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PENTACON auto MULTI COATING F1.8/50mm
PENTACON auto MULTI COATING F1.8/50mm コストパフォーマンスの非常に高い東ドイツのペンタコンブランドの中核モデルの、Pentacon Auto 50mm F1.8 (M42 mount)後期型です。 オールドレンズとして大変人気が高い、旧東ドイツのペンタコン人民公社(VEB PENTACON)が生産した標準レンズで、あらゆる場面でオールラウンドに用いることのできる万能なレンズとして有名です。 同じドイツのオールドレンズ「Carl Zeiss JENA DDR Tessar 50mm F2.8」と外見はよく似ているように思います。 個人的には「Pentacon Auto 50mm F1.8」の方に魅力を感じています。 F値も明るく、最短焦点距離も短いのは魅力的です。 この二つのレンズを撮り比べ撮影してみたのですが、素人目ですがPentaconの方が解像度が高く感じたのは興味深い所です。もっとも、どちらのレンズも古い上に、各々の保管状態や個体差もあると思うので評価は難しい所です。 このレンズについてですが、私も特別オールドレンズに詳しい訳ではありませので、下記のブログで勉強させて頂きました。 参考にさせて頂いたブログ、『M42 Mount Spiral』 https://spiral-m42.blogspot.com/ こちらで大変詳しくご説明頂いており大変参考になりますので、是非一度ご覧になって下さい 『オールドレンズの入門者に最適なレンズを話題にする際に必ず登場するのが、旧東ドイツのペンタコン人民公社(VEB PENTACON)が生産した高速標準レンズのペンタコン(Pentacon) 50mm F1.8である。開放では微かに滲む柔らかい描写になり、絞れば現代のレンズのようにシャープでスッキリとした写りとなるため、あらゆる場面でオールラウンドに用いることのできる万能なレンズとして知られている。最短撮影距離は0.33mとたいへん短く、スナップでのマクロ撮影にも充分に対応できる。ロシア製レンズすら寄せ付けない圧倒的なコストパフォーマンスと美味しいところを詰め込んだ欲張りな製品仕様のため、ビギナーにはモテモテ、マニアからは羨望の眼差しと容赦のない厳しいコメントが絶えない。低価格帯オールドレンズの中では台風の目と言っても過言ではないスター性のあるレンズである。 レンズのルーツは旧東ドイツのメイヤー・オプティック(Meyer-Optik)が1960年代から1970年代初頭にかけて生産したダブルガウス型レンズのオレストン(Oreston)50mm F1.8である。メイヤー・オプティックは1968年にペンタコン人民公社へと合流し、1971年から自社の全てのブランドを人民公社のブランド(Pentacon / Prakticar / Pentaflex)で供給するようになった。前期型はオレストンと全く同一のデザインのまま名板のみをすげ替えたもので、ごく初期の製品には「PENTACON ORESTON」と記された過渡的な個体もみられる。レンズは一眼レフカメラのプラクチカLシリーズ(M42スクリューマウント)に搭載する製品として登場し、ガラスにはシングルコーティングが施された。1979年になるとマルチコーティングに対応した後期型が登場、M42マウントのプラクチカLシリーズに加えバヨネットマウントのプラクチカBシリーズにも対応している。前期型と後期型の描写傾向には大きな差はないので、光学設計は一貫して同じものが用いられていたと思われる。プラクチカLシリーズ後期型は一部の個体がレヴューノン(REVUENON)の名でも市場供給されていた。』 とのことです。 参考動画:https://www.youtube.com/watch?v=p3Cto4ET4lI https://www.youtube.com/watch?v=iGQRo3wL65s 【製品概要】 製造国 : 東ドイツ製 レンズ構成 : 4群6枚のガウスタイプ 焦点距離 : 33cm〜無限 絞り : F1.8〜16 絞り羽 : 6枚 マウント : M42 マウント 種類 : マニュアル レンズ重量 : 200g
カメラ M42マウント VEB PENTACONta-ke
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CARL ZEISS JENA DDR TESSAR F2.8/50mm
CARL ZEISS JENA DDR TESSAR F2.8/50mm 『CARL ZEISS』・・・『LEICA』と並ぶドイツレンズの双璧!と言うよりも世界中でも憧れのレンズとして君臨しています。 これ等ドイツレンズは、優秀ではあるにですが、その人気ゆえに、中古品であっても高価な為に、簡単に手に入るレンズとは言えません。 その中では、上手く買うと1万円半ば以下で高美優することが出来る『「TESSAR」は憧れを現実にしてくれるレンズとして、高い人気を誇っています。 そのレンズが、この「鷹の目テッサー」と言う異名を持つ大変有名なオールドレンズ、『CARL ZEISS JENA DDR TESSAR F2.8/50mm』です。 その名に恥じないシャープな写りは今も確かな存在感を放っていて、 フイルムカメラは勿論の事、アダプターを介してデジタルカメラで、オールドレンズの実力を存分に楽しませてくれます。 