ソ連救国戦車!! ソ連陸軍、中戦車T-34/76A

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T-34は76.2mm主砲を装備し、傾斜甲板による避弾経始によって、実際の厚さ以上の装甲防御力を備えている。
1941年のドイツ軍によるソ連攻撃時には、T-34はすでに第一線部隊に定着していたが、その登場はドイツ軍を驚愕させた。傾斜の付いた厚い装甲(最低18mm、最高50mm厚)が使用され、ドイツ軍のほとんどの対戦車兵器から身を守ることができたT-34のL/30 76.2mm主砲(配備後すぐに口径のL/40に換装された)は、大半のドイツ軍戦車に対して効果を発揮し、副兵装には7.62mm機関銃2挺を装備していた。

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    デルタ

    2021/05/22

    第2次世界大戦における、最優良戦車ですね。個としての性能、つまり1対1では、ドイツの5号、6号には劣るものの、量産性(大量生産)で、旧ソ連は工場を分散配置する事で空襲などの被害を極小に抑え、製造工程で部品数を極力抑える事で生産性を向上、同時に整備の簡素化を図り前線での戦場回復力を高め、東部戦線でドイツを圧倒して行ったと思慮、個としても前方、後方、左右側面の防御も被弾形状も概ね良好で、武装も76.2㎜と標準的で後に85㎜を搭載するなど、新砲塔への換装が柔軟に対応出来る。

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    僕だらえもん(スミ・ミュウ)

    2021/05/22 - 編集済み

    投稿有難うございます。
    デルタさんのご意見の通り、生産性(数の問題)ということが、やはり戦況に大きく関係しますね。
    実は私の祖父が帝国陸軍兵でT34のことを知っていました。走行中は主砲を発射できないそうです。しかし現在と違って走行していたら砲弾はあたんないですよね・・・・。

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      デルタ

      2021/05/22 - 編集済み

      コメント感謝です。話の方向性が変わりますが、祖父の方はどちらの部隊におられたのですか?実は私の母方の祖父は、久留米に所在した歩兵第18師団の山砲兵連隊に所属し、昭和13年に中国へ出兵し、15年に一旦除隊、18年に再招集を受け、ビルマ戦線へ再出兵、昭和20年現地で終戦を迎え復員したそうです。ちなみに装備火砲は、41年式75㎜山砲で、資料を調べたら、確かに、第18師団総員31.400名中、約20.000名が戦病死し、まさに生き残れたのは、祖父の運の強さだと感心しました。

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    • 返信が遅れてすみません。浜田21連隊です。徐州作戦で部隊は全滅。北海道機関銃大隊が救出して、確か180人位生き残った内の一人が祖父です。左内ももを撃ち抜かれ、男として不能になりました。私の父は養子ですので、祖父と私は血がつながっておりません。

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      デルタ

      2021/12/21

      コメント感謝致します。

       歩兵第5師団に所属した歩兵連隊ですね。確か1937年から39年の徐州作戦は激戦だったと戦史記載で見たことがあります。数度に渡る戦闘で日本軍側の戦死者は約1万とありました。これにはドイツの軍事顧問が作戦を企図し、一部の部隊はドイツ軍の装備を備えていたらしく、かなり苦戦したとの事でした。
       第2次上海事変の際、海軍陸戦隊も同様だったそうです。

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    • 色々教えていただき、有難うございます。私の父の方は65歳でそこそこ詳しいのですが、私は38歳でよくわかりません。また教えてください。

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