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1974 (21ST) SPARK (HILL) LOLA T370 G.EDWARDS
チーム ヒル ローラのシャーシで参戦 ガイ・エドワーズ デビュー LOLA T370 ガイ・エドワーズ イギリス出身 1974年 チーム ヒルのセカンドドライバー としてF1デビューを果たす チームヒルはこの年イギリスの コンストラクターであるローラにマシンを依頼 エリック・ブロードウェイが設計した T370はF5000がベースで巨大エアボックが特徴 開幕戦 アルゼンチンGP 決勝11位完走 R6モナコGP決勝8位 R7スウェーデン決勝7位 予選ではエースのグラハム・ヒルに3度勝つなど まずまずの走りを見せたが怪我の影響もあり R10・R11 連続予選落ちしてチームを解雇 結果的にR7スウェーデンGPの決勝7位が エドワーズのキャリアベストリザルトとなった モデルはスパーク 開幕戦アルゼンチンGP仕様 予選25位→決勝11位 チームのメインスポンサーである タバコブランド Embassy仕様 ガイ・エドワーズは息子シーン・エドワーズも レーシングドライバーであり 2013年ニュルブルクリンク24時間レース覇者 同年の映画〖ラッシュ/プライドと友情〗に 父のガイ・エドワーズ役で出演の珍しい経歴 シーンは残念ながらこの年にレース事故死
240512 G.EDWARDS 1974 1/43FW12C
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1983 (23RD) SPARK ARROWS A6 C.SERRA
チコ・セラ F1ラスト アロウズ途中解雇 ARROWS A6 1983年フィッテパルディチーム撤退で シートを失ったブラジル出身チコ・セラは アロウズのシートを獲得 チームメイトはマルク・スレール 開幕戦地元ブラジルGP 予選23位→決勝9位 R2アメリカWESTは元チャンピオン アラン・ジョーンズの復帰でシート譲る その後R4サンマリノ予選20位→決勝8位 R5モナコ予選15位→決勝7位と上り調子も チームはR6イギリスGPからベルギー出身 ティエリー・ブーツェンの起用を決定 セラはシートを失い F1でのキャリアは終了 その後はブラジル国内で活躍 同国のストックカーシリーズでは 1999年より3連覇を果たした モデルはスパーク 開幕戦ブラジルGP仕様 予選23位→決勝9位 各戦ごとにカラーが変わるARROWS A6 開幕戦はほとんどスポンサーない中 〖CALOI〗はブラジルの自転車メーカー E.T.に登場した自転車を模倣した BMXモデルを同1983年に発売している 🏁チコ・セラ(ブラジル) 【決勝出走数】18回 (入賞1回) 【予選最高位】15位 1983年 ARROWS R5 モナコ 【決勝最高位】 6位 1982年 FITTIPALDI R5 ベルギー
240403 C.SERRA 1983 30FW12C
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2000 (18TH) PMA RED BULL SAUBER PETRONAS C19 P.DINIZ
ペドロ・ディニス 有終の美とはならず 最後のマシン SAUBER PETRONAS C19 2000年ペドロ・ディニスはザウバー残留 チームメイトは1998年にアロウズでも 同僚であったミカ・サロが加入 ディニスの地元R2ブラジルGPでは リアウイングが脱落するアクシデントで チームは2台とも予選終了後に欠場した ディニスの予選最高はR15アメリカGP9位 決勝最高はR6ヨーロッパGP7位 参戦初年度1995年フォルティ以来の シーズンノーポイントに終わる その資金力から多数のオファーが あったもののディニスはドライバーを引退 翌2001年はチームプロストの株式40%を 取得し共同オーナーとなったが チームを取得を目指しプロストと対立 シーズン半ばでF1界から去って行った モデルはミニチャンプス 最終戦R17マレーシアGP仕様 予選20位→決勝リタイア ディニスのF1ラストレース 車体にマレーシアの国旗が描かれている 🏁ペドロ・ディニス (ブラジル) 【決勝出走数】98回 (入賞8回) 【予選最高位】7位 1997年 ARROWS R12 ベルギー 【決勝最高位】5位(2回) 1997年 ARROWS R15 ルクセンブルグ 1998年 SAUBER R13 ベルギー
