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1974 (31TH) SPARK SURTEES TS16 D.QUESTER
ディエター・クエスター F1唯一の出場 SURTEES TS16 ディエター・クエスター オーストリア出身 1969年のF1ドイツGP 当時参加可能であったBMWのF2のマシンで エントリーするも 同BMWチームの ゲルハルト・ミッターがマシントラブルで 還らぬ人となってしまいBMWチームは棄権 クエスターもレースを欠場した その5年後の1974年母国オーストリアGPに チーム・サーティスで出場 この年サーティスはC・パーチェと J・マスがシーズン途中で離脱 オーストリアGPにはプライベター含め サーティスから4名のドライバーが エントリーしたが 決勝進出は クエスター(予選25位)ただ1人 決勝はトップから3周遅れの9位完走 クエスターのF1はこの1戦限り 他のカテゴリー とりわけ24時間レースは 多数の参戦があり生涯で53回出場 2018年にHSRクラシック・デイトナが 自身最後のレースで当時年齢は79歳であった モデルはスパーク オーストリアGP仕様 予選25位→決勝9位 マニアックなモデルのリリースの多い ドイツのレースランド社別注モデル
240206 D.QUESTER 1974 300FW12C
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1975 (31ST) SPARK WILLIAMS FW03 A.MERZARIO
イソ-マールボロから改名 ウイリアムズ・FW メルッザリオ WILLIAMS FW03 1975年前年までイソ-マールボロとして 参戦したマシンをウイリアムズ・FWに改名 厳密には現在のウイリアムズチームとは 異なるものの初めてウイリアムズの 名を付けたマシンであった FWはフランク・ウイリアムズの略 ドライバ―は前年同様の アルトゥーロ・メルツァリオ チームメイトはジャック・ラフィー FW03は既に時代遅れのマシンと なりつつあり資金難で開発も進まなかった メルツァリオは予選最高は11位 決勝は全てリタイア R5モナコGPでは前GPのスペインで 観客を巻き込む大事故があった為 決勝は18位までと急遽決定され ウイリアムズは2台とも予選落ち メルッザリオはR6ベルギーGPをもって ウイリアムズを離れ終盤のR13イタリアGPは フィッテパルディのコパシュカーで 1戦のみスポット参戦で決勝11位完走 #1975年 #FW
230727 A.MERZARIO 1975 20FW12C
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1978 (31ST) SPARK (SACHS RACING) ENSING N177 H.ERTL
1グランプリに2チームからエントリー ハラルド・アートル ENSING N177 1978年ハラルド・アートルは プライベートチーム ザックレーシングで エンサインのマシンを使用し途中参戦 初戦のR11ドイツGP 予選23位→決勝11位 R12オーストリアGP 予選24位→決勝リタイア 決勝進出は2レースのみでこれが アートルのF1レース最後の決勝レースになった R14イタリアGPはエントリーが32台となり アートルはザックレーシングで 予備予選から出場も通過ならず 予選開催時にATSチームに空きシートがあり 予選はATSから出場 こちらも予選落ち 1グランプリに2チームからエントリー しかも予備予選落ちと予選落ちを 両方経験したドライバ―となった ハラルド・アートルはこの後 1980年にATSからスポット参戦も予選落ち 1982年に自家用飛行機の事故で 残念ながら他界 享年33歳 1976年ドイツGP 自らのレースは棄てて 同郷のニキ・ラウダ(フェラーリ)を 炎上するマシンから救出した4人の ドライバ―の1人として賞賛されている #F1-1978年
230314 H.ERTL 23 1/43FW12C
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1981 (31ST) SPARK OSELLA FA1B P.GHINZANI
イタリアのいぶし銀 F1デビュー ピエルカルロ・ギンザーニ OSELLA FA1B 1977年ヨーロッパF3チャンピオン 1979年イタリアF3チャンピオン 1981年デビューはイタリアのオッゼラ R5ベルギーGP 予選24位→決勝13位 R6モナコGPは予選落ち この年は2戦のみで その後 1983年~1989年まで オッゼラ トールマン リジェ ザグスピードと 下位チーム中心に参戦 F1通算 76戦出走 入賞は1回(5位) 予備予選落ち12回 歴代ワースト10位 予選落ち15回 歴代ワースト5位 ギンザーニはこのモデルのみ所持 下位チームという事もあり通算76戦参戦も あまり量産化されていないドライバ― #F1-1981年
221025 P.GHINZANI 31 1/43FW12C
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1985 (31ST) IXO TOLEMAN TG185 T.FABI
