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1973 (24TH) SPARK SURTEES TS14 J.MASS
ヨッヘン・マス F1デビュー サ―ティスからスポット参戦 ヨッヘン・マス ドイツ出身 1972年ヨーロッパF2 2位(2勝) またツーリングカーレースを得意としており 1972年ヨーロッパツーリングカー選手権 においては5勝を挙げている ツーリングカーレースを継続しながら 1973年はサーティスよりスポット参戦 R9イギリス R11ドイツ R15アメリカに サードドライバ―として出場 決勝最高は R11ドイツで入賞目前の7位 予選ではレギユラードライバーの M・へイルウッド C・パーチェと 遜色ない結果を残し翌1974年の サ―ティスのレギュラーシート獲得 マシンはスポンサーのロゴが ほとんど無く真っ白なマシン この時のマスのヘルメットも白で こちらもロゴがほとんど付いていない
230717 J.MASS 1973 31FW12C
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1980 (24TH) PMA RAM WILLIAMS FW07 R.KEEGAN
復活のチームRAM WILLIAMS FW07 ルパート・キーガン 決勝全戦完走 1980年 1976・1977年カスタマーで参戦の RAM RACINGが復活しウイリアムズの旧車 WILLIAMS FW07を購入し参戦 ルパート・キーガン イギリス出身 1976年21歳 イギリスF3チャンピオン 1977年プライベーター(ヘスケス308E) 1978年サ―ティス レギュラーで参戦 1980年 RAMでR8イギリスから7戦出走 予選通過・予選落ちを交互に繰り返し 4戦決勝進出 3戦予選落ち 決勝に進出の4戦はすべて完走 最高位はR14アメリカEAST GPでの 予選15位→決勝9位 参戦当初よりキーガンは 【ペントハウス】イギリス男性向け雑誌 【リズラ】 フランス手巻きタバコ のサポートを受けており 同社のロゴがRAMマシンにも貼られている キーガンは2年後の1982年 J・マスの離脱後のマーチ(RAM) 最後のF1参戦をする
230628 R.KEEGAN 2.784 50FW12C
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1972 (24TH) QUARTZO TYRRELL 004 P.DEPAILLER
パトリック・デュパイエ F1デビュー ティレルの4号車 TYRRELL 004 パトリック・デュパイエ フランス出身 元々は2輪だったが→4輪ドライバーに変更 1971年 フランスF3 チャンピオン 1972年はティレルのサードドライバ―で 地元R6フランスGPにスポット参戦 予選17位→決勝は1周足らず周回不足 最終R12アメリカにも出場 予選11位→決勝は7位完走している この時使用のマシンTYRRELL 004は 001を元に作製された4号機 1972年R3モナコでJ・スチュワートが 使用して予選8位→決勝4位入賞 デュパイエが2戦使用後は 南アフリカのドライバ― エディー・ケイザンに売却されて ケイザンがプライベートチームで 1973年・1974年に1戦ずつ参戦 F1でわずか5戦限りの使用となった https://muuseo.com/FW12C/items/497?theme_id=31775 デュパイエ翌1973年はヨーロッパF2 1974年からはF1に戻りティレルの レギュラードライバ―として参戦する
230524 P.DEPAILLER 1972 8FW12C
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1990 (24TH) SPARK AGS JH25 Y.DALMAS
予備予選最多出場チーム AGS 歴代唯一のトップ通過 Y・ダルマス ヤニック・ダルマスはAGS2年目 チームメイトはガブリエル・タルキーニ 予備予選からの出場で苦しみ ダルマスの決勝進出は僅かに5回 モデル仕様の地元R7フランスGPは 予備予選4位→予選26位→決勝17位 R14ポルトガルGP 予備予選1位通過 予備予選 通算最多62(台)出場の チームAGSにとって歴代唯一のトップ通過 予選24位→決勝9位はシーズンベスト AGSはスポンサー集めに苦しみ 序盤2戦の旧型マシンJH24では スポンサー募集を込めてマシンに 大きな黄色い【?】を付けて話題となった そんな中ほぼ唯一の大スポンサーは フランスのファッションブランド 〖TED LAPIDUS〗テッド・ラピドス ジョン・レノンも愛用したブランドで ビートルズのアルバム Abbey Roadの表紙で 先頭を歩くジョン・レノンの白色スーツは デザイナーLAPIDUSがデザインしたもの ダルマスはこの後しばらくF1から離れ 1994年に古巣ラルースで2戦のみ出場 #F1-1990年
