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2000 9TH HOT WHEELS JORDAN MUGEN HONDA EJ10 H.H.FRENTZEN
最後の無限HONDAエンジン フレンツェン JORDAN MUGEN HONDA EJ10 2000年フレンツェンはジョーダン残留 チームメイトはヤルノ・トゥルーリ 前年度コンストラクター3位 終盤までチャンピオン争いに絡んだ フレンツェンであったが 2000年は歯車のかみ合わなかった1年 表彰台は3位2回 他の入賞は6位3回 シリーズランキングは11P 9位に終わる R15アメリカGPでの決勝3位が 最後のシーズンとなった無限HONDAエンジン 最後の表彰台(16回)と入賞(63回)となった モデルはHOT WHEELS GP表記の無い RACE CAR仕様 1991年からF1参戦したジョーダン この年よりマシンの名称がEJ(10)に変更 EJはエディー・ジョーダンの略で F1参戦10シーズン目のマシン #2000年
240605 H.H.FRENTZEN 2000 5FW12C
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1999 3RD HOT WHEELS JORDAN MUGEN HONDA199 H.H.FRENTZEN
フレンツェン ベストシーズンの活躍 年間2勝 JORDAN MUGEN HONDA199 1999年 フレンツェンはジョーダンに移籍 チーム・メイトはデーモン・ヒル 前年度加入のマイク・ガスコインが手掛けた ジョーダン199はローダウンサーキット 中心にマシンの威力を発揮 フレンツェンは戦略が決まった R7フランスGPでシーズン初勝利 R13イタリアGPは予選2位から トップのハッキネン(マクラーレン)の ミスにも助けられてシーズン2勝目を上げ この時点ではチャンピオン争いにも加わった 最終チーム61ポイント中54ポイントを フレンツェンが稼ぎ出し ジョーダン史上チームベストの コンストラクタ―3位を獲得 自身も年間3位となり キャリアベストシーズンの活躍であった (ベストリザルトは1997年 年間2位) モデルはHOT WHEELS ジョーダンのチームロゴと 右下には紅白の縁石のある台座で このデザインは1999年モデルのみ ミニチャンプス(画像2)からは チームセットでドライバ―フィギュアと カーナンバー無でリリースされている
231115 H.H.FRENTZEN 1999 8FW12C
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2001 12TH PMA JORDAN HONDA EJ11 H.H.FRENTZEN
★2026年 HONDA パワーユニット★ アストンマーチンで復活 現在のアストンマーチンF1を遡ると 2021~アストンマーチン 2018~レーシングポイント(R13より) 2008~フォースインディア 2007~スパイカー 2006~ミットランド 1991~ジョーダン 現在のアストンマーチンの はじまりはジョーダンチームで HONDAとのかかわりも多かった 2001年過去3シーズン無限ホンダが ジョーダンにエンジン供給を行っていたが この年はHONDAエンジンに変更 ジョーダンHONDAが誕生 (2001年はアロンソのデビューの年) ドライバ―はH・Hフレンツェンが残留 チームメイトはヤルノ・トゥルーリ フレンチェンは序盤4戦で全て完走 4位・5位・6位各1回入賞と出だしは好調も 中盤からはマッチングに苦しみ その後は入賞無しと苦戦 R12ドイツGP前に突如解雇されて J・アレジと交換の形でプロストに移籍した HONDAは翌2002年もジョーダンに供給 佐藤琢磨のデビューも後押しした だいぶと先ですが 2026年のアストンマーチンHONDAの 挑戦に期待します!! https://muuseo.com/FW12C/items/1150?theme_id=34513
230525 H.H.FRENTZEN 2.304 11FW12C
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1998 7TH PMA WILLIAMS MECACHROME FW20 H.H.FRENTZEN
ウイリアムズ黄金期の終焉 WILLIAMS FW20H・H・フレンツェン 1998年フレンツェンはウイリアムズ2年目 デザイナーのA・ニューウェイの離脱と 最強を誇ったルノーエンジンの撤退で 前年チャンピオンチームは一転不振に陥る フレンツェンは開幕戦で3位表彰台 これはマクラーレン1・2フィニッシュに 周回遅れにされてのかろうじての3位 この年の表彰台はこのGP 1戦のみ マシンの開発が進まなかった事もあるが ウイリアムズのドライバ―に対して 高圧的な態度もフレンツェンには合わず それが成績低迷した原因である所も大きい 16戦中入賞7回 17ポイントで年間7位 この年限りでウイリアムズを離脱 翌1999年はジョーダン無限に移籍 タバコスポンサーがロスマンズから 当時の子会社のオーストラリアの ウインフィールドに代わりカラーリングも変更 タバコ禁止GPではカンガルーのロゴに変わった #F1-1998年
