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1995 (34TH) ONYX PACIFIC FORD PR02 J.D.DELETRAZ
ジャン・デニ・デルトラーズ スイス出身 パシフィックよりスポット参戦 1994年最終戦にラルースでデビュー 1995年パシフィックより2戦のみ出走 R13ポルトガルGP予選24位(最下位) PPのタイムより12秒遅れ 決勝は腕の筋肉痙攣でリタイア モデルはそのポルトガルGP仕様 スイスの高級腕時計メーカー FRANCK MULLERがスポットスポンサー R14ヨーロッパGP予選24位(最下位) PPのタイムより9秒遅れ 決勝はトップより7週遅れの完走15位 この1戦あたりの持参金は およそ1500万円 2戦で3000万円 これ以降は支払いが滞り B・ガショーが再びドライブした 息子のルイ・デルトラーズは 2019年開発 2020年テスト&リザーブ でハースF1に所属している 1995年の1チームの最多出場 ドライバ―数はパシフィックの4人で デルトラーズが4人目のエントリーであった
J.D.DELETRAZ 16 1/43 PACIFICFW12C
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1995 (35TH) ONYX PACIFIC FORD PR02 G.LAVAGGI
ジョバンニ・ラバッジ イタリア出身 37歳F1ルーキー パシフィックで参戦 1991年国際F3000に参戦するも 10戦中8戦で予選落ち 1995年はデイトナ24時間でチャンピオン ではあるがスーパーライセンスが なぜ認められたかは謎のドライバー 4戦契約でパシフィックで R9ドイツGPよりデビュー モデルはそのドイツGP仕様 多くのスポットスポンサーが車体に 貼られて苦しいチーム事情がうかがえる 4戦中3戦が予選最下位 4戦すべてリタイアで 4戦合計走行周回は65週 R11ベルギーGP予選では唯一 P・ディニス(フォルティ)の勝ったが それでもトップから12秒遅れ ラバッジは翌1996年終盤に ミナルディより再びF1参戦しますが こちらは残念ながら量産化されていません #1995
G.LAVAGGI 16 1/43 PACIFICFW12C
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1995 (25TH) ONYX PACIFIC FORD PR02 A.MONTERMINI
アンドレア・モンテルミニ イタリア出身 GPデビューマシン 1994年R・ラッツェンバーガー亡き後 シムテックから参戦するも R5スペインGPのフリー走行で 大クラッシュして骨折 予選を走行することなく欠場 1995年はパシフィックより レギュラーシートを獲得 開幕戦を予選22位→9位完走 R9ドイツは予選23位→8位完走 決勝8位はモンテルミニと チーム・パシフィックにとっても 生涯のベストリザルト パシフィックは1994年で撤退した ロータスの名称権を買収 ロータスのグリーンのラインと ロゴがマシンに小さく貼られていて 日本の企業の仲介もあり おーいお茶のITOENが スポンサーについていたが この年限りでF1から撤退した #1995
A.MONTERMINI 17 1/43 PACIFICFW12C
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1995 (26TH) ONYX PACIFIC FORD PR02 B.GACHOT
1991年ルマン24時間レース覇者 ベルトラン・ガショー 最後のマシン 1995年ガショーはパシフィックの 共同オーナー側で携わる予定も他者の 契約問題もありR1~8・R15~17の11戦出走 R17オーストラリアGPの8位がベスト モデルはR6カナダGP仕様で 予選20位→決勝リタイヤ 当初はベルギー国籍であったが 1992年よりフランスの国籍に 父親はEC(現EU)の高官 予備予選参加41回 通過25回は どちらも歴代1位の数字 1990年スバル・コローニで参戦 1991年マツダでのルマン24H優勝 1992年ベンチュリーで片山右京のTM など日本とも関わり多い F1引退後はエナジードリンク飲料会社 Hype Energyを買収しCEOを務めている 🏁ベルトラン・ガショー (フランス) 【決勝出走数】46回(入賞4回) 【予選最高位】10位(2回) 1991年 ジョーダン R2ブラジル 1992年 ベンチュリー R13イタリア 【決勝最高位】 5位 1991年 ジョーダン R5カナダ 【ファステストラップ】 1回 1991年 ジョーダン R10ハンガリー #F1-1995年 #F1-LAST
B.GACHOT 16 1/43 PACIFICFW12C
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1994 (45TH) ONYX PACIFIC ILMOR PR01 B.GACHOT
1994年コンストラクター数は14チーム この内2人ドライバーが開幕から 変わらなかったのは僅か4チーム ティレル・ミナルディ・フットワーク そしてパシフィック グランプリ 通常パシフィックのような下位のチームは 頻繁に持参金でドライバ―の交代が あるのだが・・それすらなかった B・ガショーでさえ決勝進出は5回 そのいずれもリタイヤで終了 終盤スラントノーズを投入も(画像4) ハイノーズ前提のデザインの為 何かのきっかけを掴みたい努力も 残念ながら 全く効果なく終わる R16オーストラリアGPの予選後 ガショーはインタビューで 『今日は最良の1日さ もう2度と PR01に乗らなくて良いのだから』 このコメントがすべて物語っている パシフィック グランプリは このような状況でも全16戦に参加 翌年1995年も参戦継続された #F1-1994年 #F1
B.GACHOT 34 1/43 PACIFICFW12C
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1994 (44TH) ONYX PACIFIC ILMOR PR01 P.BELMONDO
フランス名優 ジャン=ポール ベルモンドさんが 2021年9月6日にお亡くなりになりました 1960年「勝手にしやがれ」 1970年「ボルサリーノ」 など数々の映画に出演し人気を博しました 享年88歳 ご冥福をお祈りします ご子息のポール・ベルモンドは 1994年 パシフィックGPより参戦 当初1993年参戦予定の為車体は1年落ち イルモアエンジンは実に2年落ち ベルモンドの決勝進出は16戦中 2回のみ R4モナコ予選24位→決勝R(スピン) R5スペイン予選25位→決勝R(体調不良?) そのスペインGPではフロントウイングを ボルト止め(画像2枚目)など散々な状況 ベルモンドはこの年でF1を離れ 1997年には全日本GT選手権に参戦 1999年にはポールベルモンドレーシングを設立 ル・マンにも参戦 2005年にクラス3位など 精力的に活動を続けました #1994 #ポールベルモンド https://muuseo.com/FW12C/items/399
P.BELMONDO 33 1/43 PACIFICFW12C