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2023 21ST SPARK WILLIAMS RACING FW45 L.SARGEANT
8年ぶりのアメリカ人ドライバー ローガン・サージェント WILLIAMS FW45 ローガン・サージェント アメリカ出身 2022年 フォーミュラ2 2勝 ランク4位 2023年 ウイリアムズからF1デビュー アメリカ人ドライバーは2015年の アレクサンダー・ロッシ(マノー マルシャ) またレギュラードライバーとしては 2006年 スコット・スピード(トロ・ロッソ) 以来 約17年ぶりのフル参戦 チームメイトはアレックス・アルボン ドライバー固定カーナンバーは2番を選択 予選 22戦中Q3進出は2回 最高7位 決勝 R18地元アメリカGPで10位入賞 入賞は1度のみでフル参戦の中では最下位 チームメイトのアルボンにも予選全敗 決勝もアルボンリタイア以外では先着無し 契約が危ぶまれたが翌2024年も残留 モデルはスパーク 開幕戦バーレーンGP仕様 デビュー戦 予選16位→決勝12位 ウイリアムズのモデルは2014年(FW36) 以来のスパークでの発売 カラーとスリーブがマッチした1台
240330 L.SARGEANT 2023 1/43FW12C
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1967 21ST SPARK COOPER T81B J.ICKX
F1通算8勝 ジャッキー・イクス デビュー COOPER T81B ジャッキー・イクス ベルギー出身 父のジャック・イクスもレースドライバーで 後にモータージャーナリストとなった 1967年イクスは3勝でヨーロッパF2チャンピオン ペドロ・ロドリゲスのケガにより クーパーのワークスからF1参戦 エンジンはマセラティ 1967年~1979年まで13年間F1に参戦 初戦R9イタリアGP クーパーで旧マシンCOOPER T81B 予選15位から完走僅か7台の サバイバルを生き残り6位入賞 イクスの生涯入賞は40回(出走114回) R10アメリカGPではリタイアに終わったが 参戦初戦入賞が評価されてイクスは 翌1968年フェラーリのドライバ―に抜擢 モデルはSPARK イクスの初戦入賞したイタリアGP仕様 大きなカーナンバー32に クーパーの特徴でもある白い2本のライン この時はヘルメットは イクスの印象の強い黒ではなく青
230910 J.ICKX 1967 32FW12C
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1998 (21ST) PMA TYRRELL FOAD 026 T.TAKAGI "TOWER WING″
ティレル026は他のチームとは異なり "TOWER WING″をデザイン段階から 取り入れたマシンであった 禁止となったR5スペインGPからは ダウンフォース不足となり苦戦 約5%程度が失われたと言われている チームは翌年以降のB・A・R体制に移行で 現行マシンの開発が継続されなかった事も 成績不振の原因となった 前年はその形からXウイングとも呼ばれたが 1998年はサイドポンツーン上部に 垂直に伸びる形状となっていた 長き歴史において1976年の6輪車や 1990年のアンヘドラルウイングなど ユニークな技術が導入されたティレルの 最後が"TOWER WING″のマシンであった #F1-1998年
230330 T.TAKAGI "TOWER WING″ 2.222FW12C
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1978 21ST SPARK TEAM REBAQUE LOTUS78 H.REBAQUE
ヘクトール レバーク自チーム設立 チームレバーク唯一の入賞 LOTUS78 ヘクトール・レバークはメキシコ出身 ホテルチェーン経営者の息子 1977年エンサインでデビュー その豊富な資金を基に 1978年は自チーム チームレバーク設立 この年のチャンピオンマシン ロータス78のマシンを購入して参戦 チームカラーはF1では珍しいブラウン 体制が整なわなかった事もあり 全16戦中 予備予選落ち3回 予選落ち4回 予選も20位前後の成績であったが R11ドイツGPでは自身初の6位入賞 約2年間活動のチーム レバークとしては F1選手権での唯一のポイント 翌1979年もロータス79のマシンを購入 それだけにとどまらず終盤3戦は 独自のシャーシ レバークHR100を制作した
H.REBAQUE 1978 25 1/43FW12C
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1970 21ST QUARTZO MARCH 701 J.SERVOZ-GAVIN
ジョニー・セルボ=ギャバン フランス F1最後の入賞 MARCH 701 1966年フランスF3チャンピオン 1967年F1 マトラよりデビュー 1968年ティレル(マトラMS10) 2位表彰台 1969年ティレル(マトラMS84) 6位入賞 四輪駆動のF1カー唯一のポイント 1970年はティレル MARCH 701で参戦 チームメイトはジャッキー・シュチュワート R2 スペインGPで予選14位→決勝5位入賞 しかしこの後シーズンオフの オフロードカーのイベントで 負傷した目の症状が悪化 R3モナコで予選落ちしてそのままF1引退した #F1-1970年 🏁ジョニー・セルボ=ギャバン (フランス) 【決勝出走回数】11回 (入賞3回) 【予選最高位】 2位 1968年 ティレル R3 モナコ 【決勝最高位】 2位 1968年 ティレル R9 イタリア
221203 J.SERVOZ-GAVIN 16 1/43FW12C
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1981 21ST SPARK ENSING N180B E.SALAZAR
