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ベネトン・フォード B188
翌年からターボエンジンが封印される88年。ベネトンはNAエンジンのフォードだったが、コンストラクターズ3位を獲得した。ブーツェンは5回表彰台に上がり、27ポイントでランキング4位の活躍だった。リタイアは2度でいずれもマシン側のトラブルで安定感も文句なかった。またハンガリーGPの予選では3番手の走りも見せた。B188はロリー・バーンの設計で完全な新設計。レギュレーションに合わせてノーズを改良し、ホイールベースも拡張された。またミッションをエンジンと後輪軸の間に搭載しバランスの良さと信頼が売りだった。
T・ブーツェン ミニチャンプス 東京駅八重洲地下フォルツァ 2004.6.20ゆーじ
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ミナルディ・コスワース PS03 ブラジルGP
03年はやたらとフェルスタッペンのモデルカーが発売されたが、一番理解できないのがこのブラジルGPモデルかもしれない。予選ではラス前の19位。決勝では30周目にスピンをしてリタイアしている。このレースで思い出すのはやっぱり初優勝したフィジコが後日トロフィーを受け取ったことだ。なぜにヨスだったのか?
J・フェルスタッペン ミニチャンプス 東京駅八重洲地下フォルツァ 2004.6.20ゆーじ
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BAR・ホンダ 005 日本GP
琢磨の日本GPは突然の出走だったが、005でテストを重ねていたのでほぼ最高と言える結果になった。予選は13番手。次々順位を上げ、一時は2位で走行した。5周目にはミハエルと接触にもひるまず、6位でフィニッシュして鈴鹿に詰めかけたファンを喜ばせた。005はジェフ・ウィリスの設計で手堅いデザインで他チームを上回るアドバンテージはなかった。アップデートや信頼性も決して高いとは言えなかった。
佐藤琢磨 ミニチャンプス 東京駅八重洲地下フォルツァ 2004.6.20ゆーじ
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ミナルディ・コスワース PS03
ジャガーは成績不振のピッツォニァをイギリスGPで放出してウィルソンを乗せた。その空いたシートに座ったのがニコラス・キエーサだ。ヤン・マグヌッセン以来のデンマーク人で、02年は国際F3000に参戦していた。第12戦ドイツGPから5戦ドライブして目立った活躍はなかったが、全レースで完走していた。ちなみにキエーサの愛車は70スープラで、車イジりが趣味だとF速に書いてあった気がする。
N・キエーサ ミニチャンプス 東京駅八重洲地下フォルツァ 2004.5.23ゆーじ
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ウィリアムズ・BMW FW25 イタリアGP
2000年ミナルディ以来でジェネがF1に帰ってきた。01年からウィリアムズのテストドライバーを務め、このイタリアGPの金曜日にラルフが体調不良で代走した。予選ではFW25を知り尽くしている結果、予選5番手飛び込んだ。決勝も5位をキープし、4ポイントを獲得した。モデルカーはモンツァ仕様でリアウィングは一枚になっていて、途中からスポンサーになったバドワイザーのロゴも入っている。
M・ジェネ ミニチャンプス 東京駅八重洲地下フォルツァ 2004.4.29ゆーじ
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トヨタTF103 日本限定 トヨタ別注
この年のトヨタの注目は活躍ではなくスパイ疑惑だった。それも開幕してみるとフェラーリのF2002と酷似していたこともあり、トヨタエンジンを積んだ跳ね馬とも呼ばれた。TF103はグスタフ・ブルナーと、高橋敬三の合作。F1の2年目のマシンとしては上出来で、軽量化とダウンフォース増を実現していた。まだまだ発展途上ではあったが。
C•ダ•マッタ ミニチャンプス 東京駅八重洲地下フォルツァ 2004.4.19ゆーじ
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ジャガー・コスワース R4
ジャガーレーシングはスチュワートを買収して2000年に誕生した。しかし組織内はとにかくゴタゴタの連続だった。初代チーム代表はニール・レスラー。01年はボビー・レイホールが務めたが、ニューウェイの契約をお流れにして代役はチーフエンジニアのジョン・ラッセルが務めた。02年はウォルフガング・ライツレが務めたが、アメリカ陣営が撤退してヨーロッパ組がチームを動かし、ニキ・ラウダが入った。その後もゴタゴタは続いてジャガーは04年限りで去っていった。期待とは程遠い結果だった。
M•ウェバー ミニチャンプス 東京駅八重洲地下フォルツァ 2004.2.18ゆーじ
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ウィリアムズ・BMW FW25 BMW別注
03年もチームメイトはモントーヤ。ポイントでは58対82だったが、予選ではなぜか9勝6敗でP•Pは3対1とリードしていた。それで完走率も86.7%と高く、ヨーロッパとフランスGPで連勝したが表彰台には3回しか上がれていない。開幕から10戦連続ポイントを獲得するものの、地味な走りがイメージだった。イタリアGPでは前週のモンツァテストのクラッシュの影響で、金曜日だけ走って急遽参戦を取りやめた。FW25はパトリック・ヘッド、ギャビン・フィッシャー、アントニオ・テルッツィらの設計で、序盤2戦はFW24の後部とギアボックスを使ったハイブリッド仕様。これが不調でブラジルGPから新型ギアボックスを投入し、復帰したフランク・ダーニーの力でエアロダイナミクスとメカニカルグリップは向上したが、苦しみはシーズンを通して続いた。
