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1977 (24TH) SPARK SURTEES TS19 V.SCHUPPAN
ヴァーン・シュパン F1ラスト キャリアベストリザルト SURTEES TS19 ヴァーン・シュパン オーストラリア出身 1972年 BRMでF1初エントリー 1974年 エンサイン 1975年 ヒル それぞれ数戦のみのスポット参戦 1977年 サーティスから途中エントリー チームメイトはビットニオ・ビランビラ R10イギリスGP 予選23位→決勝12位 R11ドイツGP 予選19位→決勝7位 決勝7位はシュパンのキャリアベスト R13オランダGP 予選落ちした所で チームを解雇されこれが最後のF1となった シュパンのドライバーキャリアはここからで 1981年 インディー500で 3位表彰台 1983年 ルマン24時間 ポルシェ925で優勝 同年全日本耐久選手権でも 3戦中2勝をあげてチャンピオン獲得している モデルはSPARK R11ドイツGP仕様 予選19位→ シュパンのキャリアベストの決勝7位 スポンサーdurexはイギリスを中心とした 世界シェア1/4を誇るコンドームのブランド
240611 V.SCHUPPAN 1977 18FW12C
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2011 (25TH) SPARK VIRGIN MVR-02 T.GLOCK
ティモ・グロッグ ヴァージン2年目 マルシャ資本参加 VIRGIN MVR-02 2012年グロッグはヴァージン残留 チームメイトはジェローム・ダンブロシオ ロシアの自動車マルシャがチームに資本参加 マシン名称にMが加えられてMVR-02となった 前年度マシンVR-01同様 風洞を使用せず コンピュータ上の数値流体力学(CFD)で設計 しかし設計を担当した元シムテック代表の ニック・ワースは成績上がらずチーム途中離脱 後パット・シモンズが加入し立て直しを試みた グロッグは予選最高R10ドイツ19位 決勝はR7カナダ R12イタリアでの15位 前年同様に僅差でチームメイトの ダンブロシオ(決勝14位)にも敗れ チームもHRTに2年連続負けて最下位 グロッグは翌2013年チーム名がマルシャに 変更となるも残留し最後のシーズンを迎える モデルはスパーク R3中国GP仕様 予選22位→決勝21位 マルシャのロゴがエンジンカバーに入り 前年度より落ち着いたカラーとなった ヴァージン仕様のスリーブデザイン
240305 T.GLOCK 2011 1/43FW12C
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2020 (23RD) PMA HAAS F1 TEAM VF-20 P.FITTIPALDI
エマーソン・フィティバルディの孫 ピエトロ・フィティバルディ デビュー ピエトロ・フィティバルディ 祖父 エマーソン・フィティバルディ 大叔父 ウイルソン・フィティバルディ 従伯父 クリスチャン・フィティバルディ 叔父 マッシミリアーノ・パピス ビッグネームファミリー5人目F1デビュー チャンピオンの孫の参戦はF1界で初 2020年ハースのテスト兼リザーブドライバ― R・グロージャンのケガで終盤2戦のみ出場 R16サーヒルGP 予選20位→決勝17位 R17アブダビGP 予選19位→決勝19位 決勝は完走車の中ではいずれも最下位 大きなアピールをする事はできなかった モデルは最終戦のアブダビGP仕様 ハースのグランプリ出場100戦目記念 この時のチームメイトはケビン・マグヌッセン こちらはヤンを父に持つ2世ドライバ― ピエトロは2018年に1戦のみで日本の スーパーフォーミュラにも参戦 #F1-2020年
221031 P.FITTIPALDI 280 51FW12C
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1982 26TH CP FITTIPALDI F9 C.SERRA
チコ・セラ F1唯一のポイント フィティバルディ最後のマシンF9 チコ・セラ ブラジル出身 1979年イギリスF3でA・チェザリスと 争い5勝をあげてチャンピオンを獲得 1981年よりフィティバルディ所属 1982年は資金難でC・セラ1台体制 前年度改良型のF8Dで前半戦を出場 R5ベルギーGP 予選25位グリッドは23番手 トップから3周遅れの7位でフィニッシュも 3位のN・ラウダ(マクラーレン)が 最低重量違反で失格となり 繰り上がりで6位入賞を果たした C・セラのF1での唯一のポイント R11フランスGPからニューマシン モデル仕様のFITTIPALDI F9を投入も 6戦中3度の予選落ち 年間6度予選落ち 年間順位はこの年のポイント獲得の ドライバ―では最下位の26位 1975年エマーソン・フィッテパルディの兄 ウイルソンが設立したコパーシュカー 1980年からは・フィッテパルディとして 参戦したが1982年をもって撤退 以降現在までブラジル国籍のF1 コンストラクターチームは現れていない #F1-1982年
C.SERRA 20 1/43 FITTIPALDIFW12C
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1996 (21ST) ONYX FORITI FORD FG03 L.BADOER