トールマン チーム史上唯一のPP TOLEMAN TG185 テオ・ファビ トールマンチームはタイヤの供給問題で 1984年途中にピレリ→ミシュランに変更 1985年はミシュランが撤退 ピレリに戻れず グッドイヤーも供給拒否でタイヤが無い状態 開幕3戦を欠場する事態となった 嫌気をさしたオーナー テッド・トールマンは チームの撤退を示唆 ここに現れた救世主が イタリアのファッションブランド ベネトン トールマンだけでなく撤退予定のスピリットも 買収しスピリット分のピレリタイヤで参戦 ロリー・バーン作のTG185はテストでも 好タイムを出しており特に高速サーキットは トップクラスのスピードを持っていた R9ドイツGPでは前年度所属のA・セナでも達成 していないトールマン史上唯一の ポール・ポジションをT.ファビが獲得 2位のS・ヨハンソン(フェラーリ)に +1.187秒の差をつける大差のPP 決勝はクラッチのトラブルでリタイア その後も予選ではシングルグリット獲得も 信頼性不足で決勝はR12イタリアの12位が最高 ベネトンは個性的な広告キャンペーンの一環で マシンに国旗をあしらった何とも印象深い デザインを施し注目を浴びた 翌1986年からはチームベネトンとして参戦 個性的なデザインは継続され トップチームへと昇り詰める 足がかりとなった1台かもしれません #F1-1985年 #F1マシンコレクション
T.FABI F1マシンコレクション 19 141FW12C
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1976 (31ST) SPARK LOTUS 77 B.EVANS
ボブ・エバンス イギリス出身 ロータスで2戦限りの出走 パープルのヘルメットが特徴の ボブ・エバンスは 1975年BRMでデビュー R6ベルギーの決勝9位が最高位 1976年は開幕戦限りでR・ピータソンが ロータスを離脱したことに伴い 急遽ロータスから2戦限りの出走 チームメイトはG・ニルソン R2南アフリカ予選23位→決勝10位 R3アメリカWESTは予選落ち R4以降はパーネリ撤退後の マリオ・アンドレティがロータスに再加入 エバンスはその後地元R9イギリスGPで チームRAMよりブラバムBT44Bで スポット参戦 予選22位→決勝リタイア ◆R16日本(富士SW)は未出走◆ エバンスのF1参戦はこの年限りで終了 #F1-1976年 #F1
B.EVANS 1976 5 1/43FW12C
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1995 (31ST) PMA SIMTEK FORD S951 J.VERSTAPPEN
ヨス・フェルスタッペン2年目 シムテックは5戦のみで撤退 フェルスタッペンは前年度の ベネトンの契約が残っており オートマチック用のギアBOX関連と 共に貸し出される形でシムテックの エースのシートを獲得 シムテックは資金難で新車S951は 開幕戦のブラジルGPでシェイクダウン それでもフェルスタッペンは予選で 中盤(ベストはR2アルゼンチン14位) など奮闘し決勝では一時6位を走行 開発資金はおろか運営資金もままならぬ チームはR5モナコで撤退 負債額は約600万ドル チームのあらゆるものが競売にかけられたが 僅か25万ドルにしかならなかった フェルスタッペンは個人スポンサー フィリップ・カー・ステレオの援助を得て 翌1996年はアロウズより参戦 フロントウイングとノーズのスポンサー BARBARAはモナコに拠点を置く スポーツなどのマネージメント会社 元々はローランド・ラッツェンバーガーの スポンサーであったがローランド亡き後も チームのサポートを継続 その一環として当時ヨーロッパで人気上昇の ロックバンドSELF CONTOROLをBARBARA社が 世界プロモ―ション活動として フロントウイングに 彼らのバンドのロゴが貼られています #F-1995年 #F1 #1995年
J.VERSTAPPEN 12 1/43 SIMTEKFW12C
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1979 (31ST) SPARK ENSIGN N179 P.GAILLARD
パトリック・ガイヤール フランス出身 1970代半ばR・アルヌー D・ピロー二などと フランスのヌーヴェル ヴァーグと呼ばれた 1979年D・デイリーがエンサインを去った後 T・ニーデルにライセンスが降りず ガイヤールがR8フランスより参戦 R8~R12で5戦中3度の予選落ち モデル仕様のR9イギリスが 唯一の完走 予選23位→決勝13位 ENSING N179の車体にとっても完走は1回のみ ガイヤールは翌年1980年スペインGPで ENSINGから再度スポット参戦 トップから5週遅れも6位入賞を果たしたが このGPは後にノンタイトル戦に格下げされた為 幻のポイントとなってしまった 結局F1では1979年の2戦のみの決勝出走 ガイヤールは1978年と1980年に 全日本F2にもスポット参戦しています #F1-1979
P.GAILLARD 22 1/43 ENSIGNFW12C
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1994 (31ST) PMA SIMTEK FORD S941 D.BRABHAM
デイビット・ブラバム(オーストラリア) 父は3度のWC ジャック・ブラバム 兄のゲーリー・ブラバムも 1990年 ライフで予備予選出走 デイビットも1990年のブラバムから 4年ぶりのF1参戦 新規シムテック チームメイトが ①ローランド・ラッツェンバーガー ②アンドレア・モンテルミーニ ③ジャンーマルク・グーノン ④ドメニコ・スキャッタレーラ ⑤井上隆智穂 の5人 ローランドの悲劇 モンテルミーニの事故もあったが デビットは全戦参戦 モンテルミーニの事故の R5スペインGP決勝10位がベスト MTVやRUSSELL ATHLETICなどのスポンサー 独得なノーズ形状とカラーリング 当時若干27歳のニック・ワース作の マシンSA194は美しいフォルムで魅了も 残念ながら成績は伴わなかった #F1-1994年 #F1親子鷹
