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1977 17TH SPARK ENSING N177 C.REGAZZONI
チームエンサイン 初のフル参戦 C・レガッツォーニ ENSING N177 トータル6年間過ごしたフェラーリを 離れたクレイ・レガッツォーニは 1977年エンサインに移籍 エンサインは1台エントリー 中盤よりセオドールがエンサインの 車体を購入してP・タンベイがエントリー エンサインN177は前年のN176を マイナーチェンジしたのみながら 開幕戦で予選12位→決勝6位入賞 中盤自身初の予選落ちをするも 終盤R14イタリア R15アメリカで 連続で5位入賞で年間5P ランキング17位 タンベイも同じく5Pでエンサインの コンストラクター10Pはベストリザルト エンサインは前年不参加の 最終日本GP(富士SW)にもエントリー レガッツォーニの予選はスポット参加した 星野一義(KOJIMA)の一つ前の10位 決勝は43週エンジンが壊れリタイア モデルはスパーク 開幕戦アルゼンチンGP予選12→決勝6位 マシンにはレガッツォーニの パーソナルスポンサーである スイスの時計ブランドTISSOTがスポンサー N177のマシンは1979年途中まで使用
240201 C.REGAZZONI 1977 22FW12C
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1980 (25TH) KIT ENSING N180 C.REGAZZONI
クレイ・レガッツォーニ 引退 下半身不随の大事故 ENSING N180 1980年レガッツォーニは1977年以来の エンサインで1名体制でのエントリー 完走はR3南アフリカの決勝9位のみ R4アメリカWEST GP ブレーキペダルが折れる アクシデントで下半身不随の重症 これはとっさにギアを3速に入れ エンジンスイッチを切って減速の上 リタイア車に当てて衝撃をやわらげる という一連の操作で一命を取りとめた レガツォーニはこれ以来車椅子生活も 両手のみで操作ができるように 改造された車両で運転を継続 その内の一台であるHONDA NSXでの ドライブがテレビCMに残されている F1通算5勝とPP5回はいずれもそれぞれ 異なる年に記録しており フェラーリ時代のイタリアGPで2勝 またFLは15回と決勝での速さも光った 🏁クレイ・レガッツォーニ (スイス) 【決勝出走数】131回 (入賞52回-表彰台28回) 【予選最高位】 PP(5回) 1970年 FERRARI R15 メキシコ 1971年 FERRARI R 6 イギリス 1973年 BRM R 1 アルゼンチン 1974年 FERRARI R 5 ベルギー 1976年 FERRARI R 3 アメリカW 【決勝最高位】 優勝(5回) 1970年 FERRARI R10 イタリア 1974年 FERRARI R11 ドイツ 1975年 FERRARI R13 イタリア 1976年 FERRARI R 3 アメリカW 1979年 WILLIAMS R 9 イギリス 【ファステストLAP】(15回) https://www.youtube.com/watch?v=Th5RlvokgYI&feature=related
230712 C.REGAZZONI 1980 14FW12C
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1978 (31ST) SPARK (SACHS RACING) ENSING N177 H.ERTL
1グランプリに2チームからエントリー ハラルド・アートル ENSING N177 1978年ハラルド・アートルは プライベートチーム ザックレーシングで エンサインのマシンを使用し途中参戦 初戦のR11ドイツGP 予選23位→決勝11位 R12オーストリアGP 予選24位→決勝リタイア 決勝進出は2レースのみでこれが アートルのF1レース最後の決勝レースになった R14イタリアGPはエントリーが32台となり アートルはザックレーシングで 予備予選から出場も通過ならず 予選開催時にATSチームに空きシートがあり 予選はATSから出場 こちらも予選落ち 1グランプリに2チームからエントリー しかも予備予選落ちと予選落ちを 両方経験したドライバ―となった ハラルド・アートルはこの後 1980年にATSからスポット参戦も予選落ち 1982年に自家用飛行機の事故で 残念ながら他界 享年33歳 1976年ドイツGP 自らのレースは棄てて 同郷のニキ・ラウダ(フェラーリ)を 炎上するマシンから救出した4人の ドライバ―の1人として賞賛されている #F1-1978年
230314 H.ERTL 23 1/43FW12C
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1980 (26TH) SPARK ENSING N180 J.LAMMERS
