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2012 (20TH) SPARK MARUSSIA MR02 T.GLOCK
the story will be at a later date.
240305 T.GLOCK 2012 24FW12C
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1977 16TH SPARK SHADOW DN5B R.ZORZI
チームメイトの悲劇 R.ゾルツィ SHADOW DN5B レンツォ・ゾルジ イタリア出身 1975年 ヨーロッパF3 3位(1勝) 同年・翌1976年にウイリアムズで 各1戦 資金持ち込みでF1出場 1976年 後のアロウズチーム設立の1人 フランコ・アンブロオの支援を受けて シャドウのシート獲得 チームメイトはトム・プライス R2ブラジルGP 予選18位 決勝は完走7台のサバイバルの中 生き残りキャリア唯一となる6位入賞 悲劇はR3南アフリカGP ゾルジはエンジンが壊れコース脇に マシンを止めたが小規模な火災が発生 その火災の消火を試みたマーシャルが コースを横切りゾルジのマシンに向かう際 レース中のチームメイトのトム・プライスの マシンにはねられ死亡 プライスもマーシャルの消火器が直撃し 帰らぬ人となってしまった ゾルジはR5スペインGPまでの出場で 資金が尽きてシートを失い これがF1での最後のレースとなった モデルはスパーク ゾルジのキャリア唯一入賞の R2ブラジルGP 予選18位→決勝6位 旧型のDN5Bの漆黒マシンで 資金援助のあったアンブロオの 名前がマシンに貼られている
240224 R.ZORZI 1977 17FW12C
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1977 (30TH) SPARK HESKETH 308E H.ERTL
フランク・ダニー作 HESKETH 308E ハラルド・アーテル ポイント獲得ならず 1977年ヘスケスは資金難により 開幕~R4までを欠場 R5スペインGPでニューマシン308Eを投入 翌1978年序盤まで使用されて ヘスケスの最後のマシンとなった このヘスケス308Eは後に 空力のスペシャリストとも呼ばれ ウイリアムズ・ロータス・リジェ等で 活躍したフランク・ダニーのデザイン ドライバ―は前年より残留の ハラルド・アーテル(オーストリア) チームメイトはルパート・キーガン アーテルはR7ベルギーGP 予選25位→決勝9位が最高位 R9フランスGPでシーズン2度目の 予選落ちを最後にチームを離れ ヘスケスもノーポイントでシーズン終了 モデルはスパーク R7ベルギーGP仕様 アートル シーズンベスト9位 メインスポンサーのHEYCOは ナイロン樹脂製や金属製の配線材料を 販売するアメリカの会社 1970年代ではあまり見ないFORDのロゴが フロントウイングに存在する
231214 H.ERTL 1977 25FW12C
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1982 (28TH) SPARK MARCH 821 J.MASS (ROTHMANS)
ヨッヘン・マス 最後のマシン ロスマンズカラー MARCH 821 1982年マーチ・エンジニアリングは R3アメリカWEST GPより タバコのロスマンズがスポンサーが付き それに伴いカラーリングも大幅変更 R4サンマリノGPでマスはこのマシンで ジル・ビルヌーブと接触の事故となり この事故でジルは帰らぬ人となった R11フランスGP決勝で今度はマスが マウロ・バルディとの接触事故となり 自身F1からの引退を表明した F1引退後マスはスポーツカー選手権を 主戦場としてレーサーは継続して ルマン24時間では1989年の 総合チャンピオンとなっている 🏁ヨッヘン・マス (ドイツ) 【決勝出走数】105回(入賞28回-表彰台8回) 【予選最高位】 4位(3回) 1976年 McLAREN R2南アフリカ 1976年 McLAREN R4スペイン 1977年 McLAREN R2ブラジル 【決勝最高位】 優勝 1975年 McLAREN R4スペイン https://muuseo.com/FW12C/items/1477?theme_id=31619
231106 J.MASS 1982 17FW12C
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1982 (28TH) SPARK MARCH 821 J.MASS
マーチだけどマーチじゃない ヨッヘン・マス F1ラストイヤー 1982年1年F1を離れたヨッヘン・マスは マーチ・グランプリで復帰 このマーチはRAMが母体となっており 1970年代のマーチ・エンジニアリングと異なる この複雑な状況な為 マーチだけどマーチじゃないと 母国のイギリスでは言われている モデル仕様の開幕戦南アフリカGPは グリーンとブラックのカラーリングで メインスポンサーの1つとして フランス手巻きタバコ リズラ+が付いている しかしマスは個人契約で マールボロドライバ―の為 ヘルメットとスーツには同社のロゴが添付 更にこのマシンの後半戦はタバコの ロスマンズがスポインサーとなる マーチの名称 タバコスポンサーなど なんともややこしい1台が ヨッヘン・マスの最後年 ドイツのマニアック車リリースの レースランド別注シリーズ 🏁ヨッヘン・マス (ドイツ) 【決勝出走数】105回(入賞28回-表彰台8回) 【予選最高位】 4位(3回) 1976年 McLAREN R2南アフリカ 1976年 McLAREN R4スペイン 1977年 McLAREN R2ブラジル 【決勝最高位】 優勝 1975年 McLAREN R4スペイン #F1-1982年
