倉俣史朗のデザイン  記憶の中の小宇宙  続き #2

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1965年にクラマタデザイン事務所設立。

1967年頃から前衛美術家、高松次郎やグラフィックデザイナー横尾忠則とのコラボレーションした内装などで、倉俣は時代の寵児として注目を浴びはじめる。

1981年、エットレ・ソットサスの誘いで80年代前半を席巻する革命的デザイン運動「メンフィス」に参加。

氏は生涯に400ほどのインテリアを設計し、内約350を実現させた。
が、日本の社会構造や商習慣で次々に失われ現存するのはごく僅かだ。

商店建築誌上で、倉俣は語る。
施主が求める物理的な要求は十分に聞いて絶対に守るが、契約後は一切任せてもらわないと引受けない。
但し、プレゼンティションは丁寧に行い、自身の意図をクライアントに理解してもらう努力をする。

白紙委任状を渡した三宅一生をはじめとするクライアントたちの存在は大きい。
彼は、1976年に ISSEY MIYAKEのフラッグショップ「フロムファースト」以降、倉俣に100店舗以上のインテリアデザインを依頼した。

一方、店舗というクライアントワークではなく、依頼のない家具の自主制作をはじめる。
流通経済の制約を受けない自費での家具製作で自身の意図を確かめる決意があった。
(家具類は前段で掲載しました)

「エドワーズ本社ショールーム1969年
天井と床に電極を設け、蛍光管を垂直に設置、アクリルパイプのカバーで陳列棚をサポート。

「イッセイ・ミヤケ メン」渋谷西武 1987年

「ルッキーノ」1987年 竹山聖が設計した、OXY乃木坂の地下にあったバー
2.7mに及ぶカウンターの天板は、透明ガラス、ひび割れガラス、腐食ガラスの3層。
ある時 三保谷に倉俣が「ガラスが一番きれいなときはいつだ?」と聞かれ「割れる瞬間ですね」と答える、と倉俣は「そこで止めろ!」と叫んだ。割れガラス誕生のエピソード。

「コンプレ」1988年 静岡 バー´23年再オープン全体が柔らかな光に包まれた静かで詩的な空間

「オブローモフ」1989年 福岡ホテル・イルパラッオ内のバー
高い天井空間、ミスブランチと同様の手法でバラを封入した照明の列柱、カラフルな空間

「きよ友」1988年 新橋・鮨店 → 香港 ミュージアム Ⅿ+
天然素材の御影石と杉材を基調に、障子のような光天井をアクセント、氏による日本の伝統的空間の再解釈。

「AXIS」 階段

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