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1990 12TH SPARK LARROUSSE LOLA LC89B A.SUZUKI
約1年ぶり決勝進出 鈴木亜久里 前半2戦限りの暫定マシン LOLA LC89B 1990年 前年度ザクスピードで 全戦予備予選落ちの屈辱を味わった 鈴木亜久里はパーソナルスポンサーで GEOブランドを展開していた エスポ・コミュニケーションが チームオーナーとなったラルースに移籍 チームメイトはエリック・ベルナール チームは序盤戦を前年度の改良型 LC89Bのマシンで戦った エンジンはランボルギーニ 開幕戦アメリカGP 亜久里は予備予選をギリギリ④位で通過 予選は⑱番手で通過し 同チームからスポット参戦した 1988年日本GP以来の決勝進出を果たす 同GPで予備予選通過した他のドライバーも 〇ロベルト・モレノ(ユーロブルン) 予備予選①位→予選⑯位 〇エリック・ベルナール(ラルース) 予備予選②位→予選⑮位 〇オリビエ・グルイヤール(オッゼラ) 予備予選③位→予選⑧位 全て決勝進出している 亜久里はアメリカGP決勝はリタイア LC89BはR2ブラジルGPまで使用され 予備予選②位→予選⑱位→決勝リタイア R3からは新車のLC90が導入され その後日本人初の表彰台につながった モデルはSPARK 開幕戦アメリカGP仕様 モータースポーツ誌 レーシングオンの別注企画 オリジナルのスリーブ仕様 ⬇️↓1990年R3~LARROUSSE LOLA LC90 https://muuseo.com/FW12C/items/327
240613 A.SUZUKI 1989 30FW12C
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1995 17TH PMA LIGIER MUGEN HONDA JS41 A.SUZUKI
日本人2人目のフルタイムF1ドライバ― 鈴木亜久里の最後のマシン 1994年ジョーダンのスポット参戦のみ 1年間浪人生活の亜久里であったが 1995年は無限エンジンと共に フランスチームのリジェで参戦 しかしながら開幕前突如 M・ブランドルとのシェアという形になり 開幕3戦は出場したもののその後は 予定のR7フランスがブランドルになるなど 亜久里本人もいつ出場するのか 分からない不安定な状況 しかし5戦ぶりに出場した R9ドイツで予選18位→6位入賞を果たす これは1991年の開幕戦以来 52戦ぶりの入賞(予選落ち含む) その後R15・16の日本連戦に出場も R16鈴鹿の予選でクラッシュ 肋骨の骨折で決勝は走ることなく 結果的にF1キャリアを終える事となった 日本人初の表彰台ドライバーは 2005年スーパーアグリとして チーム監督としてF1に復帰する 鈴木亜久里(日本) 決勝出走回数 64回 予選最高位 6位 1993年 フットワーク R12ベルギー 決勝最高位 3位 1990年 ラルース R15鈴鹿 #F1最後のマシン #1995
A.SUZUKI 25 1/43 LIGIERFW12C
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1994 (40TH) PMA JORDAN 194 HART A.SUZUKI
1994年のR2パシフィックGPは 日本のTIサーキット英田で開催された (現 岡山国際サーキット) TIはオーナー会社の タナカインターナショナルの略 ジョーダンは出場停止のアーバインの 代役にこの年F1のシートの失った 鈴木亜久里にオファー 当初はスポット参戦を拒んでいたが 初開催のパシフィックGPを 盛り上げる為 了承し出場 予選20位→決勝44週でリタイア TMのバリチェロは予選8位→決勝3位 こちらの亜久里モデルは量産化未発売 ジョーダンセットのジョーダン194を 亜久里のドライバ―フィギュアと カーナンバー・マルボロデカールを加工 ウイング・サイドディフレクター等 細かい仕様は違いますが 雰囲気を感じるだけで満足です 亜久里は結局1994年 パシフィックGPのみの参戦で終了 レース後の有名なインタビュー インタビュー津川哲夫さん 『次頑張ってください』 亜久里さん 『 次ないんだ・・・』 #F1-1994年
A.SUZUKI 15 1/43 JORDANFW12C