こちらのモデルはMuuseoではおなじみの 【アダムスキー(当時はサイケデリア)】で購入 2010年1月27日 980円 さすがの価格 1996年ルカ・バドエルはミナルディから レンタルの形でフォルティに移籍 チームメイトはA・モンテルミニ 前年度のR・モレノ P・デニスのブラジルから イタリアンドライバ― コンビニ変更 競争力の無いマシンでこの年導入された 予選107%ルールで4度の予選落ち 画像1 R7スペインGP 画像2 R4ヨーロッパGP 2種類のモデルとも予選落ち R11ドイツGPよりチームは撤退 この時点で唯一のイタリア人ドライバ―の G・ラバッジ(ミナルディ)が予選落ちしたため 23年ぶりにイタリア人ドライバーが 一人も決勝にいないレースとなった バドエルは1996年末時点で エントリー41 決勝35レースで無得点 1970年代のアメリカ人ドライバ― ブレッド・ランガーと並び 無得点ドライバ―の最多エントリー記録に並ぶ バドエルはその後 1997~1998年はフェラーリのテストドライバー 1999年にミナルディで再びF1に復帰します #F1-1996年 #アダムスキー(サイケデリア)
L.BADOER 22 1/43 FORTIFW12C
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1976 (21ST) SPARK HESKETH 308D H.ERTL
ハラルド・アーテル オーストリア出身 N・ラウダ炎上事故 救出ドライバ―4人の一人 アーテルは前年度スポット参戦 1976年はヘスケスのレギュラードライバ― アーテルがフル参戦したのはこの年のみ 戦闘力の劣るHESKETH 308Dで苦戦 予選最高はR13イタリアGPの13位 決勝最高はR9 イギリスGPの 7位 決勝7位はアーテルの生涯ベストリザルト モデルはR12オランダGP仕様 予選24位→決勝リタイア 翌年よりペンスキーを買収して参戦する ドイツ自動車部品メーカーのATSがスポンサー ◆R16日本(富士SW)予選21位→決勝8位◆-F1 R10ドイツGPでは 炎上するN・ラウダ(フェラーリ)の救出を 自らのレースは捨ててマシンから降り ブレット・ランガー ガイ・エドワーズ アルトゥーロ・メルツァリオと共に 救助活動を優先させドライバ―でもある 翌年以降はヘスケス エンサイン ATSでスポット参戦したが F1でポイント獲得はならなかった #1976年 #F1-1976年 #ヘスケス #F1
H.ERTL 1976 24 1/43FW12C
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1995 (33RD) ONYX TYRRELL YAMAHA 023 G.TARQINI
F1界の苦労人でお祭り男 イタリア出身 ガブリエル・タルキーニ 最後のマシン 1987年オッゼラでスポット参戦デビュー その後はコローニ→AGS→フォンドメタルと 下位チームを渡り歩いた苦労人 ヘルメットはファンのバットマンをモチーフ 1995年はそのフォンドメタルのスポンサーの ティレルのTESTドライバ― 片山右京がケガで欠場の R14ヨーロッパGPに出場 予選19位→決勝は14位完走 この1戦限りでF1からは引退 予備予選落19回 予選落21回はワースト2位 決勝の不参加(DNPQ+DNP)の 40回はワースト1位 しかしながら 2003年ヨーロッパツーリングカー 2009年世界ツーリングカー選手権 いずれもチャンピオン 1度は上位チームで走って欲しかった1人 今ではSPARKが1戦限りの モデルを発売していますが ONYXが1戦限りのモデルを出したの とても珍しかった 🏁ガブリエル・タルキーニ (イタリア) 【決勝出走数】38回(入賞1回) 【予選最高位】11位 1992年 フォンドメタル R12ベルギー 【決勝最高位】 6位 1989年 AGS R4メキシコ #F1-ラスト #F1-1995年
G.TARQINI 3 1/43 TYRRELLFW12C
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1994 (28TH) ONYX LOTUS MUGEN 107C P.LAMY
資金難を象徴する LOTUS 107シリーズは足掛け3年 実に34戦におよび使用されたマシン (その前シリーズの102も37戦) 昨年終盤でシートを得た P・ラミーがレギュラーシート獲得 ラミーの4戦までのカウルのスポンサー R1 LOCTITE R2 右 セデス・ハイ 左 新ポポンS R3 Pepe jeans R4 SHIONOGI(モデル仕様?) とこちらも苦労が見えるスポンサーロゴ ラミーはR4後のシルバーストーンのテストで リアウイングが突如外れるアクシデントで 両ひざと手首を骨折の重傷 一時は意識を失ったが後に回復 前年ケガでA・ザナルディからシートを奪うも 今度は自身のケガでA・ザナルディに シートを奪われます ラミーは1995年にミナルディでF1に再度復帰 #1994
P.LAMY 11 1/43 LOTUSFW12C
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1989 (41ST) SPARK MINARDI M189 P.BARILLA
イタリア パスタ会社の御曹司 パオロ・バリッラ F1デビューMINARDI M189 イタリアでシェア1位 食品会社 バリッラ社の御曹司 パオロ・バリッラ 1985年 ル・マン24時間 チャンピオン 1989年 中嶋企画から全日本F3000参戦 同時に無限のF1用のエンジンと ブリヂストンのテストドライバーも務めた 同1989年F1日本GP ケガで欠場の ピエルルイジ・マルティニの代役で ミナルディからF1デビュー 予選19位→決勝は1周もできずにリタイア 翌1990年ミナルディのレギュラーシート獲得 バリッラ社からの直接的なスポンサーは無い為 マシンやレーシングスーツに同社のロゴは無い とあるスーパーでBarillaのパスタを発見 思わず購入 おいしくいただきました #F1-1989年
P.BARILLA 23 1/43 MINARDIFW12C