては復帰し マン島TTレースと2年連続制覇 1981年に交通事故により愛娘とともに 残念ながらこの世を去った 享年40歳 モデルはデアゴスティーニ(IXO) F1マシンコレクションシリーズは その年の主役以外のモデルも リリースしていたのが魅力のひとつ ヘイルウッドの最後の雄姿の YARDLEY McLAREN M23もその1台 🏁マイク・ヘイルウッド (イギリス) 【決勝出走数】50回(入賞10回-表彰台2回) 【予選最高位】 4位(2回) 1972年 SURTEES R2 南アフリカ 1974年 McLAREN R8 オランダ 【決勝最高位】 2位 1972年 SURTEES R10イタリア 【ファステストLAP】1回 1972年 SURTEES R2 南アフリカ
231027 M.HAILWOOD F1マシンコレクション 1974FW12C
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1974 (30TH) SPARK AMON AF1 C.AMON
クリス・エイモンオーナー兼ドライバ― チーム〖エイモン〗設立 AMON AF1 1974年 クリス・エイモンはかつて所属の フェラーリが再度獲得との噂もあったが 実現せずに前年度所属したテクノの マシンを基にオリジナルのマシン AF1を制作チーム〖エイモン〗で参戦 大型のリアウイングを装備しており フロントウイングはフロントノーズ後端に 1枚のウイングが乗った形状であったが ノンタイトル戦の事故を受けて 一般的なウイングノーズに変更 R4スペインGPから参戦 予選24位 決勝はブレーキシャフトが壊れリタイア R6モナコは予選20位で通過も 決勝はトラブルもありスタートせず R11ドイツは2台体制となり 同郷のラリー・パーキンスが出場するも 2台とも予選通過ならず R13イタリアGPも予選落ちで 資金難も重なりチーム〖エイモン〗は わずか4戦のエントリーで消滅した エイモンは1974年の終盤2戦を BRMで出場し最終戦アメリカGPでの 予選12位→決勝9位がシーズンベスト
230527 C.AMON 1974 30FW12C
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1974 6TH IXO BRABHAM BT44 C.REUTEMANN〖🏆3〗
1974年 R5ベルギーGP 1戦限りのHITACHIのスポンサー仕様 カルロス・ロイテマンは ブラバムで3シーズン目の 1974年R3南アフリカGPで初優勝 迎えたR5ベルギーGPは一転苦戦 ゴードン・マレー デザインのBT44が ニヴェルサーキットに合わず予選24位 決勝も62周目(全85)燃料系トラブルでリタイア このGPは1戦限りで日本のHITACHがサポート HITACHIのロゴと赤い特徴的なマーク CAR RADIO CASSTTE PLAYER と 書かれたマシンで出場した ブラバムはこのGPに5名エントリー レギュラードライバーの C・ロイテマン J・ワトソンに加えて R・フォン オペル オペル一族 F1で唯一のリヒテンシュタイン出身 G・ラルース (フランス) 1987年~のラルースチーム創設者 T・ピレット (ベルギー) F1で2組目の親子ドライバ― バラエティーなドライバ― ラインナップであった カルロス・ロイテマン 追悼モノ日記↓ https://muuseo.com/FW12C/diaries/3 #F1-1974年 #HITACHI #1974年
C.REUTEMANN F1マシンコレクション 1974 1回FW12C