230310 J.MASS 350 17FW12C
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1998 (20TH) PMA TYRRELL FORD 026 R.ROSSET
ティレル最後のマシン TYRRELL 026 4度の予選落ち リカルド・ロセット 1998年シーズン前 ティレルオーナー ケン・ティレルはチームを クレイグ・ポロックに売却 ドライバ―は高木虎之介と ヨス・フェルスタッペンの予定であったが ポロッグの意向により R・ロセットに変更 Safra・LYCRAのスポンサーを持ち込んだ この件もありケン・ティレルは シーズン途中にチームを離脱した ロセットはR7カナダGPの決勝8位が最高 これは生涯ベストリザルトタイ 1996年導入の予選107%ルールに 度々引っ掛かり予選落ち R16日本GPでもシーズン4度目の予選落ちで ティレルの最終戦に決勝進出できなかった ティレルは1968年からの約30年の 歴史に幕を閉じ翌年はBARとして参戦
230207 R.ROSSET 20 1/43FW12C
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1998 (20TH) PMA TYRRELL FORD 026 "TOWER WING″ R.ROSSET
マイク・ガスコインがデザインした TYRRELL026はダウンフォース不足を補う為 前年度にも導入したサイドウイングを採用 数チームが追随して空力トレンドになった ミニチャンプスでは "TOWER WING″として このウイングを装着した ティレル・フェラーリ・ジョーダン ザウバー・プロストの5チーム合計10名を "TOWER WING″仕様として限定数で発売 "TOWER WING″はR5スペインGPから J・アレジ(ザウバー)のピットでの事故や 見た目の悪さもあり使用が禁止され サイドウイングありきでデザインした TYRRELL 026は翼を取られ更に成績悪化 長き歴史のティレルの最後を コンストラクター最下位で終えた リカルド・ロセットも1998年でF1最後 生涯入賞はなく決勝最高8位の成績であった 🏁リカルド・ロセット (ブラジル) 【決勝出走数】26回 (入賞0回) 【予選最高位】17位(2回) 1996年 アロウズ R2 ブラジル 1996年 アロウズ R15 ポルトガル 【決勝最高位】 8位(2回) 1996年 アロウズ R12 ハンガリー 1996年 ティレル R7 カナダ #F1-1998年 #F1-LAST
230207 R.ROSSET "TOWER WING″ 2.222FW12C
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1984 (22ND) SPARK ATS D7 BMW TURBO F1 G.BERGER
ゲルハルト・ベルガー F1デビュー 2戦目6位入賞 ATS D7 BMW TURBO F1 オーストリア出身のG・ベルガーは 家業のベルガー運送の拡大の為 父の猛反対もあり一度はレース人生を諦めた 同郷のヘルルート・マルコ(現レットブル顧問)の 父への説得もありレース生活を再開 1983年ヨーロッパF3に参戦 マルコのツテもありBMWとのパイプもできた 1984年そのBMWを登載したATSより R12母国オーストリアGPでF1デビュー 予選20位→決勝12位 モデル仕様 ベルガーのF1参戦2戦目となった R14イタリアGPでは早くも6位入賞 生涯の入賞回数は95回 チームがマーカス・ヴィンケルホックの 1台エントリーだった為ポイントは対象外 翌1985年はBMWのアロウズからフル参戦 引退する1997年まですべての年で入賞する #F1-1984年
221124 G.BERGER 400 31FW12C
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1976 (29TH) SPARK WILLIAMS FW05 M.LECLERE
もう一人のルクレール フランス出身 ミッシェル・ルクレール WILLIAMS FW05 2018年~活躍中のシャルル・ルクレール その40年以上前に同じルクレールの ミッシェル・ルクレールが参戦しています ただし2人に血縁関係は無し ミッシェルは1975年ティレルで1戦のみ 1976年はウイリアムズよりR2より参戦 TMはジャッキー・イクス ウイリアムズは前年度のヘスケスの308Cを 買取りポスルズウェイトが改修してFW05とし カナダの石油王ウォーターウルフがスポンサーで ウォーターウルフレーシングとした ウイリアムズにはめずらしい Marlboroがスポンサー ミッシェル・ルクレールの 予選最高はR6モナコの18位 決勝最高位R4スペインの10位 予選落ちもあったが6戦中5戦を完走 ◆R16日本(富士SW)未出走◆ R8フランスGPを最後にチームを離脱 ミッシェル・ルクレールはこれがF1ラスト ウイリアムズチームの1976年は資金難もあり 合計9名ものドライバ―が在籍したが 残念ながら入賞は一人もなくシーズン終了 #1976 #F1-1976年 #ルクレール
M.LECLERE 1976 21 1/43FW12C
