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気球飛行(ポーランド)スポーツ切手コレクション」
ポーランドが発行したこの切手は、あらゆるスポーツのうちでも最も優雅なものに数えられている気球飛行を称えたものです。切手に描かれているのは、F.ハイネクとZ.ブルジンスキの2名のポーランド飛行家が1933年にゴードン・ベネット気球レースに参加した時の気球です。この権威あるレースは1906年から1938年までの間、世界のあらゆる地方からの参加者を集めました。アメリカの新聞社主ジェームズ・ゴードン・ベネットによって制度化され毎年開催された同レースは、このスポーツに対する一般の関心を高めるのに貢献しました。レースは第2次世界大戦の勃発とともに中止されましたが、アメリカの愛好家たちの手で1979年から復活されました。 最初の有人気球飛行は1783年10月にパリで成し遂げられました。フランスの科学者ピーラトール・ド・ロージェがケーブルで大地につながれた気球に乗って地上20メートル余まで上昇することに成功したのです。その1ヵ月後に、ド・ロージェはマルキ・ダランデとともにケーブルにつながれていない気球による初の飛行を行ない、高度約90メートルまで達し、およそ25分間滞空しました。 この時から今日に至るまで、気球は科学、軍用、それにもちろんレクリエーションを含めた様々の用途に利用されてきました。気球には、水素やヘリウムなどの軽いガスを用いる場合もありますが、スポーツ用気球の多くは依然として熱気球です。通常の熱気球はナイロンまたはポリエステル製で、体積は1,700立方メートルほどあります。 ※1982年当初の説明です。 #切手 #スポーツ切手
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サントス=デュモン(飛行の歴史初日カバーコレクション)
このカバーに貼付されている切手はどれもアフリカのルワンダで発行されたもので、航空史上の4人の偉大な先駆者たち、ライト兄弟、アルベルト・サントス=デュモンそしてアンリ・ファルマンを描いたものです。なお、カバーの発行初日の消印もルワンダで押されたものです。 サントス=デュモンを描いた切手には。鴨型機(方向舵と昇降舵の働きをする今の尾翼に相当するものと推進エンジンが主翼の前方に付いたもの)といわれた彼の飛行機14-bis号も見られます。気球乗りで飛行船の操縦士でもあったデュモンが「空気より重い飛行機」に興味をもったのは1904年のことで、まもなく箱凧の原理で設計された仕切りのある翼をもった風変り複葉機の製作にとりかかりました。オリジナル彫刻画に描かれているように、操縦装置のテストに際し、機体にワイヤーを取りつけ、ロバに引っぱらせたのでした。1906年、この14-bis号はデュモンの操縦で動力飛行機としおてヨーロッパで初の成功をみました。 全身は自転車乗りで、カーレーサーでもあったファルマンは、1908年10月30日世界初の国際飛行を行って航空史の1ページを飾りました。複葉機のヴォアザン号を駆って、フランスのブイからランスまでの約30キロを20分で飛ぶことに成功したのです。ライト兄弟やデュモンと同じく、ファルマンもその後飛行機の設計にたずさわり、ヴォアザン号よりも軽く、操縦性がすぐれたものを製作しました。それは企業としても成功し、ファルマンが有力な飛行機メーカーとしての地位を固めるきっかけとなったのです。 #切手 #初日カバー #FDC
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トラック競技(コンゴ)「世界のスポーツ切手コレクション」
幾世紀も昔から続いているスポーツ、トラック競技を称えたこの切手は、コンゴ人民共和国から発行されてものです。オリンピックのような大会では、トラック競技の種目は、短距離、中距離、長距離、リレー、マラソン、障害、ハードルの7種目に類別されます。大部分の競技は標準の400メートルのトラックで行われますが、マラソンは距離が長く競技者が多数のため、通常競技場周辺の道路で行われます。 短距離競技では競争の間中、全力疾走が要求されます。オリンピックでの短距離の競技種目は、100メートル、200メートル、及び400メートル競走です。中距離種目は800メートルと1,500メートル競走を含み、5,000及び10,000メートル競走は長距離種目に類別されます。リレー競技はチームを組んだランナーによって行われ、400メートル及び1,600メートルで争われます。 マラソンは42.195キロの距離にわたって競われます。障害種目は3,000メートルのコースで行われ。競技者は一連のハードルと水濠障害を乗り越えねばなりません。 ハードル競技は、100メートル、110メートル、400メートルの3種目に分かれ、競技者は幾つものハードルを越えていくわけですが、ハードルの高さは競走の距離によって異なっています。 ※1982年当初の説明です。 #切手
