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2000 (20TH) PMA PROST PEUGEOT AP03 N.HEIDFELD
クイック・ニック F1デビュー N・ハイドフェルド PROST PEUGEOT AP03 ニック・ハイドフェルド ドイツ出身 1999年 国際F3000 チャンピオン(4勝) 同年マクラーレンのテストドライバー 冷静さと速さを兼ね備え 愛称で〖コンピューター・キッド〗 〖クイック・ニック〗などとも呼ばれた 2000年はメルセデス契約の元 プロストからF1デビュー チームメイトはジャン・アレジ チーム内の統率力が無く マシンにも影響を及ぼし 期待されたルーキーも 予選最高13位 決勝最高8位と振るわず チームメイトのアレジとの接触もあった この後2012年までF1をドライブする ハイドフェルドがシーズンポイント無しで 終わるのは2000年のみ 翌2001年はザウバーに移籍 キャリア最高位2位のドライバーの 一人で最終的に183戦出場する モデルはミニチャンプス GP表記の無いRACE CAR仕様 タバコブランド ゴロワーズ禁止時の 白のバーコードバージョン 前年に続きプレイステーションがスポンサー
240531 N.HEIDFELD 2000 15FW12C
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1969 (20TH) Quartzo (Team Gunston) BRABHAM REPCO BT24 S.TINGLE
ローデシア出身 サム・ティングル 最後の出走 BRABHAM REPCO BT24 サム・ティングル ローデシア出身 ローデシアは現在のジンバブエで F1での同国出身エントリーは3名のみ ティングルは隣国であった南アフリカGPのみを スポット参戦1963年~1969年で5回出走 1969年はプライベターTeam Gunston マシンはブラバム レプコ BT24 開幕戦の南アフリカGP 予選はタイム出した中で最下位の17位 決勝はトップから7周遅れながら8位完走 キャリア5回の中でベストリザルト ティングルはこれがF1最後のレースとなり 最終レース時の年齢は47歳であった F1本戦ではポイント獲得はならなかったものの F1非選手権では3度の入賞がある モデルはQuartzo 南アフリカGP仕様 予選17位→決勝8位 Gunstonは南アフリカタバコで ブランドカラーはオレンジ 前年の1968年にF1で初めて タバコのスポンサーカラーを マシンに取り入れたのが このプライベートチームであった
240130 S.TINGLE 1969 17FW12C
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2000 (21ST) PMA MINARDI FONDOMETAL M02 G.MAZZACANE
黄色いミナルディ MINARDI M02 ガストン・マッツァカーネ デビュー 2000年レギュラードライバーとして F1デビューしたのは3人 ①ジェンソン・バトン(ウイリアムズ) ②ニック・ハイドフェルド(プロスト) ③ガストン・マッツァカーネ(ミナルディ) (※スポット参戦 L・ブルティ(ジャガー)) マッツァカーネはアルゼンチン出身 前年度のテストドライバーから昇格 チームメイトはマルク・ジェネ 全17戦の予選は22台出走の中 22位→12回 21位→4回 20位→1回 決勝は速さはかったものの 12戦で完走 シーズンLAP周回数は 意外にも全体の3番目であった 決勝最高位はR6ヨーロッパGPの8位 ハイライトはR15アメリカGP ウエットレースでタイヤ交換を遅らせ 一時的とは言え3位に順位を上げ ハッキネン(マクラーレン)を抑えて走行 しかしその後ピットクルーを轢いて 最後はエンジンが壊れてリタイア マッツァカーネは翌2001年 チームプロストでの4戦がF1で最後 これ以降アルゼンチンのF1ドライバーは 2023年末現在エントリーされていない モデルはミニチャンプス ミナルディは前年のシルバー/ブルーから 鮮やかなイエローに変更 2000年限り珍しいカラーリング
240127 G.MAZZACANE 2000 21FW12C
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1983 (26TH) SPARK ATS D6 M.WINKELHOCK
