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1978 (36TH) SPARK ENSING N177 L.LEONI
後にファーストレーシング設立 L・レオーニ 2回限りの決勝 ENSING N177 ランベルト・レオーニ イタリア出身 1977年 ヨーロッパF2 後のF1 ミナルディチームとなる スクーデリア・エベレストなどに所属 1勝をあげてランキングは11位 同年サーティスからF1エントリーも予選落ち 1978年はエンサインよりF1デビュー 開幕から2戦決勝進出するもリタイア 3戦・4戦は連続予選落ちしたところで ジャッキー・イクスにシートを奪われ レオーニのF1は決勝2回のみで終了 その後ファーストレーシングを設立 1988年は国際F3000で ピエル・ルイジ・マルティニを擁し1勝 マルティニはミナルディでF1にステップアップ この時のセカンドドライバーは 1994年の全日本F3000チャンピオンで ジョーダンでF1参戦したマルコ・アピチェラ 1989年ファーストレーシングはF1参戦表明 ガブリエル・タルキーニを擁しテストを開始 しかしクラッシュテストを1度でパスできず 2度目で通過したもののスポンサーがつかずに 資金難で結局は開幕戦に現れることが無かった その後ファーストレーシングのマシンは ライフ・レーシングに売却されて 1990年にライフ L190と生まれ変わるも こちらのマシンも決勝には進出できなかった モデルはスパーク 開幕戦アルゼンチンGP 予選23位 決勝は29周目にエンジンが壊れてリタイア スポンサーがほとんどなく白ベースのマシン エンサインは同年N177のマシンで ジャッキー・イクス ネルソン・ピケ デレク・デイリー などが起用されて デイリーが最終戦カナダで6位入賞している #1978年
240515 L.LEONI 1978 23FW12C
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1969 (20TH) Quartzo (Team Gunston) BRABHAM REPCO BT24 S.TINGLE
ローデシア出身 サム・ティングル 最後の出走 BRABHAM REPCO BT24 サム・ティングル ローデシア出身 ローデシアは現在のジンバブエで F1での同国出身エントリーは3名のみ ティングルは隣国であった南アフリカGPのみを スポット参戦1963年~1969年で5回出走 1969年はプライベターTeam Gunston マシンはブラバム レプコ BT24 開幕戦の南アフリカGP 予選はタイム出した中で最下位の17位 決勝はトップから7周遅れながら8位完走 キャリア5回の中でベストリザルト ティングルはこれがF1最後のレースとなり 最終レース時の年齢は47歳であった F1本戦ではポイント獲得はならなかったものの F1非選手権では3度の入賞がある モデルはQuartzo 南アフリカGP仕様 予選17位→決勝8位 Gunstonは南アフリカタバコで ブランドカラーはオレンジ 前年の1968年にF1で初めて タバコのスポンサーカラーを マシンに取り入れたのが このプライベートチームであった
240130 S.TINGLE 1969 17FW12C
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2022 (22TH) SPARK ASTON MARTIN AMR22 N.HULKENBERG
困った時のニコ・ヒュルケンベルグ 代役出場 ASTON MARTIN AMR22 2022年前年に続きアストンマーティンで リサーブドライバーのヒュルケンベルグ レギュラードライバ―の セバスチャン・ベッテルが新型コロナ感染 した為急遽 開幕戦とR2に出場 2020年のレーシングポイント時代に セルジオ・ペレス/ランス・ストロールの 体調不良で代役出場以来のF1レース 開幕戦バーレーンGP決勝17位 R2サウジアラビアGP決勝12位で ポイント獲得ならず これにより実力者ながらF1参戦より 表彰台無し記録が181戦まで伸びた 翌2023年は通算のべ9チーム目となる ハースでレギュラードライバ―復帰する モデルはスパーク 開幕戦バーレーンGP仕様 予選17位→決勝17位 予選ではチームメイト ランス・ストロース(19位)を凌いだが 決勝ではストロールが上回り12位 #2022年