ヤン・ラマース F1 2年目 ATS→エンサイン移籍 ENSING N180 ヤン・ラマース(オランダ)は生涯F1で 41戦の予選参加も通過は23回 予選不通過回数18回は歴代ワースト6位 同じ予選不通過18回には M・アルボレート(イタリア)もいるが こちらの不通過率が8.5%に対して ラマースの不通過率は43.9% 1980年も前半ATSで6戦中3回 後半エンサインで8戦中5回の予選落ち モデルはR8イギリスGP仕様であるが このGPも予選落ちをしている R13カナダGPの決勝12位が最高位 チームエンサインとしても 2年連続ノーポイントで終わる ラマースは1981年ATS 1982年セオドール そしてその10年後の1992年にマーチで スポット参戦をするがF1で入賞は無かった #F1-1980年
230220 J.LAMMERS 14 1/43FW12C
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1979 (34TH) SPARK ENSING N179 M.SURER
マルク・スレール スイス出身 F1デビュー ENSING N179 スイス人ドライバ―としては C・レガッツォーニ J・シフェールに次ぐ 3番目のF1出場82回のM・スレール 1978年全日本F2にスポット参戦 マーチ・782 BMWでR4鈴鹿で優勝 1979年ヨーロッパF2で2勝 E・チーバー B・ヘイトンを抑えチャンピオン 1979年F2終了後にP・ガイヤールに代わり エンサインからF1初参戦 R13イタリアGP R14カナダと連続予選落ち 最終戦R15アメリアGPではエンサインの シーズンベスト予選21位で初の決勝進出 決勝はエンジントラブルでリタイア モデルはR14カナダGP仕様 地元RAINBOW JEANSがスポットスポンサー この年ENSINGのマシンは赤ベースであったが 黒ベースに塗り替えられて カラフルな虹が施されている スレールは翌1980年はATSでシート獲得 1981年には再びENSINGに戻ります #℉1-1979年
230213 M.SURER 22 1/43FW12C
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1978 20TH SPARK ENSING N177 D.DALY
デレック・デイリー デビュー 最終戦6位入賞 ENSING N177 D・デイリー アイルランド出身 同国出身ドライバ―は現在までに4人のみ 1977年イギリスF3 チャンピオン 1978年R4よりヘスケスより参戦も 決勝進出ならず チームも途中撤退 R9フランスGPよりエンサインに移籍 R10イギリスGPで初の決勝進出 最終戦R16カナダGPで予選15位 決勝は地元G・ビルヌーブの初優勝の中 6位初入賞 デイリーの生涯入賞は8回 エンサインはこの年9名のドライバ―を 起用も入賞はデイリーのみであった 黒いボディにスイスの時計ブランド TISSOTの黄色いロゴが目立つ 個人的に好きなカラーリング #F1-1978年
221228 D.DALY 1978 22FW12C
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1981 21ST SPARK ENSING N180B E.SALAZAR
F1で唯一のチリ出身ドライバ― E・サラザール 初ポイントENSING N180B ブラジルF3参戦時にネルソン・ピケと出会い F1でのデビューにつながる 1981年はRAM(マーチグランプリ)より参戦 R7スペインGP以降はエンサインで出走 多額のスポンサー料を持ち込んだ R12オランダGP 予選24位から荒れたレースを走り抜き 見事6位入賞 サラザール初入賞は エンサインとしては最後の11回目の入賞 マシンにはサラザールの持ち込みと思われる TOYOTAのスポンサーロゴも存在 #F1-1981年
221023 E.SALAZAR 14 1/43FW12C
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1981 16TH SPARK ENSIGN 180B M.SURER
マルク・スレール キャリアベスト チーム唯一のFL記録 ENSIGN 180B スイス出身のマルク・スレール 1981年はデビュー時と同じエンサインに復帰 R2ブラジルGPで予選18位から 決勝4位入賞とファステストラップを記録 これはスレールキャリア唯一のFLであり チームエンサインにとっても最初で最後の記録 モデル仕様のR6モナコGPでも 予選19位→決勝6位入賞 昨年の改良型N180Bは予選の速さはないものの 決勝では信頼性を生かし2度の入賞 スレールはモナコGPでエンサインを離れ セオドールに移籍 エンサインは チリのドライバ― E・サラザールを起用 スレールのスペルはSURER 日本語表記は スレール/シュラー/シュアー/ズレール/ズラー など様々ありショップでも統一されておらず ややこしいドライバ―名称 マニアックモデルをリリースする RACELAND別注モデル #F1-1981年
M.SURER 1回 300 14FW12C
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1979 (26TH) SPARK ENSIGN N179 D.DALY
