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原宿セントラルアパート → 東急・表参道プラザ
'24.5月 JCD総会・前日の建築ツアーに参加しました。 表参道と明治通り角に先月開業したばかりの、東急プラザ「ハラカド」。 東急不動産のディレクターの方の案内を受け視察しました。 GFの「DIOR」はまだ開業していませんでしたが、 地階には銭湯があり、 4階は「ハラッパ」と称されるパブリックスペース、 目に入るのはビルの中とは思えないほどのグリーンで子供の頃遊んだ原っぱのイメージが再現されている。 さて、テラスに出て対面に現れたのは「オモカド」と呼称を改めた、表参道東急プラザだ。 万華鏡をイメージしたエントランスがユニーク、NAP建築設計/中村拓志氏のデザインだ。 この「オモカド」の場所に、かつてあった「原宿セントラルアパート」には多くのクリエーターが事務所を構えていたのだったが、その残影さえ何もない。 近隣の、現在は建て替えられ「表参道ヒルズ」となった同潤会青山アパートメントにも個性的なブティックやギャラリーが集っていた。 このエリアは渋谷や新宿とは異なる独特な原宿文化の発信源の1つだった。 その後、麻布台ヒルズなどを周遊し建築ツアーは終わりました。
原宿・表参道0318
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コシノジュンコ 56(語録) 「大丈夫」
「大丈夫。何事にも動じない」 常に、どんと構える、それが大切。 予期せぬトラブルに見舞われ、我を失って慌てると 判断を誤って死に繋がりかねません。 だから、冷静に判断する。 私、東日本大震災の時に、本当に痛感したんです。 日常の中で直面する、あらゆる局面、 プライベートでも仕事でも、同じことですよね。 過酷な状況でも、少し冷静になると大切なことが見えてくるはず。 今、この時に何をなすべきなのか、何が最善なのか。 この状況におけるベストの行動は何なのか。 常日頃から意識して、動じずに対応できる心を保ちたいものです。 「大丈夫。一歩引いてみよう、全体が見える」 これはデザインに関する私の理念ですね。 いいか悪いか判断するときの。 私自身はこのデザインが大好きなんだけれど、私抜きにして、 世間の人から見たら、どうなんだろう? 今の時代に合っているのかなあ・・・・って。 点(個人)で見るのと、線(世間)で見るのと、 どうなんだろうって。 そう、一線引いて考えることも、大切にしています。 でも、第一印象でピンとくるものって、やっぱり大切ですね。 まあ、すべてではないですけれど、だいたい合っていますね。 「大丈夫」という文字には、すべて「人」がはいっている。 「人」が大切。 デザインの原点を考えてみる。 日本の美というのはやっぱり引き算だと思う。 一方の西洋は付け足す。
大丈夫 コシノジュンコ 1800円0318
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柚木 沙弥郎 美しい本の仕事/絵と型染から生まれる御伽草子
型染め作家で美術家の柚木 沙弥郎は1922年に東京・田端に生まれた。 父は洋画家、祖父も画家という芸術一家に育っ。 東京帝国大学文学部美学・美術史科に入学するが間もなくして学徒動員される。 戦争で勉学が中断されたが終戦の翌年から父の故郷である岡山県・倉敷にある大原美術館に勤務、 そこで民芸運動を牽引する柳宗悦らと親交を持つようになる。 同じく民芸運動に参加していた染色工芸家・芹沢銈介の型染カレンダーに魅せられ、弟子入りする。 氏の芹沢から学んだ染色技法の型染め文字絵は、型紙を使ったもので、個性豊かで味わい深さがある。 型染とは絵や図案を画いて型紙を作り、染めない部分を糊で防染して布や紙を染める伝統技法である。 2022年に生誕100年を迎えたが、現役で創作を続け、国内外で数多くの展覧会が開催されている人気の作家。 2024年1月、天寿を全うし永眠されました。
美しい本の仕事/絵と型染から生まれる御伽草子 柚木 沙弥郎 最近0318
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雑誌づくりの決定的瞬間 堀内 誠一 続き
1932年東京生まれ。グラフィックデザイナー、エディトリアルデザイナー、アートディレクター、絵本作家。 1947年 14歳で伊勢丹百貨店に入社。 1955年アド・センター株式会社設立。 堀内がデザインした平凡出版(現マガジンハウス)の雑誌『an・an』『POPEYE』『BRUTUS』『Olive』は現在もなお、そのロゴが使用されている。 『anan』においては創刊時のコンセプト作りやアートディレクションを手がけ、ヴィジュアル系雑誌の黄金時代を築いた。 マガジンハウス社「Hanako」は長女「花子」にちなむ。 1958年に初の絵本「くろうまブランキー」 を出版。 「たろうのおでかけ」「ぐるんぱのようちえん」「こすずめのぼうけん」など、今に読み継がれる絵本を数多く残す。 1968年から翌1969年にかけて澁澤龍彦とともに季刊誌『血と薔薇』を編集。 1974年、フランス・パリ郊外に移り1981年まで居住。 1987年逝去。 享年54歳。
エディトリアルデザイン 堀内 誠一0318