240221 P.DINIZ 2000 1.999FW12C
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2004 19TH PMA JORDAN FORD EJ14 T.GLOCK
不屈のゲルマン魂 ティモ・グロッグ ジョーダンよりF1デビュー EJ14 ティモ・グロック ドイツ出身 2002年 ドイツF3 年間3位 3勝 2003年 ユーロF3 年間5位 3勝 2004年 ジョーダンテストドライバー R8カナダGP ジョルジオ・パンターノが 契約トラブルとなり代役で出場 チームメイトはニック・ハイドフェルド 予選はハイドフェルドの後16位 決勝はハイドフェルドの前11位完走 その後ブレーキダクト違反で ウイリアムズとトヨタ合計4台が失格 これに伴いグロックは7位に繰り上がり 幸運にも参戦初戦にて初入賞を果たした (2004年は8位までが入賞) グロッグのキャリア入賞回数は14 終盤3戦もジョーダンより出場 3戦すべて決勝15位で完走 グロックはレギュラーシートを獲得できず 次のF1は4年後の2008年トヨタとなる モデルはミニチャンプス カナダGP仕様 予選16位→決勝7位 この年初開催のバーレーンGPを祝し ジョーダンのエンジンカウルの スポンサー権をバーレーン政府が買い取り 毎戦違うメッセージを載せた 当該カナダGPはサーカス小屋と Arts Charity For Youth と書かれている
240209 T.GLOCK 2004 1.944FW12C
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1982 (28TH) SPARK MARCH 821 J.MASS (ROTHMANS)
ヨッヘン・マス 最後のマシン ロスマンズカラー MARCH 821 1982年マーチ・エンジニアリングは R3アメリカWEST GPより タバコのロスマンズがスポンサーが付き それに伴いカラーリングも大幅変更 R4サンマリノGPでマスはこのマシンで ジル・ビルヌーブと接触の事故となり この事故でジルは帰らぬ人となった R11フランスGP決勝で今度はマスが マウロ・バルディとの接触事故となり 自身F1からの引退を表明した F1引退後マスはスポーツカー選手権を 主戦場としてレーサーは継続して ルマン24時間では1989年の 総合チャンピオンとなっている 🏁ヨッヘン・マス (ドイツ) 【決勝出走数】105回(入賞28回-表彰台8回) 【予選最高位】 4位(3回) 1976年 McLAREN R2南アフリカ 1976年 McLAREN R4スペイン 1977年 McLAREN R2ブラジル 【決勝最高位】 優勝 1975年 McLAREN R4スペイン https://muuseo.com/FW12C/items/1477?theme_id=31619
231106 J.MASS 1982 17FW12C
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1985 (22ND) SPARK OSELLA FA1G H.ROTHENGATTER
ヒューブ・ロッテンガッター キャリアベスト7位 OSELLA FA1G ヒューブ・ロッテンガッター オランダ出身 ヨーロッパF2では1980年7位(1勝) 1980年・81年全日本F2にスポット参戦 ロッテンガッターはオランダの 全国紙に全面広告を掲載 決意と自分自身への信念を アピールしてオランダの家電メーカー フィリップスのスポンサーを獲得する 1984年スピリットでデビュー 1985年オッゼラで2シーズン目 いずれもシーズン途中から資金を 持ち込みシートを獲得する 1985年オッゼラの最終戦 R16オーストラリアで予選25位→決勝7位 ロッテンガッターのキャリアベスト 翌1986年はザグスピード これまた資金持ち込み途中参戦 ロッテンガッターはキャリア 決勝26戦を全て20番台からスタート という珍しいドライバ― ドライバ―引退後はフィリップスの スポンサー関連で1991年に新規参戦 ジョーダンチームの携わり 後に同郷のヨス・フェルスタッペンの マネージャーも務めた モデルはスパーク オランダのGPworld特注 ギフトBOX入り R11オランダGP仕様 予選26位 決勝は56/70周で規定周回不足 個人Marlboro契約ドライバ―で ヘルメット正面に同社のロゴあり
