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2000 6TH PMA BENETTON PLAYLIFE B200 G.FISICHELLA
コンストラクター4位返り咲き 3度表彰台 G・フィジケラ BENETTON B200 2000年ベネトン3年目のフィジケラ チームメイトも3年連続A・ブルツ 前年度の挑戦的なマシンから一転 シンプル&ベーシックなコンセプト フィジケラはR2ブラジルGPで2位表彰台 前半8戦 表彰台3回 入賞5回 全戦完走 後半戦は他のチーム開発が進み苦戦 フィジケラはノーポイントに終わるも 前半戦のポイント貯金でコンストラクター ランキングは前年度6位から 1997年以来となるトップ4に返り咲いた モデルはミニチャンプス GP表記の無いレース仕様 エンジンは元々ルノーでスーパーテックが開発 ベネトンの自社ブランド プレイライフのバッジ このベネトン プレイライフブランドは 同2000年のシドニーオリンピックで イタリア代表のウエアーとシューズに仕様 エンジンバッジ名称ははこの年で終了
240514 G.FISICHELLA 2000 11FW12C
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1999 9TH PMA BENETTON PLAYLIFE B199 G.FISICHELLA
ジャンカルロ・フィジケラ 3年連続 カナダ表彰台 BENETTON B199 フィジケラはベネトン2年目 チームメイトは昨年同様A・ブルツ ニューマシンB199を投入し フィジケラは開幕~R6で4度の入賞 R6カナダGPは2位表彰台を獲得 フィジケラはカナダGPと相性が良く これで1997年のジョーダン時代から 3位→2位→2位と3年連続表彰台 しかしながらこれ以降は 1997年のルノーエンジンがベースの 自社のファッションブランドの1つである PLAYLIFEのバッジネームを付けた エンジンも足を引っ張り入賞はゼロ コンストラクタ―もベネトンのF1参入した 1986年以来となる6位に転落した モデルはミニチャンプス タバコMILD SEVEN仕様に変更 1999年発売分よりミニチャンプスの ドライバ―フィギアの質が向上したが このベネトンとウイリアムズのモデルは 以前のままのフィギアを使用
231031 G.FISICHELLA 1999 9FW12C
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1998 9TH PMA BENETTON PLAYLIFE B198 G.FISICHELLA
ベネトン移籍ジャンカルロ・フィジケラ 自身初のPP獲得 BENETTON B198 1998年フィジケラはベネトンに移籍 チームメイトはアレクサンダー・ブルツ フィジケラはベネトンの名称が無くなる 2001年まで同チームに所属する ベネトンは開幕直前にタイヤを グッドイヤー→ブリヂストンに変更 これが功を奏した事もあり序盤は好調 フィジケラはR6モナコ・R7カナダと 2戦連続で2位表彰台を獲得 R10オーストリアでは雨の予選の中 自身初のポール・ポジション獲得 フィジケラの通算PPは4回 しかし決勝は無念のリタイア GY勢の巻き返しもあり後半は苦戦 最終戦でジョーダンに逆転されて コンストラクターは5位に転落 ベネトンのコンストラクターTOP4陥落は 1987年以来の出来事であった シーズン終盤にチームオーナーが デビット・リチャーズから創業一族の 末っ子ロッコ・ベネトンに移るなど チーム内のゴタゴタが成績にも影響した ベネトンらしい派手なカラーリングから スポンサーのマイルドセブン主体の ブルーを基調とするカラーで 少しおとなしい印象を受ける1台
230423 G.FISICHELLA 5 1/43FW12C
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1997 8TH PMA JORDAN PEUGEOT 197 G.FISICHELLA
ジャンカルロ・フィジケラ ジョーダン移籍 初ポイント・初表彰台・初FL JORDAN 197 G・フィジケラはミナルディからジョーダンへ ラルフ・シューマッハと24歳・21歳の若いコンビ R3アルゼンチンで同士討ちで早くも関係悪化 R4サンマリノGPで予選6位→決勝自身初入賞4位 フィジケラの通算入賞回数は73回 R6スペインで初ファイナルラップ R7カナダで3位 R12ベルギーで2位 表彰台2回獲得 通算表彰台は19回 R10ドイツGPでは予選2位から G・ベルガー(ベネトン)と高速バトルで 優勝を争った(結果はパンクで11位) この年ジョーダンはスポンサーの B&Hの意向もあり鮮やかなイエローに変更 チームが終了する2005年までこのカラー継続 戦闘機のノーズアート風のグラフィックで ノーズコーンをスネークヘッドに見立てた カラーリングが注目された遊び心ある1台 #F1-1997年
221104 G.FISICHELLA 1回 12FW12C
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1996 (19TH) ONYX MINARDI FORD M195B G.FISICHELLA
ジャンカルロ・フィジケラ イタリア出身 愛称フィジコ F1デビューはミナルディ 1996年ミナルディは当初 P・ラミー 井上隆智穂のラインナップであったが 井上のスポンサーが撤退しシート喪失 急遽フィジケラのデビューが決まる 開幕戦オーストラリアで予選16位 TMのP・ラミー(予選17位)を上回る R8カナダGPで再び予選16位→決勝8位 これはフィジケラ ミナルディとも 1996年のシーズンベスト チームは資金難の為シートを R2・3 タルソ・マルケス(ブラジル) R11~ ジョバンニ・ラバッジ(イタリア) に売り渡した為 フィジケラは8戦のみ ONYXのモデルカーからもたくさんの 小スポンサーのデカールと リアウイングのチーム名だけのロゴで ミナルディの苦しい台所事情が覗える ミナルディでの走りが認められた フィジケラは翌1997年 ドライバ―オーディションの 実走テストを経てジョーダンに移籍 #F1-1996年 #F1-デビュー
G.FISICHELLA 21 1/43 MINARDIFW12C