切手 フランクリンミント社 コンゴ人民共和国 1979年お気に入り切手ミュージアム
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セーリング(フランス領ポリネシア)「世界のスポーツ切手コレクション」
1950年代の半ばに、ホバート・"ホビー"・オールターという若い船舶設計者が、世界最初の量産型サーフボードを世に紹介しました。バルサ材とファイバークラス製のオールターのサーフボードは。何百万もの人たちにサーフィンの楽しみを与え、大洋が陸地と接する至る所で今日でも尚栄え続けているはなやかな下位文化(サブカルチャー:例えば、日本ではかつての太陽族、現在の湘南族などをさす)を誕生させたのです。 1960年頃にはすでにオールターは、発泡ポリウレタン製のオーダー・メイドのサーフボードを製造しており、これによってさらにサーフィンの人気を高めました。その後60年代後半になって、オールターはセーリング(帆走)に関心を持つようになりました。彼は、カリフォルニア、サンファン・キャピストラーノにあるかまぼこ型の小屋にこもって、サーフィンのスリルとセーリングの楽しさと結び付けようと試みたのです。 いくつかのデザインをテストした後、オールターは、ポリネシア人の用いる舷外浮材(アウトリガー)を思わせるような双胴船を建造しました。各船体の船首は太くて左右対称、船尾は細くて左右非対象の形をしていました。この双胴型デザインは非常に効率よく波を切って進むことがわかり、帆走で時速40キロの速度にまで達しました。 オールターはこの船を「ホビー・キャット」と名づけ、1968年に公表しました。以来、頑丈で軽いこの船は世界各地で販売されてきました。「ホビー・キャット」は、スピードを求めて波に乗り、かつ楽しみそのものを求めて帆走する、という2つの機会を人々に与えているのです。 ※1984年当初の説明です。 #切手
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昭和35年(1960)年賀切手「米くいねずみ」カシェカードコレクション
昭和35年、60年安保闘争の年であった。6月に、安保改訂に反対するデモ隊が国会周辺を埋め、全学連の学生が実力で構門を押し破って国会構内に乱入。警官隊との激突のなかで東京大学の学生であった樺美智子さんが死亡した。 昭和26年(1951)サンフランシスコ講和条約とともに調印された日米安保条約では、米軍の日本国内での基地使用と駐留を取り決めていた。だが、そこにはアメリカの日本防衛義務が明確に示されていなかったため、岸内閣は60年の改訂交渉にあたってアメリカ側にこれを要求し、認めさせた。だが、国内では戦争に巻き込まれる恐れがあるとして社会党などが反発。空前の規模の反対運動が起こったのである。安保闘争には、野党や学生、労組など革新勢力の他、学者や文化人も参加し、全国各地でも反対運動が展開された。 また、2月には前年ご結婚された皇太子ご夫妻に親王さまがお生まれになり、お名前は徳仁、称号は浩宮と決まった。3月には天皇家の第5女清宮さまが銀行家の島津久永氏と結婚され、皇室のご慶事がつづいた。 名人横綱、栃錦と土俵の鬼、若乃花の名勝負は、戦後の大相撲の黄金時代を画したが、この年の大相撲春場所の千秋楽で史上初の横綱同士の全勝対決となった。若乃花が寄り切りで栃錦を破って初の全勝優勝を果たした。 この年はまた、「黒の時代」と呼ばれた。前年の第1回レコード大賞を受賞した「黒い花びら」が大ヒットし、黒いビニール製の「ダッコちゃん」人形が若い女性の人気の的となったからである。 昭和35年新年用切手は「米くいねずみ」である。子(ねずみ)年にちなんで、採用された石川県の郷土玩具であるが、これを愛玩すると、お金がたまるという伝説がある。竹ばねがついていて。これを押すと頭や尾を下げて米をついばむ動作をする。切手のは白いねずみであるが、郷土玩具の方はねずみ色に塗られている。 カシェカード挿絵=藤井厚志 #切手 #年賀切手
切手 フランクリンミント社 1960年お気に入り切手ミュージアム
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ラペタ(ニュージ-ランド領トケラウ諸島)「世界のスポーツ切手コレクション」