231228 N.HULKENBERG 2022 27FW12C
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1999 (20TH) PMA ARROWS A20 T.TAKAGI
開幕直前アロウズシート獲得 高木虎之介ポイントならずARROWS A20 1999年シーズン開幕直前に アロウズのシートを獲得の高木虎之介 チームメイトは新人ペドロ・デ・ラ・ロサ 開幕戦オーストラリアで予選17位 決勝は入賞一歩手前の7位完走 この予選・決勝のリザルトがシーズンベスト 決勝の7位は虎之介のキャリアベスト このGPではデ・ラ・ロサが6位入賞 チームに貴重な1ポイントをもたらし 1ポイントで並んだミナルディには 虎之介の7位により上回り コンストラクターで9位となった 虎之介はこの年でF1からは去り 日本人フル参戦ドライバ―としては 唯一の無得点者でF1通算32戦(失格1回)で ノーポイントは歴代ワースト4位 翌2000年フォーミュラーニッポンに復帰 10戦中8勝で圧勝のチャンピオンを獲得 2003年にはインディ500の ルーキーオブザイヤーを獲得している モデルはミニチャンプス 収集初期に購入したモデル この年の虎之介のモデルは TEST CAR /SHOW CAR /別注モデルなど 沢山のバリエーションが存在する 🏁高木虎之介 (日本) 【決勝出走数】31回 【予選最高位】13位(2回) 1998年 ティレル R1オーストラリア 1998年 ティレル R3アルゼンチン 【決勝最高位】 7位 1996年 アロウズ R1オーストラリア
230913 T.TAKAGI 1999 15FW12C
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1975 (29TH) SPARK HESKETH 308 B.LUNGER
デュポン創業者一族の御曹司 ブレット・ランガー デビュー ブレット・ランガー アメリカ出身 メロン財閥・ロックフェラー財閥と並び アメリカ3大財閥とも言われるデュポン財閥 創業一族の御曹司 デュポンは化学メーカー 1975年ヘスケスの2NDドライバ―で 終盤3戦をスポット参戦 チームメイトはジェームス・ハント 3戦ともハントがポイント獲得したが 13位完走/10位完走/リタイア に終わる 翌1976年はサ―ティスに移籍 R10ドイツGP ニュルブルクリンク 燃え盛るマシンからラウダを救出した 勇気ある英雄ドライバ―4人の1人 (G・エドワーズ H・アートル A・メルツァリオ) ランガーはF1通算決勝出走34回で 残念ながらポイント獲得は無し これはポイント獲得無しドライバ―の 決勝出走回数のワースト3位 (2位 マックス・チルトン 35戦 (1位 ルカ・バドエル 51戦
230710 B.LUNGER 1975 25FW12C
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1981 (23RD) SPARK MARCH 811 D.DALY
複雑怪奇 マーチ・レーシング デレック・デイリー MARCH 811 1980年イギリスのレーシングチーム RAMはウイリアムズFW07のマシンで 参戦していたが マーチ創設者の一人である マシンデザイナーのロビン・ハード手を組み 【マーチ・グランプリ】を設立 しかしこれは1970年代に参戦した 【マーチ・エンジニアリング】とは無関係 1981年ハードはRAMのF1参戦のために マシンをハードが持つ別会社 【マーチ・エンジンズ】にて設計 最終的にRAMレーシングが 【マーチ・レーシングチーム】として 70代とは違うマーチでの参戦と複雑 当初はE・サラザールとD・デイリーの 2台体制であったが連続の予選落ち サラザールがエンサインに離脱後 デイリー1名体制となりチームは改善 ポイント獲得はならなかったものの 決勝最高位はR9イギリスGPの7位 モデルはR10ドイツGP仕様 (予選21位→決勝リタイア) アイルランド発祥のビール醸造会社 Guinness(ギネス)がメインスポンサー #F1-1981年
D.DALY 350 17 1/43FW12C
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2011 (20TH) SPARK SAUBER C30 FERRARI P.DE.LA.ROSA
the story will be at a later date.