F1で唯一のチリ出身ドライバ― E・サラザール 初ポイントENSING N180B ブラジルF3参戦時にネルソン・ピケと出会い F1でのデビューにつながる 1981年はRAM(マーチグランプリ)より参戦 R7スペインGP以降はエンサインで出走 多額のスポンサー料を持ち込んだ R12オランダGP 予選24位から荒れたレースを走り抜き 見事6位入賞 サラザール初入賞は エンサインとしては最後の11回目の入賞 マシンにはサラザールの持ち込みと思われる TOYOTAのスポンサーロゴも存在 #F1-1981年
221023 E.SALAZAR 14 1/43FW12C
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1964 21ST SPARK (REG PARNELL) LOTUS 25 BRM M.HAILWOOD
マイク・ザ・バイク M・へイルウッド 4輪転向 F1初ポイント LOTUS 25 BRM マイク・へイルウッド イギリス出身 バイクレースの世界でいくつものタイトル獲得 2輪レース界で実力ナンバーワン 天才ライダー 〖マイク・ザ・バイク〗の異名を取った バイクと並行して4輪にも挑戦 F1では 1963年ローラよりスポット参戦 1964年プライベター レッグ・パーネルで LOTUS 25 BRMエンジンでフル参戦 開幕のモナコグランプリで 予選16位→トップと4週遅れも決勝6位入賞 M・へイルウッドのF1通算入賞回数は10回 この年は入賞1回のみで年間21位 1965年のスポット参戦以降しばらくF1は休み 1970年代に本格的に4輪に転向 1972・1973年はサーティス 1974年はマクラーレンから参戦 生涯で表彰台2回 2位1回 3位1回獲得している #1964年
221019 M.HAILWOOD 36 1/43FW12C
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1979 21ST SPARK COPERSUCAR F6A E.FITTIPALDI
1970年台ブラジルのプライベーター チーム・コスパシュカー 1972・1974年ワールドチャンピオン エマーソン・フィッティパルティの兄 ウイルソンが立ち上げたチーム ブラジルの砂糖・アルコールなどの スポンサー コパシュカーが コンストラクターの名称 1979年は前年度の成功した車体F5Aで 開幕戦を予選11位→6位入賞 R3南アフリカよりニューマシン F6を導入も失敗に終わり モデル仕様 予選18位→決勝13位 F6はこの1戦のみのモデル 後半R10ドイツより改良型のF6Aを 投入したが成績は上昇せず 開幕戦の1Pのみで年間21位 コパシュカーのスポンサーはこの年で終了 次年度からはフィッティパルティの コンストラクター名でエントリー #F1-1979年
E.FITTIPALDI 14 1/43 FITTIPALDIFW12C
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1975 21ST PMA MARCH FORD 751 L.LOMBARDI
F1史上唯一の女性ドライバ―のポイント レラ・ロンバルディ MARCH FORD 751 F1史上決勝を走行した女性ドライバ―は2人 1958・59年のマリアーテレーザ・デ・フィリップス 1975・76年のレラ・ロンバルディ どちらもイタリア出身 1975年 ロンバルディはマーチから出走 R3南アフリカで初の決勝進出 R4スペインGP 予選24位 大事故により29週でレース打ち切り この時6位を走行しており初入賞 レースが予定の75%以下だった為 ハーフポイントの0.5ポイント これは歴代のポイント獲得ドライバ―の中で 最小ポイント(最下位)ではあるが 決勝進出のポイント未獲得ドライバ―は 現在までに300人以上いる 史上初の女性ドライバ―の入賞 これ以降決勝進出の 女性ドライバ―は現れていない 近年では1992年にブラバムから ジョバンナ・アマティ(イタリア)が エントリー 3戦予選落ちで決勝進出はならず #1975
L.LOMBARDI 1975 2.064 10FW12C
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1987 21ST SPARK AGS JH22 R.MORENO
AGS= Automobiles Gonfaronaises Sportives 当時 何の略なのか気になり調べて 念仏のように唱えて覚えました AGSは1986年~1991年の6年間の参戦で ポイント獲得は6位が2回のみ 1989年R4メキシコ G.タルキーニと 1987年R16オーストラリアのR.モレノ R.モレノはP.ファブルに代わり 終盤2戦をAGSで参戦し R16オーストラリアでは 予選25位から完走9台のサバイバル を生き残り自身も初の6位入賞 しかしこの時のサラリーやホテル代等が チームより支払いがされなかった為 後に裁判沙汰となりました EL CHARRO(ファッションブランド)の スポンサーの影響でどちらかと言うと インディーカーのようなカラーリング R.モレノは1987年 AGS 1989年コローニ 1990年ユーロブルンに所属 この3チームは歴代の予備予選落ちワースト3 1位 コローニ46回 2位 AGS45回 3位 ユーロブルン38回 R.モレノはこのような下位チームで 奮闘している姿がとても好感が持てます #F1-1987年
R.MORENO 14 1/43 AGSFW12C
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1991 21ST ONYX LARROUSSE FORD 091 E.BERNARD
#1991 #F1-1991年
E.BERNARD 29 1/43 LARROUSSEFW12C
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1989 21ST SPARK LOTUS JUDD 101 S.NAKAJIMA
ファステストラップ 1'38.480(Lap 64) #1989 #中嶋悟
S.NAKAJIMA 12 1/43 CAMELFW12C