オートフォーカスは使えませんし、露出もマニュアルが基本、最新のデジタルカメラに馴れてしまった者にとっては、便利なカメラとは正反対の扱いにくいレンズですが、使っているうちにきっとこのレンズ(大きく言えばすべてのオールドレンズ)の虜になること間違いなしです。自身でピントを合わせ、撮った写真は個性豊かに、味わい深くそこにある空気感を映し込んで、デジタルカメラでは得られない世界を見せてくれます。 これこそが写真を写すという事、写真の醍醐味だと気づかされる。このテッサー、さらにオールドレンズたちの魅力なのでしょう。 「Planar(プラナー)」や「Sonnar(ゾナー)」と共に、カール・ツァイスを代表する銘レンズとして名を馳せる「Tessar(テッサー)」。 100年以上の長い歴史の中、様々なモデルが登場していますが、入手性の高さや、M42マウントによる高い互換性から人気を集めているのが、Carl Zeiss Jena Tessar 50mmF2.8と言う事になります。 第二次世界大戦後、ドイツが東西に分裂した際に、東ドイツ側のツァイスはCarl Zeiss Jena (カール・ツァイス・イエナ) を名乗るようになりました。 そもそも、イエナはカール・ツァイスの創業地。 イエナは東ドイツに属する位置にあったため、カール・ツァイスも東西2つに分裂することになってしまったのでした。 とはいえ、1950年代までは東側カール・ツァイスと西側カール・ツァイスは盛んに交流していたといわれています。 余談ですが、ライカの本拠地ヴェッツラーはドイツ国内でも比較的西寄りにあったため、第二次世界大戦後も西ドイツに属することになりました。 東西に分裂したとはいえ、1960年くらいまでのCarl Zeiss Jena (カール・ツァイス・イエナ) は一眼レフ用レンズをリードする存在で、レンズ自体の素性はよく写りもなかなかのものです。 参考動画:https://www.youtube.com/watch?v=WsB_niKvnvM https://www.youtube.com/watch?v=SwKlShjxQkk 【Carl Zeiss Jena Tessar 50mm F2.8 の概要】 メーカー : Carl Zeiss Jena (カール・ツァイス・イエナ) マウント : M42マウント 構成 : 3群4枚 生産国: 旧東ドイツ 参考資料―Tessarの歴史 【誕生から戦前期まで】 Tessar(以下 テッサー)は1902年、カール・ツァイスのパウル・ルドルフ(Paul Rudolph)博士によって考案されました。博士は、1890年にツァイス・アナスチグマット(後にプロター(Protar)と改名)を、1899年にはウナー(Unar)を製作していましたが、これらの製品に満足することなく、更なる改良を目指していました。 そして、ウナーの前群とアナスチグマットの後群を組み合わせることで、それぞれの光学的利点を活かす事が出来ると考え、劇的な成功を収めたレンズの開発に成功しました。このような経緯で誕生したレンズが“テッサー”です。 [出典:flickr(@Ur Cameras)] 当初、テッサーはf/6.3のレンズでしたが、1917年にf/4.5、1930年にはf/2.8の明るさまで改良が行われました。テッサーの成功は、他のメーカーにも多大なる影響を与え、テッサーの特許が切れる1920年以降には、ツァイス以外のメーカーからも、数々の「テッサー型」のレンズが登場しています。有名なテッサー型のレンズとして ライツ エルマー(登場時は絞り位置はテッサーより前方) フォクトレンダー スコパー(後にテッサー型以外にもスコパー銘を採用) 等が挙げられるでしょう。これ以外にも、3群4枚で後群張り合わせというテッサー型の特長的なレンズ構成から見ると、国内メーカー初期のレンズラインナップにも多くの採用例が見られます。 ツァイス自身もテッサーの完成度にはかなりの自信があったとみられ、有名な「鷲の眼レンズ」のキャッチコピーや、ツァイスの意匠にもテッサーの後群をモチーフとしたデザインを採用していました。 ブリティシュジャーナル年鑑(1937) [出典:flickr(@ Nesster)][ 【ツァイスの戦後分断以降】 ドイツの敗戦をもって、カール・ツァイスも分断され、西側諸国では、西側がカール・ツァイスを、東側がカール・ツァイス・イェーナを名乗る事となります。 これ以降のテッサーに関し、東西陣営のスタンスには面白い変化が見られます。 西側のカール・ツァイスは、一眼レフカメラ用交換レンズとしてテッサーを積極的にラインナップする機会は減少させ、それに反してコンパクトカメラや携帯電話の撮影用レンズ等、小型で他品目に応用できるレンズとしてテッサーを採用する機会が増加しました。 一方、東側のカール・ツァイス・イェーナは一眼レフカメラ用交換レンズのラインナップにテッサーを継続させ、以後に登場したパンカラー(Pancolar)と併売される体制が続きました。 これにはパンカラーとの開放F値の違いという点は無視できませんが、興味深い事に、パンカラーにマルチコーティングが施されるようになっても、テッサーはモノコーティングのまま発売が継続されました。製造コスト的な側面も有ったかも知れませんが、カール・ツァイス・イェーナはテッサーの性能の高さから、マルチコーティング化を見送ったとも思われます。
カメラ M42 CARL ZEISS JENAta-ke