230413 Y.DALMAS 18 1/43FW12C
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1997 (24TH) ONYX SAUBER C16 PETRONAS N.FONTANA
アルゼンチン出身 ノベルト・フォンタナ 4戦限りのF1出走 SAUBER C16 PETRONAS N・フォンタナは1995年ドイツF3チャンピオン アルゼンチン出身ドライバーとしては 1989年のO・ララウリ(ユーロブルン)以来 1997年はザウバーのテストドライバー G・モリビデリのTEST中のケガにより R8~R10の3戦に出場して R10ドイツGPの予選18位→決勝8位が最高 再度モリビデリがR16日本GPケガした為 最終R17ヨーロッパGPにも出場 この年のみのF1参戦でポイント獲得はならず 合計4戦がフォンタナの生涯出走回数 N・フォンタナは1996年~1998年まで 日本のフォーミュラニッポンにも参戦 各年1勝づつを上げて1997年の年間3位が最高
221109 N.FONTANA 17 1/43FW12C
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1996 (24TH) ONYX MINARDI FORD M195B T.MARQUES
タルソ・マルケス ブラジル出身 ミナルディよりF1デビュー 1996年資金難のミナルディは南米ラウンドに ブラジル出身のT・マルケスを起用 マルケスのデビューは20歳40日で 当時としては歴代5番目の若さ R2ブラジルGP ピットレーンの信号無視で予選結果は抹消 決勝は1周目にスピンしてリタイア R3アルゼンチンGP 予選はこの年のミナルディのベストの14位 決勝はM・ブランドル(ジョーダン)に 2度も追突して34周目にリタイア 若さが出た結果となりこの2戦のみの出場 マルケスは翌1997年後半と2001年前半戦に 再びミナルディで参戦します 1996年はドライバ―が3人以上のチームは ミナルディのみで T・マルケスの他は P・ラミー G・フィジケラ G・ラバッジの4人 G・ラバッジのみが量販モデルの発売が無いが この年のミナルディの成績(ノーポイント)を 考えると残念ながら今後も発売の期待は薄い #F1-1996年
T.MARQUES 21 1/43 MINARDIFW12C
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1975 (24TH) SPARK HESKETH 308 H.ERTL
ハラルド・アートル F1デビュー 1975年R11ドイツGP HESKATH 308 ハラルド・アートルはオーストリア出身 イエローのヘルメットが特徴 ヴァルシュタイナー・ブルワリーのチームが HESKATH 308のマシンを購入して 1975年R11ドイツGPより3戦限りの出場 デビューとなったモデル仕様の ドイツGPは予選23位→決勝8位完走 決勝はシーズンベストリザルト ヴァルシュタイナーは1753年以来 ドイツのアルンスベルクの森で醸造される 淡い黄金色の伝統的なドイツビール 1978年からのアロウズのスポンサーでも 有名ですが 1975年は自チームで出場 ゴールドカラーが何とも目を引く1台 #F1-1975年 #ヴァルシュタイナー #F1デビュー #1975年
H.ERTL 1975 25 1/43FW12C
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1995 (24TH) ONYX FOOTWORK ARROWS HART FA16 T.INOUE
4人目のフルタイム日本人ドライバ― F1駅前留学 井上隆智穂 1994年日本GP鈴鹿でシムテックより スポット参戦 井上のスポンサーに 語学学校のNOVAが付いていた為 古舘伊知郎氏からF1駅前留学と評された 1995年はユニマットグループの支援で アロウズ(フットワーク)から参戦 TV・雑誌等では井上を取り上げる事が 少なく当時は謎の日本人ドライバ― 予選最高18位 決勝最高8位 完走5回 2つの出来事がファンの記憶に残った ①R5モナコGP フリー走行 レッカー車牽引されている途中 オフィシャルカーに追突され マシンが横転 マシンは大破 オフィシャルカーのドライバ―は ラリー界の雄 ジャン・ラニョッティ ②R10ハンガリーGP 決勝 エンジントラブルで停止後 出火 消火器を持って自ら消火を試みるも 後方からやってきたレスキューカーに 振り返りざまはねられる ①②とも軽症で済み 後日談でも良く語られている ONYXは2種類を所持 画像2のポルトガルGP仕様は プリントサイン入りで 海外での名称 Taki INOUEの表記 #1995 #F1駅前留学