南太平洋のニュージーランド領トケラウ諸島が発行したこの切手は、土地の人気スポーツ、ラペタを称えるものでうす。ラペタはイギリスで行われるラウンダーズとよく似たゲームで、投げられたボールを打って、一定の標柱もしくはベースを回るというものです。1,500人のトケラウの住人たちは、ラペタの他にもいろいろなスポーツを楽しみます。特に人気があるのは、魚つり、カヌー競争、ラグビーなどです。 サモア島の北480キロほどの所にあるトケラウ諸島は、ファカオファ、ヌクノヌ、アタフという3つの環礁からなりたっています。住民の多くはポリネシア人で、文化的にも言語的にもサモアの住民と密接なつながりを保っています。主要な産業はコプラの生産、木工細工や編物細工などです。 1765年7月24日、イギリスの海洋探検家、キャプテン・エドワード・エドワーズが、バウンティ号の反乱者たちの捜索に太平洋を航行中、ヌクノヌ島を発見しました。また、ファカオファ島はアメリカ人のスミスという船長が1835年に発見したとされています。 トケラウ諸島は1877年にイギリスの支配下に入り、その後1925年ニューザーランド領となりました。 ※1984年当初の説明です。 #切手
切手 フランクリンミント社 ニュージーランド領トケラウ諸島 1984年お気に入り切手ミュージアム
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ローンボーリング(パプアニューギニア)「世界のスポーツ切手コレクション」
このパプアニューギニアの切手は、何世紀もの伝統を持つ球技である、ローンボーリングを称えています。この切手はオーストラリアのブリスベーンで開催された第12回全豪大会を記念し、1982年10月6日に発行されました。ローンボーリングがパプアニューギニアで盛んになったのは1950年代後半からですが、パプアニューギニア・ボーリング協会には現在800名の会員が登録され、パプアニューギニアは大きな国際大会で常にすぐれた成績を上げています。 ローンボーリングの起源は約4000年も昔にさかのぼると言われています。この競技は古代エジプト、ギリシア、ローマの貴族たちの間に広まり、ローマ人の侵略によって北ヨーロッパやイギリスに伝えられたということです。 その後この競技はイギリスで熱狂的な人気を博するようになりました。13世紀末にはサザンプトン・タウン・ボーリング・クラブが結成され、現在でもなお毎年定期大会を主催しています。 ローンボーリングは16世紀にスコットランドに渡り、長らくスコットランドの国技とみなされるほど盛んでした。そしてこの地でゲームの形式が統一され、現行ルールの基礎が築かれたのでした。 ※1982年当初の説明です。 #切手
切手 フランクリンミント社 パプアニューギニア独立国 1982年お気に入り切手ミュージアム
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タジキ(THE COMMON SNIPE)「国際鳥類保護会議 世界の鳥切手コレクション」
発行 :1977年9月発行 発行国:フェロー諸島 額面 :70エール(デンマーク・クローネ) この記念切手にはガリナゴ・ガリナゴの名でも知られるタジキが描かれています。その棲息範囲は広範囲に渡り、ほとんど世界中の各地で見かけますが、ヒナを育てるのは、北アメリカ、南アメリカ南部、ヨーロッパ、アジア、アフリカなどの沼地や湿地帯です。冬期は、北方のものはアフリカ、南ヨーロッパ、アジア、南アメリカ北部へと飛来してくるため、オーストラリアと南極以外のすべての大陸でみることができるのです。 他のシギ類と同様に、この鳥もたいへん長いくちばしを持っており、それは体長の3分の1にもなります。このくちばしは、地下にもぐっている無脊椎同ブルを求めて柔らかい地面を探るのに役立つのです。 体には金茶色の目立つしまがあるものの、全体的には地味な感じがします。顔面に垂直のしまのあるヤマシギとは対照的に、タシギには水平のしまがみられます。尾部の羽根の先端はかすかに白色になっています。 このp鳥の最も珍しい特徴のひとつは、求愛時に発する音です。繁殖時の通常たそがれ時に、オスは空中を旋回し、そして突然、翼を半分広げた状態で地面に向かって急降下します。この時に尾の両側に広げた2枚の羽根が空気のまさつで振動してヤギの鳴き声のような音を発するのです。しばらく急降下したあと再び高度を上げて同じ行為を繰り返します。この変わった芸当のため、タシギはヨーロッパの多くの国では「ヤギドリ」と呼ばれることがあります。 メスは沼地や湿地の近くにある、乾いた草の上にアーチ状で作られたくぼみに卵を産みます。緑色ががかった黄色に灰色の斑点のある卵は19日から21日の間でかえり、ヒナ鳥はその1日後ぐらいには巣を出ます。優れた保護色のため見つけるのが困難なこのヒナ鳥は、その後約20日で飛べるようになります。 タシギは目立たない鳥ですが、飛んでいる時はその独自のジグザグ飛行によって容易に判別することができます。 #切手
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昭和34年(1959)年賀切手「鯛えびす」カシェカードコレクション