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「テン・アメリカン・ペインターズ」 Frank Weston Benson
フランク・ウェストン・ベンソン Frank Weston Benson(1862~1951) アメリカ・印象派の画家 マサチューセッツ州セイラムで生まれ。 1880年 ボストン美術館の付属美術学校で美術を学ぶ。 1883年 パリに留学、フランスの印象派の画家や、17世紀オランダのフェルメールの影響を受ける。 1886年からポートランドで美術教師を始め、 1889年にボストンの母校で教え始め、翌年絵画部門のリーダーとなった。 印象派の画風の人物画を多く描く トワックトマン、ウィアー、ハッサムらと設立した美術家グループ「テン・アメリカン・ペインターズ」に参加。 テン・アメリカン・ペインターズ(Ten American Painters) 通称「The Ten」は、1898年に結成されたアメリカの美術家グループ。 アメリカの美術界の保守性に対抗するために、ニューヨークやボストンなどの東海岸の画家たちからメンバーを集め10人の画家からなるグループが結成された。 創立メンバーは主にフランスで学んだ画家たちで、 1870年代にフランスでおきた印象派の運動にアメリカの美術界が批判的であったことなどに対抗する動きでもあった。 20年ほどニューヨーク、ボストンなどの東海岸の都市で展覧会を開き活動した。
アメリカ・印象派 Frank Weston Benson(1862~ 1951)0318
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「印象派 モネからアメリカへ ウスター美術館所蔵」 続き
海を越えて花開いた “アメリカ印象派” フランスで生まれた印象派は、海を越えて広がり、アメリカ各地で独自に展開していきました。 その技法はニューイングランドの田園風景や西部の自然の驚異など、アメリカらしい主題にも応用されていきます。 これまで日本で紹介される機会の少なかった、“アメリカ印象派” ウスター美術館は、開館当初から印象派の作品を収集し、 1910年にはモネの《睡蓮》を美術館として世界で初めて購入。 メアリー・カサット《裸の赤ん坊を抱くレーヌ・ルフェーヴル(母と子)》(1902-03)→ 次項に記載しています。 ジョン・シンガー・サージェント《キャサリン・チェイス・プラット》(1890)→ 176Fで記載しています。 フランク・ウェストン・ベンソン《ナタリー》(1917)→ 次項に記載しています。 それぞれウスター美術館所蔵 さて、見学で訪れた 4月4日の上野公園は、寒さ続きで開花の遅れた桜が満開となり、 折からのインバウンドの観光客も多く、大変な賑わいでした。
アメリカ 印象派 ボストン ウスター美術館所 蔵 東京都美術館0318
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CARTE CLOCK → カルトゥーシュ型の時計
CARTE CLOCK は、壁に直接掛けるように設計されたカルトゥーシュ型の時計のことで、一般的にはオルモルで作られている。 華やかなロココ様式は、流れるような非対称で曲線的なデザイン。 1730年頃からルイ15世の頃までパリで人気があったレジェンス様式(régence style)の特徴である。 しかし、ルイ16世の時代に古典主義が復活すると、パリではカルテ時計は人気を失い、マントルピース型に移った。 フランス語でOrmolu 英語ではGilt Bronze と表記されるオルモル。 18世紀から19世紀にかけて芸術性の高いブロンズ(青銅)又はブラス(真鍮)の装飾品に金メッキを施したものを総称してオルモルと言う。 火炎模様のバリエーションをUPしました。
CARTE CLOCK régence style FRANCE0318
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赤坂 一ツ木通り 「白 妙」 暫らくぶりです 続き
「フランク・ロイド・ライト展」を観ようと、パナソニック美術館へ向かったのですが、なんと休館日でした。 ぽっかり空いてしまった時間と空間・どうしようか? いささか思案・・・ しばらく前から気になっていた「白妙」へ向かうことに決めました。 銀座線を赤坂見附で降りて一ツ木通りへ、 こんな時間(いわゆるアイドルタイム?)なのに、並んでいる。 左の列は買い物、右側は2階(喫茶)のお客・・・・ 折角だからと、コーヒータイムをとることにしました。 川越さんの.息子さんと、ユンハンスの行方など等、お伺いしたいことは山ほど。 外には、お客が山ほど・・・・
ユンハンス・ハンギング・クロック 川越 秀三 大先輩 赤坂・一ツ木通り 白妙0318
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嵐山光三郎氏の近著「生きる」 続き 「星のおじいさま」