230318 H.H.FRENTZEN 2 1/43FW12C
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1997 2ND PMA WILLIAMS RENAULT FW19 H.H.FRENTZEN〖🏆1〗
H.H.フレンチェンウイリアムズ移籍 初勝利・初PP WILLIAMS RENAULT FW19 1997年フレンチェンは前年度 ワールドチャンピオン D・ヒルの代わりに ウイリアムズに移籍 TMはJ・ビルヌーブ R4サンマリノGPで予選2位→初優勝 フレンチェンの通算勝利は3勝 R5モナコで予選初ポール・ポジション 終盤戦で5戦連続表彰台もあり コンストラクターチャンピオンに貢献 しかしJ・ビルヌーブの獲得ポイントの 約半分の42PでTM対決では見劣りする結果 年間順位はシューマッハのP剥奪で2位 フレンチェンはONYXと独占契約を結んでおり PMAの台紙はGERMAN DRIVERの表記 ONYXからは数種類バージョンが発売 ①PMA Rothmans仕様 ②PMA 通常版 ③ONYX 通常版 ④ONYX Castorolバージョン ⑤ONYX フランスGP仕様 ⑥ONYX イギリスGP仕様 ⑦ONYX ドイツGP仕様 #F1-1997年
221116 H.H.FRENTZEN 4 1/43FW12C
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1996 12TH PMA SAUBER FORD C15 H.H.FRENTZEN
フレンツェン3年目最後のザウバー 新型ZETEC-R V10 SAUBER FORD C15 フォードは拘りのV8エンジンから 全面新設計の軽量・小型ユニット ZETEC-R V10を新シャーシC15に搭載 しかしシーズン序盤からパワー不足 ドライバビリティの悪さもあり苦戦 フレンツェンは雨のR6モナコGP R7スペインGPの2度の4位が最高位 最終戦は得意の鈴鹿で6位入賞 結局3度の入賞で年間は12位に終わる フレンツェンは翌1997年は チャンピオンチームのウイリアムズに移籍 フォードエンジンも新規参戦チームの スチュワートグランプリに奪われた ザウバーとしては成績もパッせず 挙句エースドライバ―とエンジンを失う 明るい話題に欠いたシーズンとなった 1996年シーズンよりマレーシアの 公営企業 ペトロナスがサポート 単なるスポンサーでなく 共同で新会社を設立して関係を強化 ロゴはバックが鮮やかなミントグリーン #F1-1996年 #F1
H.H.FRENTZEN 15 1/43 SAUBERFW12C
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1995 9TH PMA SAUBER FORD C14 H.H.FRENTZEN
ハインツ・ハラルド・フレンツェン 初の表彰台獲得 SAUBER FORD C14 1995年ザウバーはメルセデスと決別 10億円とも言われた違約金を基に 1994年のチャンピオンエンジン FORD ZETEC-R を獲得して望んだ フレンチェンは予選ではTMの K・ベンドリンガー/J・C・ブイヨンを 全く寄せつけず17戦全勝 決勝も完走した12戦で全て勝った R12イタリアGPでは予選10位から 自身初の3位表彰台を獲得 フレンチェンの生涯表彰台は18回 そのイタリアGPではTOPチームの 移籍が噂されたが翌1996年も ザウバーに残留が決定 FORDV8→導入されるV10に期待を込めた こちらのモデルの台紙は HEINZ-HARALD FRENTZEN EDITONの 特別仕様で発売されて オリジナルのデザインと写真 プリントのサインが施されて このシリーズはNr.07まで発売された #F1-1995年 #F1 #FRENTZEN
H.H.FRENTZEN 30 1/43 SAUBERFW12C
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1994 13TH PMA SAUBER MERCEDES C13 H.H.FRENTZEN
メルセデス三羽烏の最後の一人 ドイツ出身 ハインツ・ハラルド・フレンチェンのデビュー 前年の1993年は全日本F3000に参戦 チームノバ いわゆる森脇塾で指導受ける 開幕戦は予選5位と速さを見せ R2パシフィックGPで5位初入賞 R7フランスGPがシーズンベストの4位 R15鈴鹿は予選3位→決勝6位 当初はBROKERという名のスポンサーが ついていたが(画像2 ONYX)資金が支払われず 中盤よりスイスのスウォッチグループの TISSOTがスポンサーとなり(画像1) マシンにも時計が描かれている チームオーナーのペーター・ザウバーと 表彰台獲得でマシンをプレゼントするとの 約束が交わされ残念ながら表彰台はかなわずも 最終戦終了後 R2の5位入賞マシンを フレンチェンはプレゼントされている #F1-1994年
H.H.FRENTZEN 30 1/43 SAUBERFW12C