この年の4月10日、皇太子さま(現天皇陛下)と正田美智子さま(現皇后陛下)のご結婚の儀が盛大に執り行われた。明仁親王殿下は曙色もあざやかな黄丹袍(おうにのほう)の束帯をお召しになり、美智子さまはおすべらかしに目にもあやな十二単姿で、賢所内陣にお進みになり、古式ゆかしく儀式を終えられた。 その後おふたりは燕尾服とローブ・デコルテにお召し替えになり、朝見の儀に臨まれ、天皇・皇后陛下と親子の固めの盃ごとを済まされた後、6頭立てのあずき色の馬車にお乗りになって東宮仮御所までの8.8キロのパレードに移られた。沿道を埋め尽くした53万人の人々は、小旗をふって歓呼し、その光景はテレビを通じて全国に中継された。 この年、後楽園球場に初めて天皇・皇后両陛下がご来場され、貴賓席でプロ野球の巨人対阪神の試合を楽しまれた。この6月25日の天覧試合で、前年に新人王となった巨人軍の長嶋茂雄選手は、9回裏サヨナラ13号ホームランを放ち、白熱したゲームに劇的な決着をつけた。"ミスタープロ野球"の愛称をえた彼は、以後、この年のルーキーの王貞治選手とともにプロ野球史上に輝くON時代を築く。 9月26日、伊勢湾台風が紀伊半島に上陸、東海地方を中心に大きな被害をもたらした。3メートルを超す高潮で被害が拡大した。ちなみに、この年の初頭からメートル法が実施されていた。 昭和34年新年用切手には、「鯛えびす」の図柄が採用されている。鯛えびすは、香川県高松市の郷土玩具である高松張り子のひとつ、嫁入り人形の代表的なものである。 同市近郊では、嫁ぎゆく日に嫁入り人形をたくさん持参し、近隣の子供たちに与える風習がある。現在は張り子製だが、昭和の初めころまでは土人形であった。粘土を固めただけの割れやすい人形で、それがゆえに、割れること(夫婦が初夜を契ること)を縁起よしとする結婚に欠かせない縁起物となった。鯛えびすは、めでたい(鯛)とえびす(福神の恵比寿)を組み合わせた嫁入り人形である。 カシェカード挿絵=藤井厚志 #切手 #年賀切手
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犬ぞりレース(赤道ギニア)「世界のスポーツ切手コレクション」
ほぼ4000年も前から、北極地方あるいはそれに近い寒冷地に住む人々は、輸送や狩猟の手段として犬ぞりを使ってきました。19世紀後半になり、ロイヤル・カナディアン騎馬警官隊は、極寒の流刑地で犬ぞりが非常に役立つことに気づきました。またロバート・ピアリー、リチャード・バード、ロアルド・アムンゼンといった有名な探検家たちにとって、犬ぞりがどんなに大切な役目を果たしたかはいうまでもないでしょう。 犬の群れにそれを引かせる競技スポーツとして始められたのはいつの頃か、正確には、わかっていません。しかし犬ぞりの最初の公式レースである"オール・アラスカ大会"は1908年に開催され、ノームとキャンドルの間を往復する650キロのコースが使われました。アメリカでの最初の公式レースは1917年アイダホ州アシュトンで開催されました。 このスポーツの人気は第2次世界大戦後に急速に高まりました。現在では国際犬ぞりレース協会(ISDAR)が競技を管理しており、カナダ、アメリカ、ヨーロッパ各国に支部を置いています。 レースに最もよく使われる犬はシベリアン・ハスキーと呼ばれる種類です。選手権大会では、1人乗りのそりを引くために最小限の7頭の犬が使われています。 ※1983年当初の説明です。 #切手
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アレキサンダー・フジェドルヴィッチ・モザイスキー(飛行の歴史初日カバーコレクション)
このファースト・デー・カバーを飾る切手には、東中央アジアにあって中国とソ連に国境を接する国、モンゴルが発行したものです。その国土は南東に広がる乾いたゴビ砂漠と、山岳地帯からなる変化に富んだ地形をしています。 切手には、アレキサンダー・フジェドルヴィッチ・モザイスキーの肖像が描かれています。モザイスキーは、ロシア航空界のパイオニアとも言うべき人物で、1884年、簡単な動力を装備した有人飛行機を飛ばせることに成功しました。ライト兄弟と違う点は、モザイスキーは空中での飛行機のコントロールをしようとしなかったことでした。もう1枚の切手に描かれているのは19~30メートルほどの距離を飛んだ彼の蒸気動力による単葉機です。 帝国ロシアの海軍の士官であったモザイスキーは、ある航海の途中、空高く飛ぶアホウドリをみて、飛行への興味をもつようになったのです。その当時、航空界の先駆者たちは、下げ翼での実験をし、失敗を繰り返していたので、モザイスキーは、固定翼を用いた飛行機の開発にいどみました。 オリジナル彫刻画にみられるように、彼は飛行に関する実験に凧を用いました。1870年、人間1人を運べるだけの大きな凧を作り、車にのせて3頭の馬に全速力でひかせて、自分自身は凧のロープにしがみつき、凧といっしょに宙に浮かびあがりました。このようにして、彼自身飛行の実験にたずさわり、航空界初期の先駆者と呼ばれるようになったのです。 #切手 #初日カバー #FDC ■Twitter https://mobile.twitter.com/nLiqdpKI2RDGIuY/status/1249256424640630786