230328 P.DE.LA.ROSA 17 1/43FW12C
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1999 18TH PMA ARROWS A20 P.DE.LA.ROSA
the story will be at a later date.
230326 P.DE.LA.ROSA 1999 14FW12C
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1975 (35TH) PMA (LEXINGTON RACING) TYRRELL 007 I.SCHECKTER
同一マシンによる兄弟同時出走 シェクター兄 イアン TYRRELL 007 イアン・シェクター 南アフリカ出身 弟は1979年ワールド チャンピオン ジョディー・シェクター 1974年スポット参戦デビュー 1975年もプライベター LEXINGTON RACINGでティレル007の マシンでR3地元南アフリカGPに出場 弟ジョディーもこのGPにティレル本体で ティレル007のマシンで出走 史上唯一の同一マシンによる兄弟のエントリー 弟ジョディーはこのGPに見事優勝 兄イアンは残念ながら55周でリタイア イアンはR7スウェーデンR8イタリアGPを ウイリアムズで参戦 最高位は決勝12位 #F1-1975年
230321 I.SCHECKTER 1975 1.008FW12C
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1968 (26TH) SPARK (TEAM GUNSTON) BRABHAM BT20 J.LOVE
F1歴史上唯一 南ローデシア ドライバ― ジョン・ラブ BRABHAM BT20 ジョン・ラブ 南ローデシア出身 南ローデシアはアフリカ南部に位置する 旧イギリスの植民地で現在のジンバブエ こちらの出身ドライバ―はF1史上唯一 ラブは南アフリカGPのみを 毎年スポット参戦するドライバ― 1962年~1972年までエントリー 1964・1966年は南アフリカGPが未開催だが 1964年のみ代役でイタリアGPに エントリーも予選落ちしている このモデルは1968年のマシンで 1966・1967年のチャンピオンマシンである ブラバムBT20を購入してプライベート TEAM GUNSTONより参戦 フロントサス横に自身の名前を 赤地に白文字で【JOHN LOVE】と大きく 描かれたオレンジ色のマシンで 予選17位→決勝9位完走している ラブはF1では前年の1967年に 自身唯一の入賞を2位表彰台で飾っており 1964年の初代含む1969年まで 6度の南アフリカF1選手権チャンピオン #F1-1968年
230312 J.LOVE 17 1/43FW12C
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1998 (19TH) PMA MINARDI M198 E.TUERO
シルバー/ブルー ミナルディM198 エスティバン・トゥエロ アルゼンチン 1998年ミナルディはチーム立て直し3年計画 ジャンカルロ・ミナルディと大株主で フォンドメタルのガブリエーレ・ルミが 中心となり 元フェラーリ・リアル・レイトンハウスなどの デザイナー グフタス・ブルナーを招集 何とスタッフも75名→120名に増員 スポンサーの意向もあってか カラーリングも今までにない シルバーとブルーのコントラスト エスティバン・トゥエロは アルゼンチンドライバ― 19歳 参戦当時で史上3番目の若さでエントリー (2023年現在でも9番目の若さ) チームメイトは中野信治 前年の1997年はフォーミュラニッポンで 入賞1回 わずか1Pでスーパーライセンスの 発給も危ぶまれたがアルゼンチンの スポンサーの後押しもあり何とか参戦 開幕戦オーストラリアで予選17位 R4サンマリノで決勝8位が最高位 16戦中完走は僅かの4回でシーズン終了 チームも3年連続でノーポイント トゥエロは翌年1999年はミナルディで L・バドエル M・ジェネとのシート争いに 敗れてF1のシートを失ない 以降F1にエントリーすることは無かった
230209 23 1/43 MINARDIFW12C
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1975 17TH SPARK HILL GH1 A.JONES