F1史上 唯一無二のデザイン 最も醜いとも言われる ENSIGN N179 1979年エンサインは序盤2戦を 前年型のマシンで戦い R3南アフリカGPよりエンサイン初の グランドエフェクトカーN179を導入 誰もが驚くデザインで 冷却機器をノーズに配置 上部にオイルクーラー 下部にラジエター 階段状の3枚刃を持つ独特な形状は 別名チーズグレーター(チーズおろし器) 結局 冷却機器が機能せず オーバーヒートで予選落ち コックピットに流れ込む熱気が ドライバ―のD・デイリーを苦しめた このデザインはR3南アフリカの予選のみで R4以降は通常のノーズに戻されたが N179でのデイリーは予選通過は1度のみ (前年度のN177での決勝11位が最高位) エンサインを離脱しその後ティレルに移籍 F1の雑誌等でユニークデザイン車では 必ずと言っても良いほど話題に上がる ENSIGN N179をSPARKがモデル化 予選のみのデザインながら F1史上最もインパクトを残した1台 #F1-1979年 #F1ユニークデザイン #F1 #1979年
D.DALY 22 1/43 ENSIGNFW12C
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1976 18TH SPARK ENSIGN N174 C.AMON
史上最強の未勝利ドライバ― クリス・エイモン ラストイヤー 1963年から参戦のエイモン最後の年 1976年はエンサインのレギュラーシート 開幕戦欠場後旧型のインダクションポッドが 高い位置にデザインされたN174でR2・R3を戦い モデルはR3アメリカW 予選17位→決勝8位 レギュレーションに合わせた新型N176 初戦R4スペインで予選10位→決勝5位入賞 自身3年ぶり通算29回目最後の入賞 R7スウェーデンGP予選3位 R9イギリスGP予選6位と速さ見せるも R10ドイツGPでのN・ラウダ(フェラーリ)事故を見て ヘルメットを置く決意をしてチーム離脱 R14カナダはウイリアムズで予選のみを走行し F1の長いキャリア14年の幕を閉じた 引退後は母国で家業の農業に従事した クリス・エイモン (ニュージーランド) 決勝出走回数 97回 予選最高位 PP(5回) 1968年 フェラーリ R2スペイン 1968年 フェラーリ R4ベルギー 1968年 フェラーリ R5オランダ 1971年 マトラ R9イタリア 1972年 マトラ R6フランス 決勝最高位 2位(3回) 1968年 フェラーリ R7イギリス 1970年 マーチ R5ベルギー 1970年 マーチ R6フランス ファステストラップ 3回 1970年 マーチ R4ベルギー 1972年 マトラ R5ベルギー 1972年 マトラ R6フランス リーダーラップ 183周 #F1-1976年 #1976年 #F1
C.AMON 1976 22 1/43FW12C
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1975 20TH SPARK ENSIGN N175 G.VAN LENNEP
ジィズ・ヴァン・レネップ オランダ出身 最後のF1マシン 1971・1973・1974年とスポットでF1参戦 1975年もエンサインから3戦のみの出走 モデルのR9フランス予選22位→決勝15位 R11ドイツでは予選24位→決勝6位入賞 1973年より参戦のエンサインの初の入賞 レネップは2度目の入賞で最後のGPでもあった このレネップの入賞以降次の オランダン人ドライバ―のポイント獲得は 1994年のJ・フェルスタッペンまで20年かかった レネップは2度のル・マン24時間を優勝 1971年 マルティーニ・ポルシェ・917K TM=ヘルムート・マルコ(現レッドブル顧問) 1976年 ポルシェ・936ターボ TM=ジャッキー・イクス ジィズ・ヴァン・レネップ(オランダ) 決勝出走回数9回 入賞回数2回 予選最高位 20位 1973年 ウイリアムズ R10オランダ 決勝最高位 6位(2回) 1973年 ウイリアムズ R10オランダ 1975年 エンサイン R11ドイツ #F1最後のマシン #1975 #F1 #ヘルムート・マルコ
G.VAN LENNEP 1975 31 1/43FW12C
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1979 (31ST) SPARK ENSIGN N179 P.GAILLARD
パトリック・ガイヤール フランス出身 1970代半ばR・アルヌー D・ピロー二などと フランスのヌーヴェル ヴァーグと呼ばれた 1979年D・デイリーがエンサインを去った後 T・ニーデルにライセンスが降りず ガイヤールがR8フランスより参戦 R8~R12で5戦中3度の予選落ち モデル仕様のR9イギリスが 唯一の完走 予選23位→決勝13位 ENSING N179の車体にとっても完走は1回のみ ガイヤールは翌年1980年スペインGPで ENSINGから再度スポット参戦 トップから5週遅れも6位入賞を果たしたが このGPは後にノンタイトル戦に格下げされた為 幻のポイントとなってしまった 結局F1では1979年の2戦のみの決勝出走 ガイヤールは1978年と1980年に 全日本F2にもスポット参戦しています #F1-1979
P.GAILLARD 22 1/43 ENSIGNFW12C