F1の歴史で初めてメス型成型マシン グフタス・ブルナー作 ATS D6 カーボン素材の技術が進歩 メス型成型をすれば別のカウリングを廃して 型から抜いたモノコック外皮をそのまま ボディとして使えるという発想が生まれ この技術に初めて挑戦したのが デザイナー グフタス・ブルナー 1983年 ATS D6の黒の部分は カーボン地肌そのままにされており 新しい製造方法をアピールする狙いもあった この後メス型成型は瞬く間に広がり F1のスタンダードとなった この年ATSは1台体制でドライバーは マンフレッド・ヴィンケルホック エンジンがBMWに変更された 予選では7位3回を含む シングルグリット8回獲得も 決勝ではリタイアが多く最高8位 後のスタンダードとなる技術も 初年度は試行錯誤で決勝レースで 結果を残すことはできなかった モデルはスパーク R14ヨーロッパGP(ブランズ・ハッチ) 予選9位→決勝シーズンベスト8位 後半戦のサイドポンツーンが 短くなったバージョン ヴィンケルホックはMarlboro契約 ドライバーでヘルメットやスーツに 同社のロゴの別添えデカールを貼付
240126 M.WINKELHOCK 1983 9FW12C
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2022 18TH BBURAGO ALFA ROMEO C42 Z.GUANYU
中国人初のF1ドライバ― ジョウ・グアンユ ALFA ROMEO C42 周冠宇(ジョウ・グアンユ) 中国上海出身 2021年 ヨーロッパF2 3位(4勝) 同年のアジアF3 チャンピオン(4勝) F1ではアルピーヌ(ルノー)の開発ドライバ― 2022年アルファロメロよりF1デビュー チームメイトはヴァルテリ・ボッタス カーナンバー24番は自身がファンである NBA コービー・ブライアントが 付けていた事によるチョイス 開幕戦のバーレーンGP 予選15位から上位脱落もあり10位入賞 デビュー戦での入賞は現在までに 約75名ドライバーで日本人は角田裕毅のみ R9カナダGP シーズンベストの決勝8位 R10イギリスGP 予選唯一のQ3進出の9位 R18鈴鹿ではファステストラップも記録 初年度は3度の入賞6P 年間18位 ボッタスは49P 年間10位 翌2023年もアルファロメオに残留 モデルはBBURAGO 2022年モデルはアルファロメオも BBURAGOからリリースされ 現状ミニチャンプスの現行モデルは 定価約2万円弱と高騰しており 約1/5価格のBBURAGOは コストパフォーマンスが高い
231118 Z.GUANYU 2022 1回FW12C
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1960 (33RD) SPARK COOPER T51 R.SALVADORI
飛行場の王 ロイ・サルバドーリ 1960年 プライベーター COOPER T51 ロイ・サルバドーリ イギリス出身 シルバーストーンやスネッタートンなどの 平坦なイギリスのの飛行場のサーキットで 勝利を積み重ね〖King of the Airfields〗 飛行場の王とも呼ばれたドライバ― かつてイギリスでF1と並び権威のあった インターナショナルゴールドカップの 1956・1958年のチャンピオン 1959年のル・マン24時間のチャンピオン F1は 1952年よりスポット参戦 1958年にはキャリアベストの2位表彰台 あと一歩で勝てなかった最高位2位の一人 1960年はプライベーターで クーパーの車体を使用してスポット参戦 最終戦のアメリカGPでの決勝8位が最高 ライトブルーのメタリック感のある キレイなマシン エンジンはクライマックス アストンマーチンでも2戦エントリーしている モデルはスパーク R2モナコGP仕様 予選12位→決勝リタイア このモナコGPだけでクーパーの車体で エントリーしたのが11名 クーパー年間34名 この年はインディ500も選手権に 組み込まれている為 年間では総勢 91名ものドライバ―がエントリーしてる
231114 R.SALVADORI 1960 14FW12C
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1999 (21ST) PMA BAR 01 SUPERTEC J.VILLENEUVE
ジャック・ビルヌーブ チーム初年度 11戦連続リタイア BAR 01 SUPERTEC 鳴り物入りで登場したBAR シーズン前のプレス発表では ビルヌーブ車➡ラッキーストライク ゾンタ車➡555 ブランドの別々のカラーで 登場したがレギュレーション違反となり却下 結局 左➡ラッキーストライク 右➡555を 真ん中のファスナーでつなぐ斬新なデザイン ジャックは開幕戦~R11ハンガリーまで 11戦連続のリタイア これは現在においても開幕からの 連続リタイアのワースト記録 年度またぎの連続リタイアを含めても 歴代ワースと3位のリタイア記録 (ワースト2位 12戦 A・チェザリス) (ワースト1位 14戦 I・カペリ) 2年前のワールドチャンピオンが まさかのノーポイント 決勝最高はR13イタリアGPの8位 チームのシーズン最高7位は ゾンタの代役のM・サロが記録という BAR1年目は悲劇のシーズンであった モデルはミニチャンプス BAT(ブリティシュ アメリカン タバコ) 社の2大主要ブランド 【LUCKY STRIKE】【555】を それぞれ左右でデカール加工 この年限りのデザイン
231029 J.VILLENEUVE 1999 22FW12C