T.INOUE 10 1/43 ARROWSFW12C
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1979 (24TH) SPARK TYRRELL 009 G.LEES
日本でも活躍 TVCMも出演 ジェフ・リース イギリス出身 1978年エンサインから出走も予選落ち 1979年はR10ドイツGPに ティレルよりスポット参戦 予選は16位→決勝7位 決勝はTMのD・ピロー二より先着 予選・決勝ともリースの生涯最高位 翌年以降シャドウ・エンサイン・RAM セオドール・ロータスでスポット参戦も F1でのポイント獲得はならなかった 1983年全日本F2にイクサワから参戦 8戦4勝してチャンピオン 全日本F2での外国人チャンピオンはリースのみ 以降は日本に拠点を移し グランドチャンピオンシリーズに参戦 JSPC(全日本スポーツプロトタイプカー 耐久選手権)でも1992年にチャンピオン獲得 JSPCではトヨタのワークスドライバー だった事もありトヨタ・スープラの TVCMにもドライバ―として出演しました #1979 https://www.youtube.com/watch?v=jBNAstOTFCM
G.LEES 4 1/43 TYRRELLFW12C
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1993 (24TH) SPARK FOOTWORK FA14 A.SUZUKI
≪手から手へ 愛のメッセンジャー≫ 当時のフットワーク社のキャッチフレーズ 1993年 亜久里はフットワークの2年目 マクラーレン製のアクティブサスペンション を導入後の後半8戦は予選でトップ10以上が7回 R12ベルギーでは生涯自己最高の予選6位 しかし決勝は後半8戦で7戦連続リタイア 最終戦の7位がシーズンベストでノーポイント フットワークは業績悪化でこの年で撤退 亜久里もF1シートを失います モデルはR15日本GP仕様(予選9位→決勝R) TOSHIBAのパソコンブランドであった DynaBookのロゴが添付されています 残念ながらFA14の象徴である メゾネットウイングは無しですが TMのワーウィックのモデルでは再現 https://muuseo.com/FW12C/items/241
A.SUZUKI 10 1/43 FOOTWORKFW12C
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1988 (24TH) SPARK LARROUSSE LOLA LC88 P.ALLIOT
#1988
P.ALLIOT 30 1/43 CAMELFW12C
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1992 (24TH) ONYX TYRRELL 020B O.GROUILLARD
#1992
O.GROUILLARD 1/43 TYRRELL ONYXFW12C
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1986 (24TH) PMA BRABHAM BMW BT55 E.DE ANGELIS
アンジェリス 最後のマシン BRABHAM BMW BT55 アンジェリスは6年過ごしたロータスを離れ 1986年は運命のブラバムの移籍 チームメイトはリカルド・パトレーゼ ゴートン・マレー作のBT55は 車高を極限まで低くした特殊な形状 安定性を高めることを狙ったが BMWのエンジン搭載によりホイールベースを 極端に長くするなど扱いにくいシャシー特性 アンジェリスはR4モナコまで完走僅か1回 状況を打破するべく行われたフランスの ポール・リカールでのテスト中 リアウイングが脱落してクラッシュ 出火するマシンに長時間取り残され 救出活動が難航して翌日帰らぬ人となった この事故を契機にテスト実施時においても グランプリ開催時と同等の安全対策や マーシャルの配置が義務付けられる事となった アンジェリスの事故の次の死亡事故は 1994年のサンマリノGPとなる 誠実で他のドライバ―からも人気のあった エリオ・デ・アンジェリス J・アレジは彼を尊敬しヘルメットの デザインのサイドの赤黒ラインを継承し 愛用し続け息子のジュリア―にも引き継がれた 🏁エリオ・デ・アンジェリス (イタリア) 【決勝出走数】106回(入賞43回-表彰台9回) 【予選最高位】 PP(3回) 1983年 LOTUS R14ヨーロッパ 1984年 LOTUS R1 ブラジル 1985年 LOTUS R5 カナダ 【決勝最高位】 優勝(2回) 1982年 LOTUS R13オーストリア 1985年 LOTUS R3 サンマリノ
E.DE.ANGELIS 1986 8 1/43FW12C