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1993 (24TH) SPARK FOOTWORK FA14 A.SUZUKI
≪手から手へ 愛のメッセンジャー≫ 当時のフットワーク社のキャッチフレーズ 1993年 亜久里はフットワークの2年目 マクラーレン製のアクティブサスペンション を導入後の後半8戦は予選でトップ10以上が7回 R12ベルギーでは生涯自己最高の予選6位 しかし決勝は後半8戦で7戦連続リタイア 最終戦の7位がシーズンベストでノーポイント フットワークは業績悪化でこの年で撤退 亜久里もF1シートを失います モデルはR15日本GP仕様(予選9位→決勝R) TOSHIBAのパソコンブランドであった DynaBookのロゴが添付されています 残念ながらFA14の象徴である メゾネットウイングは無しですが TMのワーウィックのモデルでは再現 https://muuseo.com/FW12C/items/241
A.SUZUKI 10 1/43 FOOTWORKFW12C
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1988 (35TH) SPARK LARROUSSE LOLA LC88 A.SUZUKI
1988年R15日本GP 鈴鹿 鈴木亜久里のデビューモデル 翌年ザグスピードでの参戦が決定していたが Y・ダルマスの病気欠場で急遽スポット参戦 (レーシングスーツはダルマスのものを使用) 予選20位→決勝はスピンもあったが16位完走 これ以降ラルース(ローラ)と 日本人ドライバ―との関係ができ 鈴木亜久里(90.91年)片山右京(92年)のレギュラー参戦 鈴木利男(93年)野田英樹(94年)のスポット参戦と 4人の日本人ドライバ―がF1デビューしています 日本人のデビューを切り開く きっかけとなった1台かもしれません #1988
A.SUZUKI Racing on 29 1/43FW12C
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1992 (20TH) SPARK FOOTWORK FA13 A.SUZUKI
#1992
A.SUZUKI 10 1/43 FOOTWORKFW12C
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1991 22ND ONYX LARROUSSE FORD 091 A.SUZUKI
#1991 #F1-1991年
A.SUZUKI 30 1/43 LARROUSSEFW12C
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1990 12TH PMA LARROUSSE LAMBORGHINI LOLA LC90 A.SUZUKI
日本人初の表彰台 1990年日本GP鈴鹿仕様 ランボルギーニエンジン チームラルース F1唯一の表彰台 SUZUKA LEGEND台紙
A.SUZUKI SUZUKA LEGEND 1990 1.296FW12C
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1989 (DNPQ 44TH) SPARK ZAKSPEED 891 A.SUZUKI
無念の全戦予備予選落ち 鈴木亜久里 ZAKSPEED 891 1989年ザグスピードは自製のエンジンから 日本のヤマハとジョイントし参戦 ドライバーは前年度ラルースで スポットデビューした鈴木亜久里と 残留したベルトン・シュナイダー 参加台数の増加に伴い予選の前に 予備予選が実施 金曜日のフリー走行前の 1時間で4台通過の狭き門を13台で競った 初参戦となったヤマハの初期トラブルや マシンの基本デザインも悪く 亜久里は16戦全戦予備予選落ち その内容も予備予選8位(R15鈴鹿)が最高で 9位-1回 10位-4回 11位-2回 12位-6回と (9位のR13ポルトガルは2台の失格有) 散々な内容でチームも延べ30回の予備予選落ち ザグスピードはヤマハとの活動継続を望み 翌1990年も開幕前のテストに参加したが メインスポンサーのWESTタバコを失い 参戦を断念 5年間のF1活動を終了した モデルのR8イギリスGPはタバコ広告禁止の為 Westタバコが→Eastのロゴになっている かつて東京・池袋にあったショップ Racing GERAの別注モデル
A.SUZUKI 35 1/43 ZAKSPEEDFW12C