その嵐山光三郎氏から贈られたサイン入りの著作「生きる」に、 「星のおじいさま」だぞ の一章がある。 「愛するということは、互いに凝視めあうことではなく、ともに同じ方向を見る事だ」 というサン・テグジュベリの言葉が浮かんだ。 サン・テグジュベリは1935年の暮れにパリ=サイゴン間の試験飛行をするが、 リビア砂漠に不時着して、隊商に奇跡的に救われた。 そして、1944年第2次世界大戦で戦死した。 44歳の生涯。 「星の王子さま」は砂漠に不時着した操縦士の「ぼく」が不思議な少年と出会う話である。 無垢で壊れそうな少年は別の星から来た王子さまだった。 不思議な時空に導かれる大人の童話「王子さま」 そして、どうでしょう。 先日訪れた釜山「甘川(カムチョン)文化村」の迷路のような路地でもお会いしたのでした。 「おとなって、ほんとうに、まったくもっておかしな人たちだ」と旅を続けているうちに 気が付けば「星のおじいさま」になってしまいました・・・・ 「ほんとうに大切なものは、目には見えないんだ」
おとなの童話 サン・テグジュベリ0318
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精工舎 呼鈴付目覚し
精工舎 昭和5年の掛け時計 置時計カタログの画像を最後にUPしました 呼鈴付目覚し:ニッケル、イブシ、琉金、金梨地 専売特許 第三三七六五號 と記されています 前段の呼鈴目覚し同様、天板のプッシュボタンで呼鈴機能。 奥のレバーで SAILENT ⇔ ALARM の切り替えを行います。 ベルは底部にセットされている。 ニッケル製、シンプルな形態です。 家族全員が共有する柱時計と、お母さん・お父さんが使う目覚まし時計。 庶民の暮らしがそのまま伝わってきます。
呼鈴付目覚まし時計 精工舎 15.000円0318
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福の神 お福さん
福を招く縁起物 我家では、「お福さん」と呼ばれております。 ふっくらした体つきは母親の慈愛そのもを表しているように感じられます。 特に、妻は 自分の母親と思い込んでいる様子で・・・・ 時々会話を交わしています。 ま~、それもありでしょう。 こちらの福の神さまには、一番風呂に入って頂くことにします。
福の神 ? やはり、どこかの骨董市でした0318
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福助さん 続き #3 兄貴分
福助さん 続き #3 大ぶりの福助、25cmhほどあります。 以前は、50㎝を超える大物の福助も住込んでおりましたが、「ひもの屋」の守り神としてお譲りしました。 さて、このデコちんの福助は、その体つきによらず つぶらな瞳。 おチョボ口、指先にはマニキュァをしたシャレもんです。 まあ、兄貴分としては許されるところなのでしょう。 こちら様にも、湯を浴びて頂き サッパリして、新しい年を迎えて頂ければな~と考えております。
福を招く縁起物 ? どこかの骨董市でした0318
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私の1969(昭和44)年・・・・続き
日経の名物企画 私の履歴書。 今月は 倍賞千恵子さんだ。 下町っ子らしく気取らないさばさばした筆運びに好感が持てる。 さて、今日は「男はつらいよ」の話題です。 個性豊かな登場人物が次々と繰り広げるドタバタ劇がとにかく可笑しくて切なくて、笑いや涙がどうにも止まらない。 「男はつらいよ」第1作が公開されたのは1969年、 50作目「お帰り 寅さん」が2019年に公開されるまで、 ギネスに載るほどの長寿シリーズとなった。 それでは、私の1969年はどんな年だったか? 出てきました・・・・こんなイラストを描いていたのです。 神戸三宮・永田良介商店のチェストやテーブル、 四つ丸時計が2台、 精工舎の呼鈴目覚し時計(134Fで記述しています)など等 私なりのライフスタイルが定まってきた‘68~'69年あたりが, コレクション人生のスタートでした。
わたしのライフスタイル この頃は、世田谷区若林に住んでいました。 1968~1969年0318
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「セイコーミュージアム 銀座」
パナソニック汐留美術館の帰り道、銀座へ出ました。 資生堂ギャラリーや GGGギャラリーを巡り帰路に着いたのでしたが、 どうでしょう・・・・ 「セイコーミュージアム 銀座」に行きあたってしまいました。 銀座に移っていることはわかっていたのですが、 コロナ禍の折で、 予約制とか・・・・とかで敬遠していたのでした。 「どうぞ」と云われて、 B1F~5F/ひと回りゆっくり観させて頂きました。 場所がら、インバウンドの入館者が目に付きます。 そのことも有るのでしょう、 和時計の展示構成が充実している。 勿論 過去の歴史・業績を土台にしているのではあるが、 しっかりと未来を見据えているところが素晴らしい。 私は、コレクターとして、興味はどうしても、時計の歴史に偏ってしまう。 以前、東向島の「セイコー時計資料館」で求めたカタログを記載します。
ミュージアム SEIKO GINZA0318
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精工舎 琉金 矢持ち
精工舎製 背中に翼が生えている天使をモチーフにした置時計 天使が射った矢が 貴方の運命をとらえる。 最期の画像は、人形作家 四谷シモンの「天使」です。
明治時代の置時計 精工舎0318