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1975 (25TH) SPARK MARCH 751 H.J.STUCK
ハンス・スタック 2シーズン目 キャリア唯一のノーポイント MARCH 751 前年度F1で2番目親子ドライバ―で デビューしたハンス・ヨハム・スタック 1975年は後半5戦をよりマーチでエントリー この年のマーチ勢の予選トップとなる R11ドイツ7位 R12オーストラリア4位も 決勝では当該レース含む4戦連続リタイア R12ではマーチのブランビラが優勝 最終戦R15アメリカでの8位が この年唯一の完走で1974年~79年まで 参戦するスタックの唯一の無得点の年 モデルはSPARK スタックの地元R11ドイツGP仕様 予選11位→決勝はエンジン壊れリタイア スポンサーのLAVAZZAは 1895年創業のイタリアの エスプレッソマシンメーカー この年のマーチはドライバ―ごとに メインスポンサーが変わり LAVAZZA H・スタック L・ロンバルディ Beta V・ブランビラ Penske Cars M・ダナヒュー それぞれカラーリングも異なる
230919 H.J.STUCK 1975 10FW12C
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1999 (22ND) PMA BAR 01 SUPERTEC R.ZONTA
リカルド・ゾンタ F1デビュー 新規チーム BAR 01 SUPERTEC リカルド・ゾンタ ブラジル出身 1997年 国際F3000チャンピオン(3勝) 1997年 ジョーダンテストドライバー 1998年 マクラーレンテストドライバー 1999年 ティレルを買収して BATタバコの協力スポンサーのBARでデビュー チームメイトはジャック・ビルヌーブ R2地元ブラジルGPのフリー走行で足負傷 R3~R5まで欠場 代役でミカ・サロが走行 R12ベルギーGPでも大クラッシュをしている 予選最高R7フランスGP10位 決勝最高R14ヨーロッパGP8位 鳴り物入りで登場したBARとゾンタであったが ビルヌーブとともに無得点に終わる 翌2000年もBARに残留
230730 R.ZONTA 1999 23FW12C
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1999 (23RD) PMA MINARDI FORD M01 L.BADOER
入賞無し最多参戦記録更新 ルカ・バドエル MINARDI FORD M01 1999年ルカ・バドエルはフェラーリの テストドライバーを務めながら ミナルディから3年ぶりのF1復帰 チームメイトは新人マルク・ジェネ 開幕戦オーストラリアGPで決勝リタイア このGPで入賞無し最多参戦記録が35になり 1970年代のブレッド・ランガーを抜き 単独でワースト1位となった R2はフェラーリのテストで負傷し欠場 ステファン・サザランが代役で出場 R14ヨーロッパGPではレースが荒れ バドエルは終盤4位走行も 53/66周目にエンジントラブルでリタイア F1での初入賞目前だった為 この時コースサイドの止まったマシンに 寄りかかり 人目もはばからず号泣した 奇しくこのリタイアでチームメイトの マルク・ジェネが6位初入賞 ミナルディチーム4年ぶりの入賞となった バドエルはこの後 フェラーリの テストドライバーを継続で務め 2000年~のフェラーリ黄金期を支える 10年後の2009年にフェリペ・マッサ代役で フェラーリでスポット参戦する モデルは版権の関係でドライバ―名が 〖Italian Driver〗となっている 1999年よりフェラーリのF1モデルが ホットウィールと契約となった為 フェラーリ所属であったバドエルの 表記が出来なかったと思われます
230711 L.BADOER 1999 20FW12C
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1963 (22ND) SPARK LOLA MK4 M.HAILWOOD
天才ライダー マイク・ザ・バイク 4輪F1初挑戦 LOLA MK4 マイク・へイルウッド イギリス出身 2輪のロードレース世界選手権9度制覇 世界GP 3クラス(250/350/500cc)を 制した初のライダー 1963年 REG PARNELL LOLAから F1に2戦限りのスポット参戦 R5イギリスGPロータス24の車体で 予選17位→決勝8位完走 R7イタリアGPローラの車体で 予選17位→決勝10位完走 1この年は2輪をメインに活動 3クラスすべてのドイツGPで優勝 500㏄では8戦中7勝でチャンピオン 翌1964年も2輪と並行して プライベーターでF1フル参戦 そこから一旦F1活動中止するも 1971年~1974年まで再び参戦する #1963年
230629 M.HAILWOOD 40 1/43FW12C