R・シューマッハー ミニチャンプス 東京駅八重洲地下フォルツァ 2004.1.11ゆーじ
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ジョーダン•無限ホンダ EJ10 F1初テストヘレス 2000.12.7
琢磨のF1初ドライブは2000.12.7のヘレスだった。トップ3のフェラーリ、マクラーレン、ウィリアムズも参加したこのテスト。琢磨は44周してトゥルーリの約2秒遅れで走りきった。この年の琢磨はイギリスF3でランキング3位。そして01年チャンピオンを獲得して02年にジョーダンからF1デビューした。このミニチャンプスのEJ10はドライバー付きだとレギュラードライバーたちではなく琢磨のみ発売された。理由はわからないが。
佐藤琢磨 ミニチャンプス 東京駅八重洲地下フォルツァ 2003.11.27ゆーじ
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ウィリアムズ・BMW ラウンチ2003 BMW別注
当時はモントーヤが好きだったことと、東京駅八重洲地下フォルツァにも入り浸っていたから買ったと思われます。ラウンチバージョンとはいえ、別注にも手を出していたのも独身を満喫していたからかな。だが台紙がサーキットを流れるようなデザインは好きかも。希少ではないだろうけど。
J•Pモントーヤ ミニチャンプス 東京駅八重洲地下フォルツァ 2003.9.28ゆーじ
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ウィリアムズ ・BMW FW24 2002.12.3 バルセロナテスト
ケケの息子のニコがフォーミュラBMWの好成績のご褒美でF1の初テストの機会を得た。タイムはレギュラードライバーから見ればだいぶ遅かったが、同じくテストに参加したD・ミューラーにはしっかり勝ってみせた。17歳で参加したテストが後のドライバーチャンピオンに繋がっている。そんなうれしい一台だ。
N・ロズベルグ ミニチャンプス 東京駅八重洲地下フォルツァ 2003.8.1ゆーじ
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マクラーレン・TAGポルシェTURBO MP4/2C ポルトガルGP
マクラーレンに移籍したケケ。だがこれがF1最後のシーズンになってしまった。チームメイトはプロスト。結局、プロストがチャンピオンになる中、一勝もできずF1から去って行った。出走114戦、優勝5回、82年は接戦を制してチャンピオンも獲得している。MP4/2Cはジョン・バーナード設計。2Bに似ているが新造で、ターボの吸気が側面からコックピット脇に変更。内部も低重心化されていた。そしてこのレースではマルボロライトのカラーリングにされていたが不評で、二度と現れることはなかった。
K•ロズベルグ ミニチャンプス 東京駅八重洲地下フォルツァ 2003.8.1ゆーじ
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ザウバー・ペトロナス C21 GP USA
02年はアロウズから参戦していたフレンツェンだが、チームの資金繰りが悪化してフランスGPでは故意に予選落ちをしてドイツGPを最後にチームは休眠状態になってしまった。フレンツェンはこのままアロウズを離れて行き場を失った。だがイタリアGPでマッサがアクシデントの責任を取り次戦10グリッド降格のペナルティを受け、その代打でフレンツェンがアメリカGPをドライブした。そして03年のザウバーのシートを手に入れた。
H・Hフレンツェン ミニチャンプス 東京駅八重洲地下フォルツァ 2003.5.1ゆーじ
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ウィリアムズ・ルノー FW16
マクラーレンからウィリアムズに移籍をしてきたセナ。しかし94年はたった3レースで天国に旅立ってしまった。開幕戦は地元ブラジル。2回目のピットストップまで独走だったが、2位からミハエルを追ってスピンしてそのままリタイアした。第2戦はTIサーキット英田でのパシフィックGP。これが日本で最後の勇姿で、鈴鹿に帰ってくることはなかった。決勝は1コーナーで攻めすぎたハッキネンに追突され、直後にラリーニに突っ込まれて去った。そして悪夢のイモラ。金曜日のフリー走行でバリチェロがクラッシュ。土曜日にはラッツェンバーガーがヴィルヌーブコーナーを曲がりきれず帰らぬ人となるが、モノコックが割れて隙間から体が見えるほど痛ましかった。そして決勝まで笑顔のないセナ。7周目のタンブレロでコントラストを失ってそのままコンクリートウォールに向かっていった。セナがレースで死ぬ。しばらく受け入れようにもあまりに深い傷に苦しんだファンも多かっただろう。しかしそれでもF1は続いていくのです。今宮さんの言葉は忘れようにも忘れられない一言でした。
A•セナ ミニチャンプス 東京駅八重洲地下フォルツァ 2003.3.30ゆーじ
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プロスト・エイサー AP04
01年はジョーダンから参戦していたフレンツェンだが、突如ドイツGPの直前に電撃解雇された。その後ハンガリーGPからアレジがジョーダンに移籍したことでプロストのシートに座ることになった。しかし目立った結果は残せず、期待したのはベルギーGPの予選4番手ぐらいだった。AP04はアンリ・デュランの設計で一応ジョン・バーナードも関わっているようだがよくわからない。エンジンは前年のフェラーリ049でギアボックスとリアサスもフェラーリ製だったが、エアロダイナミクスとフロントサスの相性も良くなく、チグハグなマシンという評判だった。
H・Hフレンツェン ミニチャンプス 東京駅八重洲地下フォルツァ 2003.2.22ゆーじ