アラン・ジョーンズ F1初ポイントは チーム ヒル最後のポイントHILL GH1 A・ジョーンズのデビューは1975年 ヘスケスで4戦出場も完走は1回のみ R8オランダGPよりワールドチャンピオン G・ヒルが立ち上げたチーム・ヒルより参戦 TMはトム・ブライズ 予選ではトム・ブライズに全敗も R11ドイツGPでは予選21位→決勝5位入賞 A・ジョーンズのF1初入賞であるが チーム ヒル最後のポイントでもあった ジョーンズの生涯入賞回数は39 ヒルでは4戦出走全て完走も R・シュトルメの復帰に伴いチームを離脱 翌1976年はサーティスより参戦 #F1-1975年 #F1ファーストポイント #F1
A.JONES 1975 22 1/43FW12C
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2001 (23RD) PMA MINARDI EUROPEAN PS01 F.ALONSO
フェルナンド・アロンソ 新記録樹立 F1デビューから21年3ケ月8日(7770日) F1参戦期間が史上最長ドライバー 2022年6月12日R8アゼルバイジャンGPで達成 それまではM・シューマッハの7763日 アロンソはスペイン出身 1981年生まれ 2001年3月4日にミナルディからデビュー その時点で19歳 当時史上3番目の若さ こちらはそのデビューマシン MINARDI EUROPEAN PS01 決勝の最高位はR12ドイツGPの10位 ミナルディ出身のドライバ―で後に F1で優勝するのはアロンソ含め5人 A・ナニーニ G・フィジケラ J・トゥルーリ M・ウエバー ワールドチャンピオンはアロンソのみ 途中F1から離れたが2022年で19シーズン目 ミナルディ➡ ルノー➡ マクラーレン➡ ルノー➡ フェラーリ➡ マクラーレン➡ 2022年現在がのべ7チーム目のアルピーヌ アロンソのデビューマシンで人気もあり ミニチャンプスとしては珍しく 2度のワールドチャンピオン後の 2007年頃に再販されたバージョン #F1-2001年 #2001年
F.ALONSO 20 1/43 MINARDIFW12C
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1996 (20TH) ONYX MINARDI FORD M195B P.LAMY
ペドロ・ラミー 初のフル参戦 最後のマシン MINARDI FORD M195B 1996年シーズンはドライバ―の エントリーが複数あったのは ミナルディのみで合計4人 その中でペドロ・ラミーは初のフル参戦 エース格で挑んだシーズンであったが 開幕戦予選で新人のG・フィジケラに敗れ R3アルゼンチンでもT・マルケスにも敗れた 決勝もR4サンマリノGPの9位が最高位 ミナルディのチームとしても 1990年以来6年ぶりのポイント無で終了 ラミーはこの年限りでF1引退 ポルトガル出身のF1ドライバ―は ラミー含め現在まででわずか4人のみ 1991年のペドロ チャベス(コローニ)は 決勝進出していない為 決勝走行は3人 ラミーの次のポルトガル人ドライバーは 2005年のT.モンテイロ(ジョーダン) ラミーは見た目より実際は若く F1 初エントリーは21歳 F1 最終エントリは24歳だった ペドロ・ラミー(ポルトガル) 決勝出走回数 32回 予選最高位 14位 1995年 ミナルディ R15パシフィック 決勝最高位 6位 1995年 ミナルディ R17オーストラリア #F1-1996年 #F1最後のマシン
P.LAMY 20 1/43 MINARDIFW12C
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1975 (24TH) SPARK HESKETH 308 H.ERTL
ハラルド・アートル F1デビュー 1975年R11ドイツGP HESKATH 308 ハラルド・アートルはオーストリア出身 イエローのヘルメットが特徴 ヴァルシュタイナー・ブルワリーのチームが HESKATH 308のマシンを購入して 1975年R11ドイツGPより3戦限りの出場 デビューとなったモデル仕様の ドイツGPは予選23位→決勝8位完走 決勝はシーズンベストリザルト ヴァルシュタイナーは1753年以来 ドイツのアルンスベルクの森で醸造される 淡い黄金色の伝統的なドイツビール 1978年からのアロウズのスポンサーでも 有名ですが 1975年は自チームで出場 ゴールドカラーが何とも目を引く1台 #F1-1975年 #ヴァルシュタイナー #F1デビュー #1975年
H.ERTL 1975 25 1/43FW12C