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1961 (22ND) SPARK (UDT LAYSTALL RACING TEAM) LOTUS 18 C.ALLISON
クリフ・アリソン 最後のGP プライベーター LOTUS18 クリフ・アリソン イギリス出身 1958年ロータスでデビュー 1959・1960年はフェラーリでスポット参戦 1960年開幕アルゼンチン 2位表彰台 最高位2位のドライバ―の1人 1961年はプライベーターUDT LAYSTALLで LOTUS18のマシンを購入して参戦 開幕モナコGP予選15位→決勝8位 R3ベルギーはエントリーするも走行せず アリソンはこの年でF1から引退 この年LOTUSの車は本隊を含めて 22名ものドライバ―が使用 アリソンのマシンはF1では珍しい キレイなライトグリーンカラーリング 🏁クリフ・アリソン (イギリス) 【決勝出走数】11回(入賞3回-表彰台1回) 【予選最高位】 5位 1958年 LOTUS R7イギリス 【決勝最高位】 2位 1961年 FERRARI R1アルゼンチン
230610 C.ALLISON 1961 32FW12C
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1991 (30TH) SPARK AGS JH25B G.TARQUINI (GP GERMAN)
AGS 後半戦カラーリング一新 ガブリエル・タルキーニ AGS JH25B 1991年AGSは地元R7フランスGPより 白ベースのカラーリングを変更 AGS発祥の地プロバンス地方の空を イメージしたブルー主体のカラー しかし新たなスポンサーも付かず 成績も振るわず後半戦は予備予選組 モデル仕様のR9ドイツGP タルキーニは予備予選を2位で通過 しかし予選は29位で決勝進出ならず この1991年ドイツGPは 中嶋悟のF1引退が発表 当時は速報誌GPX(山海堂)を購入していたが このGPはF1PRIX(双葉社)も購入 こちらの雑誌にはモデルのAGS JH25B タルキーニ車の写真が珍しく掲載(画像7) タルキーニは新車JH27で R13ポルトガルGPの予備予選3位で通過も 決勝はまたしても予選落ち R14スペインGP~フォンドメタルに移籍 AGSはR14スペインGPでタルキーニと トレードの形でO・グルイヤールを 起用も予備予選落ち このGPをもってF1から撤退した
230609 G.TARQINI 350 18FW12C
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1975 (23RD) SPARK SURTEES TS16 J.WATSON
参戦初年度以来の1台体制 サーティス ジョン・ワトソン SURTEES TS16 1975年チームサーティスは資金難で 参戦初年度1970年以来の1台体制 ドライバーは前年プライベーターで 初のフル参戦 3度の入賞を果たした ジョン・ワトソン(イギリス) マシンは前年度からのSURTEES TS16 R4スペインGP 予選6位の好位置も 決勝レースはR・シュトルメ(ヒル)が 観客を巻き込むアクシデントで 途中でレース終了 決勝8位がリザルト これ以降は大きな見せ場は無かった チームは翌年のマシン開発の為 終盤の3戦を欠場 ワトソンはチーム欠場のGPで ロータスとペンスキーで参戦 翌1976年はそのペンスキーに移籍 マシンはこの年限りの イエローとライトブルーのツートンカラー ライトブルーは矢印⇒のデザイン インダクションポッドのカーナンバー18 スポンサーのMACHBOXのロゴが目立つ1台 #F1-1975年
230324 J.WATSON 1975 18FW12C
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1991 (30TH) SPARK AGS JH25B G.TARQUINI
AGS 3年目ガブリエル・タルキーニ 開幕戦サバイバル 8位完走 資金難で参戦も危ぶまれたAGSであったが チームオーナーも変わり何とかエントリー G・タルキーニはAGS 3年目 AGS初年度の1989年に6位入賞の経験持つ チームメイトはステファン・ヨハンソン 3戦目よりファブリツィオ・バルバッツァ 開幕戦アメリカGP フェニックス市街地 前年の成績(Y・ダルマスの9位)により 予選からのエントリーで22位で通過 決勝は4週遅れながら8位完走 モデル仕様のR4モナコGPで シーズンベストの予選20位で通過 決勝はギアボックストラブルでリタイア このGPが1986年から参戦AGS 最後の49回目の決勝進出となった 数少ないAGS(フランス)スポンサーの中 フロントウイングにイタリアのBBURAGO この時代のモデル発売を狙っていた? このモデルはタルキーニ ヨハンソン車が 販売されたがバルバッツァの リリースのアナウンスが無い SPARKは以前よりマイナードライバ―も しっかりリリースしてきたので 何か版権の問題なのか…不明 #F1-1991年
230308 G.TARQINI 17 1/43FW12C