230922 H.ROTHENGATTER 1985 300FW12C
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1999 (20TH) PMA ARROWS A20 T.TAKAGI
開幕直前アロウズシート獲得 高木虎之介ポイントならずARROWS A20 1999年シーズン開幕直前に アロウズのシートを獲得の高木虎之介 チームメイトは新人ペドロ・デ・ラ・ロサ 開幕戦オーストラリアで予選17位 決勝は入賞一歩手前の7位完走 この予選・決勝のリザルトがシーズンベスト 決勝の7位は虎之介のキャリアベスト このGPではデ・ラ・ロサが6位入賞 チームに貴重な1ポイントをもたらし 1ポイントで並んだミナルディには 虎之介の7位により上回り コンストラクターで9位となった 虎之介はこの年でF1からは去り 日本人フル参戦ドライバ―としては 唯一の無得点者でF1通算32戦(失格1回)で ノーポイントは歴代ワースト4位 翌2000年フォーミュラーニッポンに復帰 10戦中8勝で圧勝のチャンピオンを獲得 2003年にはインディ500の ルーキーオブザイヤーを獲得している モデルはミニチャンプス 収集初期に購入したモデル この年の虎之介のモデルは TEST CAR /SHOW CAR /別注モデルなど 沢山のバリエーションが存在する 🏁高木虎之介 (日本) 【決勝出走数】31回 【予選最高位】13位(2回) 1998年 ティレル R1オーストラリア 1998年 ティレル R3アルゼンチン 【決勝最高位】 7位 1996年 アロウズ R1オーストラリア
230913 T.TAKAGI 1999 15FW12C
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1982 (27TH) CP MODEL ARROWS A4 B.HENTON
ブライアン・ヘントン 3戦限りのアロウズ ARROWS A4 1982年前年度は新規チームトールマンで 12戦中11戦の予選落ちのヘントンであったが アロウズのレギュラーシートを獲得 チームメイトはマウロ・バルディ アロウズはニューマシンのA4を開幕から投入 イタリアのセラミックタイルメーカー RANGOがスポンサーとなり 前年のゴールド系のカラーから オレンジを基調にタイルを施す カラーリングで人目を惹きつけた ヘントンは開幕・R2と連続予選落ち R3アメリカWEST予選20位→決勝リタイア R4~はスリム・ボルグッドが抜けた ティレルに移籍して最終戦まで参戦 ヘントン離脱後のアロウズは マルク・スレールが加入 バルディ共にチームを立て直し各2回 チームで4度の入賞をしている モデルはCP MODEL 入賞したバルディ/スレールでなく 3戦限りのマニアックなヘントン車をリリース
230812 B.HENTON 1982 29FW12C
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1973 (22ND) SPARK SURTEES TS14 M.HAILWOOD
マイク・ヘイルウッド 唯一のフル参戦 炎の中の救出劇 SURTEES TS14 1973年マイク・ヘイルウッドは サ―ティス残留 キャリア唯一のフル参戦 チームメイトはカルロス・パーチェ 前年末に投入されたSURTEES TS14が不振で ヘイル・ウッドは前半10戦中リタイア9回 R3南アフリカGP ヘイルウッドはタイヤがパンクし C・レガッツォーニ(BRM)と衝突 車は炎上 レガツォーニは意識不明のまま 車に取り残された中 ヘイルウッドは 炎の中に飛び込みシートベルトを外して レガツォーニを車から引きずり出して救出 この勇敢な行動で関係者から賞賛された 後半戦は4戦連続完走もあったが 決勝最高位は7位でポイント獲得ならず サーティスはこの年で離脱 翌1974年はプライベーター マクラーレンのマシンで参戦 キャリア最後のF1シーズンを迎える #1973年