D.BRABHAM 31 1/43 SIMTEKFW12C
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1991 (31ST) PMA JORDAN FORD 191 A.ZANARDI
R14スペインGPよりR.モレノに代わり A.ザナルディがデビュー 予選20位→決勝9位完走 R15日本GPでは7UP→PEPSIに変更 これは日本で7UPがあまり 流通していなかった為 スポットでUSEN440と日清製粉が 日本GPではスポンサーサポート FUJIFILM SHOEIなど多くの ジャパンマネーが支えています 最終戦のオーストラリアでは 再び7UPにもどっています(画像4) #1991 #F1
A.ZANARDI 32 1/43 JORDANFW12C
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1990 (31ST) MERI OSELLA FA1M-E FORD O.GROUILLARD
チームオッゼラ 最後の年 一瞬の輝き予選8位 OSELLA FA1M-E 1990年オッゼラは再び1台体制 ドライバ―はリジェより移籍の オリビエ・グルイヤール オッゼラは前年度の成績最高位12位より 予備予選からの出場 開幕戦のアメリカGP 予備予選を3位で通過すると 予選をA・プロスト(フェラーリ)の後ろ8位通過 これはオッゼラ史上予選の最高位 グルイヤールも生涯予選の最高位 決勝はサスペンションが壊れリタイヤ 結局この年は16戦中 予選通過10回 予選落ち4回 予備予選落ち2回 決勝完走は4回で最高はカナダの13位 スポンサーだった大手ホイールメーカーの フォンドメタルに売却して 1980年から参戦の11年の活動に幕を閉じた イタリアチームあるあるでもあるがオッゼラは モーターホームの料理だけは非常においしいで有名 #F1-1990年
O.GROUILLARD 14 1/43 OSELLAFW12C
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1989 (31ST) SPARK LARROUSSE LOLA LC89 E.BERNARD
エリック・ベルナール F1デビュー 地元 フランス初完走 LOLA LC89 エリック・ベルナール フランス出身 当時のフランス若手ABCDの一人 A アレジ B ベルナール C コマス D ダルマス 1989年国際F3000 3位(1勝) (チャンピオン アレジ 2位コマス) 1989 R7フランスGP ラルースが不振のY・ダルマスの代わりに ベルナールを起用しF1 デビュー 予選15位→決勝11位完走 翌R8ドイツGP 予選13位→決勝 リタイア ラルースはティレルを解雇され タバコスポンサー関連の問題がクリアに なったミケーレ・アルボレートを起用 この年ベルナールは国際F3000に専念 翌1990年はラルースの レギュラーシート獲得 鈴木亜久里のチームメイトとなる
E.BERNARD 29 1/43 CAMELFW12C
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1986 (31ST) SPARK LOLA THL2 E.CHEEVER
シート消失のエディー・チーバー 地元アメリカGP スポット参戦 1986年レギュラーシートを失った チーバーは負傷のP・タンベイに代わり 地元R7アメリカGPにローラでスポット参戦 得意の公道サーキット デトロイト 予選ではレギュラードライバーの アラン・ジョーンズが21位対して チーバーは3秒近い差をつけ10位と奮闘 決勝ではジョーンズが33週目 チーバーが37週目に両者とも 同じ部品が壊れリタイアの終わっています チーバーのヘルメットとカラーリング そしてFORDのロゴがとても合っている1台 チーバーは翌1987年はアロウズに移籍 F1キャリア最後の3年を過ごします #F1-1986年
E.CHEEVER 1986 15 1/43FW12C
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1984 (31ST) PMA TYRRELL FORD 012 M.BRUNDLE
1984年 ブランドの初参戦はティレル。 チームメイトはこちらも新人のS.ベロフ。 さらにセナ(トールマン)ベルガー(ATS)も同期デビュー 開幕戦ブラジルGPでいきなりの(予選18位→)決勝5位入賞。 ベロフも2回入賞後のモナコで3位。 そしてこのモデルのR8 USA EAST GP. マンセルの強引な飛び込みでいきなりの赤旗など波乱の幕開け。 最終周はトップのピケが数周前に同一周回に戻った プロストの後方を走行 そこにブランドルが猛追 余裕はあったが 最終的には0.8秒差の2位 完走6台のサバイバルレース。 レース後の車検で水タンクから微量の炭化水素が検出され これがシーズン終盤に違反との判定 シーズンのすべての記録がはく奪されました。 2枚目はベロフ 3枚目はヨハンソン 3台ともカラーリングが違うのでとても惹かれるモデル。 中でもワインレッドのブランドル車が個人的TOPです。
M.BRUNDLE 3 1/43 TYRRELLFW12C