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1977 (45TH) IXO RENAULT RS01 J.P.JABOUILLE
オールフレンチ ルノーデビュー ジャン・ピエール・ジャブイユ RENAULT RS01 1977年フランスのルノーが参戦 RS01にはF2用をベースとした F1初のターボエンジンを搭載 タイヤはミシュランが初参戦 F1初のラジアルタイヤを装着 燃料はエルフ ドライバーはジャン・ピエール・ジャブイユ オールフレンチでのF1挑戦が始まった R9フランスGPはあえて避けて R10イギリスGPよりデビュー 予選21位→決勝はエンジンが壊れリタイア 2戦欠場後のR13オランダGPでは 予選10位と健闘も決勝はリタイア 年間で5戦出場 1度予選落ち 決勝進んだ4戦はいずれもリタイア たびたびエンジンから白煙をあげ イエロー・ティーポットを揶揄された 最終戦日本GP(富士SW)は不参加 F1界においてはターボエンジン 幕開けに向けた記念すべき1台 モデルはIXO (デアゴスティーニ) F1マシンコレクション GP仕様の表記はないが フロントウイング形状 リアウイングのカラー・ロゴから 初参戦のR10イギリスGP仕様と思われます
240208 J.P.JABOUILLE F1マシンコレクション 1977FW12C
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1976 (45TH) SPARK SURTEES TS19 C.ANDERSSON
F1通算 1戦限りの決勝進出 コニー・アンダーソン SURTEES TS19 コニー・アンダーソン(スウェーデン) 1974年スウェーデンF3チャンピオン 1975年ヨーロッパF3でモナコで1勝 1976年R12オランダGP スポット参戦 サ―ティスにB・ランガーの代役で出場 参戦当時の年齢は36歳の遅咲き 予選は26位でギリギリの通過も 決勝は9周でエンジントラブルでリタイア 車体はタバコブランド チェスター・フィールドがスポットポンサー アンダーソンはこの年1戦限りの出場で 翌1977年はBRMで参戦も4戦全て予選落ち 以後参戦は無くF1通算1戦限り この1976年 サ―ティスのカーNo18は 最終のF1選手権イン・ジャパン(富士SW)で 高原敬武が使用している https://muuseo.com/FW12C/items/1501?theme_id=35914
230615 C.ANDERSSON 1976 18FW12C
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1974 (45TH) SPARK BRABHAM BT42 T.PILETTE
F1史上3組目の親子ドライバ― テディ・ピレット BRABHAM BT42 テディ・ピレット ベルギー出身 父は1950年代にゴルディーニや フェラーリにも在籍した アンドレ・ピレット 1974年開幕戦から参戦した H・J・シュトゥック(マーチ)に続く F1史上3組目親子ドライバ― 1974年R5地元ベルギーGPに ブラバム3RDドライバ―でスポット参戦 マシンは型落ちの BRABHAM BT42 予選は31位までが通過のGPで27位 決勝はトップから4周遅れの17位完走 このGPはスポットスポンサーで 日本のHITACHがブラバムをサポート 同社のロゴが目立つマシンになっている テディ・ピレットはこの後 1977年にBRMから3戦エントリーするも すべて予選落ちで F1での決勝進出は 1974年のベルギーGP 1戦限りであった
230410 T.PILETTE 34 1/43FW12C
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1994 (45TH) ONYX PACIFIC ILMOR PR01 B.GACHOT
1994年コンストラクター数は14チーム この内2人ドライバーが開幕から 変わらなかったのは僅か4チーム ティレル・ミナルディ・フットワーク そしてパシフィック グランプリ 通常パシフィックのような下位のチームは 頻繁に持参金でドライバ―の交代が あるのだが・・それすらなかった B・ガショーでさえ決勝進出は5回 そのいずれもリタイヤで終了 終盤スラントノーズを投入も(画像4) ハイノーズ前提のデザインの為 何かのきっかけを掴みたい努力も 残念ながら 全く効果なく終わる R16オーストラリアGPの予選後 ガショーはインタビューで 『今日は最良の1日さ もう2度と PR01に乗らなくて良いのだから』 このコメントがすべて物語っている パシフィック グランプリは このような状況でも全16戦に参加 翌年1995年も参戦継続された #F1-1994年 #F1
B.GACHOT 34 1/43 PACIFICFW12C