230805 M.HAILWOOD 1973 23FW12C
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1999 (19TH) PMA WILLIAMS SUPERTEC FW21 A.ZANARDI
5年ぶりF1復帰 アレサンドロ・ザナルディ CART2年連続チャンピオンも無得点 1994年ロータスで最後にF1出場後 1996年~アメリカCARTに主戦場を移し 1997年5勝1998年7勝で連続チャンピオン 鳴り物入りで5年ぶりウイリアムズでF1復帰 F1キャリア5年目で唯一のフル参戦 序盤からチームメイトの ラルフ・シューマッハが入賞する中 ザナルディは完走すらままならない状況 地元R13イタリアGPで自己最高の予選4位 決勝は一時2位走行も最終7位に終わる この時皮肉にもラルフは2位表彰台 結局ザナルディは完走5/16回 入賞無の年間(19位)に終わった ウイリアムズのレギュラードライバ―が 年間無得点に終わるのは史上初の出来事 2年契約を打ち切りこの年で ザナルディはF1から離れ2001年にCARTに 復帰するも大事故で両足膝上から切断 その後車いすのハンドサイクルの競技で 2012年にロンドンパラリンピックに出場 個人金メダル2個 団体銀メダル1個獲得 その場所はかつてカーレースも参戦した ブランズ・ハッチのサーキットであった 🏁アレッサンドロ・ザナルディ (イタリア) 【決勝出走数】41回(入賞1回) 【予選最高位】 4位 1999年 WILLIAMS R13 イタリア 【決勝最高位】 6位 1993年 LOTUS R2 ブラジル
230718 A.ZANARDI 1999 5FW12C
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1973 (24TH) SPARK SURTEES TS14 J.MASS
ヨッヘン・マス F1デビュー サ―ティスからスポット参戦 ヨッヘン・マス ドイツ出身 1972年ヨーロッパF2 2位(2勝) またツーリングカーレースを得意としており 1972年ヨーロッパツーリングカー選手権 においては5勝を挙げている ツーリングカーレースを継続しながら 1973年はサーティスよりスポット参戦 R9イギリス R11ドイツ R15アメリカに サードドライバ―として出場 決勝最高は R11ドイツで入賞目前の7位 予選ではレギユラードライバーの M・へイルウッド C・パーチェと 遜色ない結果を残し翌1974年の サ―ティスのレギュラーシート獲得 マシンはスポンサーのロゴが ほとんど無く真っ白なマシン この時のマスのヘルメットも白で こちらもロゴがほとんど付いていない
230717 J.MASS 1973 31FW12C
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1972 (24TH) QUARTZO TYRRELL 004 P.DEPAILLER
パトリック・デュパイエ F1デビュー ティレルの4号車 TYRRELL 004 パトリック・デュパイエ フランス出身 元々は2輪だったが→4輪ドライバーに変更 1971年 フランスF3 チャンピオン 1972年はティレルのサードドライバ―で 地元R6フランスGPにスポット参戦 予選17位→決勝は1周足らず周回不足 最終R12アメリカにも出場 予選11位→決勝は7位完走している この時使用のマシンTYRRELL 004は 001を元に作製された4号機 1972年R3モナコでJ・スチュワートが 使用して予選8位→決勝4位入賞 デュパイエが2戦使用後は 南アフリカのドライバ― エディー・ケイザンに売却されて ケイザンがプライベートチームで 1973年・1974年に1戦ずつ参戦 F1でわずか5戦限りの使用となった https://muuseo.com/FW12C/items/497?theme_id=31775 デュパイエ翌1973年はヨーロッパF2 1974年からはF1に戻りティレルの レギュラードライバ―として参戦する
230524 P.DEPAILLER 1972 8FW12C