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1979 (30TH) SPARK ALFA ROMEO 179 V.BRAMBILLA
頭部骨折の重傷から1年ぶりの復帰の ヴィットリオ・ブランビラ 1979年アルファロメオで出場 (チーム名はアウトデルタ) R13イタリアは暫定モデルの177 予選22位→決勝12位 R14カナダでニューマシン179で参戦 179はモノコックの後端の上部が 斜めに削られ形状でそこに エンジンのオイルタンクを装備する ユニークな設計が特徴で 1982年の開幕戦まで改良版が使用された ブランビラはモデルのR14カナダGPは 1台のみのエントリーで予選18位→決勝R 最終戦のR15アメリカ東は予選落ちしている
V.BRAMBILLA 36 1/43 ALFA ROMEOFW12C
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1976 11TH+α2 SPARK LOTUS 77 R.PETERSON
1976年チーム・ロータスは 前年のLOTUS76の失敗と72老朽化に伴い LOTUS 77を開幕のブラジルGPから導入 コース特性に合わせてホイールベースや トレッドを調節することが可能な アジャストカーをコンセプトに設計 R・ピターソンはロータス4年目 ブラジルGPは予選18位 TMのM.アンドレッティは予選16位 決勝は2人ともリタイヤに終わる LOTUS 77に失望したピターソンは このGPをもってロータスを離脱 古巣のマーチに移籍 わずか1戦のみのモデル John Player Specialのタバコ仕様 PLANEX COLLECTION 別注 #F-1976年
R.PETERSON 1976 5 1/43FW12C
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1973 (25TH) SPARK MARCH 731 H.PESCAROLO
アンリ・ペスカローロ フランス出身 ル・マンでは3連覇を含む4度の優勝 33回出場という最多記録所持者 F1では1973年 R4スペインGPに マーチのワークスSTPマーチで参戦 MARCH 731のデビューマシン 予選18位→決勝8位でこれが この年のチーム最高位 この後R10オランダGPでは R・ウイリアムソンが このマシンで残念ながら事故死している マーチをサポートしてきた スポンサーSTPもこの年で終了 ペスカローロは1973年 ル・マン マトラシムカMS670Bで 後にラルースチームを設立する ジェラール・ラルースと組んで優勝している #F1-1973年 #F1
H.PESCAROLO 1973 11 1/43FW12C
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1993 (30TH) ONYX CASTROL LOTUS 107B P.LAMY
ペドロ・ラミーはポルトガル出身 1992年ドイツF3チャンピオン 1993年はロータスのテストドライバー ピンク色のヘルメットが特徴 R13イタリアGPよりザナルディの代役で 初出走 予選最下位→決勝11位 その後は接触・スピンなど 見せ場なく終了したが 次年度は開幕戦よりロータスの レギュラーシート獲得 古館語録では 音速のフランシスコ・ザビエル リスボン特急と表現されていました R15日本GPでは終盤に アクティブサスペンションの影響で 派手にクラッシュ(画像4枚目) 13位完走扱い #1993
P.LAMY 12 1/43 LOTUSFW12C
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1993 (32ND) PMA JORDAN HART 193 I.CAPELLI
1993年I.カペリは かつての盟友イアン・フィリップ の誘いもありジョーダンと契約 開幕戦の南アフリカGPは 予選18位→決勝はリタイヤ このGPではかつてカペリも所属の マーチがエントリーするも (J-M.グーノン J.ラーマス) 資金難で出走せず エントリー台数が26台となり R2ブラジルより予選26位が予選落ちのルール となった(R9イギリスGPまで) この予選落ち第1号となったのはカペリ その後チームとの資金トラブルもあり このGPでジョーダンを離脱 そのままF-1からは引退しました 最後は残念な形でしたが カペリ(とレイトンハウス)は 輝きを放つドライバーとして 今も記憶に残っています #1993
I.CAPELLI 15 1/43 JORDANFW12C
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1987 18TH SPARK LEYTON HOUSE MARCH 871 I. CAPELLI
レイトンハウスのサポート受け MARCH復活 カペリ フル参戦 1987年イヴァン・カペリが前年の 国際F3000チャンピオン時代から サポートを受けていたレイトンハウスにより 1982年以来となるマーチが復活 チームは1台体制 開幕戦はマシンが間に合わず F3000時代のものを流用 R2サンマリノGPよりMARCH 871を投入 ハイライトはモデル仕様R4モナコGP 予選19位から粘りの走りで トップから2周遅れも6位入賞 以降はリタイアが続いたが R10ハンガリーGPを前に 若きエイドリアン・ニューウェイが加入 そこから5戦連続完走と早くも効果が出た 鮮やかなレイトンブルー この後カペリとともF1を歩みます
I.CAPELLI 1987 16 1/43FW12C