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1981 (23RD) SPARK MARCH 811 D.DALY
複雑怪奇 マーチ・レーシング デレック・デイリー MARCH 811 1980年イギリスのレーシングチーム RAMはウイリアムズFW07のマシンで 参戦していたが マーチ創設者の一人である マシンデザイナーのロビン・ハード手を組み 【マーチ・グランプリ】を設立 しかしこれは1970年代に参戦した 【マーチ・エンジニアリング】とは無関係 1981年ハードはRAMのF1参戦のために マシンをハードが持つ別会社 【マーチ・エンジンズ】にて設計 最終的にRAMレーシングが 【マーチ・レーシングチーム】として 70代とは違うマーチでの参戦と複雑 当初はE・サラザールとD・デイリーの 2台体制であったが連続の予選落ち サラザールがエンサインに離脱後 デイリー1名体制となりチームは改善 ポイント獲得はならなかったものの 決勝最高位はR9イギリスGPの7位 モデルはR10ドイツGP仕様 (予選21位→決勝リタイア) アイルランド発祥のビール醸造会社 Guinness(ギネス)がメインスポンサー #F1-1981年
D.DALY 350 17 1/43FW12C
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1998 (18TH) PMA MINARDI M195 S.NAKANO
日本人初の6戦連続完走 中野信治 MINARDI M195 1998年中野信治は前年プロスト離脱 ミナルディとの交渉合意に至らず 帰国前日にイタリア・ミラノで偶然 オーナーのガブリエーレ・ルミと遭遇 そこで中野の代理人が提示した条件が 事実と異なっていた事が判明 改めて その場で話し合いを持ち契約にこぎ着けた 中野自身は遭遇した場所にちなんで モンテナポレオーネ通りの奇跡と呼んでいる 中野はエイベックスやMUSASHIなどの スポンサーを持ち込んだがチームは財政難 苦しい状況の中でシングルフィニッシュ4回 これまでで日本人ドライバ―初となる 6戦連続完走など粘り強い走りを見せたが ポイント獲得ならず決勝最高位は7位 翌1999年はレギュラーシート獲得できずに ジョーダンのテストドライバー 途中デイモン・ヒル引退で参戦の噂もあったが 実現されず1998年でF1からは退く形になった 🏁中野 信治 (日本) 【決勝出走数】33回(入賞2回) 【予選最高位】 12位 1997年 PROST R8 フランス 【決勝最高位】 6位(2回) 1997年 PROST R7 カナダ 1997年 PROST R11ハンガリー
230405 S.NAKANO 22 1/43FW12C
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1982 (27TH) SPARK TYRRELL 011 B.HENTON
ヨーロッパF2チャンピオン B・ヘイトン F1ポイント獲得ならず ブライアン・ヘイトン イギリス出身 1974年から参戦したヨーロッパF2では 参戦7年目の1980年に悲願のチャンピオン 1975年には全日本F2000にもスポット参戦 F1では1975年のロータスを皮切りに マーチ→PVマーチ→ボロ→サーティス 1981年トールマン初のレギュラードライバ― 1982年アロウズ→R4サンマリノGPより S・ボルグッドに代わりティレルで参戦 チームメイトのミケーレ・アルボレートが 初の表彰台&初優勝の中 ヘイトンは予選最高11位 決勝最高7位 いずれも生涯のベストリザルトで F1での入賞はならなかった R10地元イギリスで自身唯一の ファステストラップを記録 モデルはR15イタリアGP仕様 (予選14位→決勝R) 後半戦仕様のディープグリーンが鮮やかで スイスの香水DENIMがメインスポンサー #F1-1982年 🏁ブライアン・ヘイトン (イギリス) 【決勝出走数】18回(入賞0回) 【予選最高位】 11位 1982年 TYRRELL R4 サンマリノ 【決勝最高位】 7位 1982年 TYRRELL R12ドイツ 【ファステストラップ】 1回 1982年 TYRRELL R10イギリス
B.HENTON 1回 3 1/43FW12C