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凧あげ(マレーシア)「世界のスポーツ切手コレクション」
通説によれば凧は約2000年前に中国で発明されたいわれます。骨組みに使う竹、絹の布や糸など、確かに中国には凧を作る材料が豊富にそろっています。 凧は古くから遊びの道具とされていますが、しばしば実用的な目的でも役立ってきました。たとえば昔の気象学者は、天気を予測するための装置を凧に取り付けていたのです。有名な発明家のググリエルモ・マルコーニは、1901年大西洋を隔てての歴史的な無線通信を成功させた時に、ニューファンドランドの受信機のアンテナを高く上げるために凧を利用しました。また第2次世界大戦中には射撃訓練の標的として使われました。 この凧を描いた切手は、昔から凧あげが盛んなマレーシアで発行されました。かつてマレーシアの漁師は、魚を驚かせないように、凧から釣り糸をおろす工夫をしたものでした。 今日でもマレーシアの町や村では、凧あげをして遊ぶ光景がよく見られます。年に何回も競技会が開かれ、競技者はそれぞれ自分の凧を1番高くあげようと奮闘するのです。 ※1983年当初の説明です。 #切手 ■Twitter https://mobile.twitter.com/nLiqdpKI2RDGIuY/status/1247000224934973441
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段違い平行棒(ユーゴスラビア)「世界のスポーツ切手コレクション」
ユーゴスラビアで発行されたこの切手は、女子の体操種目である段違い平行棒を称えたものです。体操の歴史の中では比較的新しく発達した段違い平行棒は、1930年代に初めて女子の体操競技に登場しました。1952にはオリンピック大会の種目に加えられ、以後、大きな体操競技会では必ず実施されるようになりました。 この種目にはタイミングとわざと美しさが要求されます。流れるようなしなやかな動きの中で上半身にこめた力を忘れさせてしまう競技が理想で、高さの違う2本のバーび間を移動しながら、さまざまな振り子運動や回転運動を行うのです。 段違い平行棒の高いバーは約2.3メートル、低いバーは約1.5mの高さで平行にならび、2本のバーの間隔は45センチですが、これは競技者の身長によって多少加減することもできます。バーは弾性に富み、競技者はその反動力を利用してはずみををつけます。 女子の体操競技は4種目からなり、段違い平行棒の他に平均台、跳馬、床運動が行われますが、各種目ともその型の美しさと動きの連続性が重要視されます。 ※1983年当初の説明です。 #切手
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アンドレイ・ビコラエヴィッチ・トポレフ(飛行の歴史初日カバーコレクション)
このファースト・デー・カバーを飾る切手には、ソ連の航空の父ともいえるアンドレイ・ビコラエヴィッチ・トポレフと、同国のもっとも近代的な飛行機の一つで164人の乗客を運ぶことのできる中・長距離ジェット航空機、TU-154が描かれています。この切手の発行国は東中央アジアに位置するモンゴル人民共和国です。 カバーのオリジナル彫刻画は、1920年に紹介されたトポレフのANT-1の操縦席に、彼自身が座っているところが描かれています。これは合板製の低翼単葉機ですが、当時の飛行機としては驚くほど斬新なものだったのです。 トポレフは長い年月をついやして飛行の研究を続け、30機以上もの飛行機を制作しました。このANT-1はその第1号です。 彼の設計になる飛行機で、制作された当時は世界最大といわれた陸上飛行機が4種類あります。それらは、1930年の4発重爆撃機TB-3、1933年の6発重爆撃機TB-6、1934年の8機の巨大なエンジンを搭載したマキシム・ゴーリキと呼ばれるANT-20、そして第2次世界大戦後に発表されたターボプロペラつきの重爆撃機TU-95です。 1968年10月4日はTU-154が処女飛行をなしとげた時、トポレフは80才ですでに第一線の設計の仕事から引退していたと言われています。しかし、彼の息子がその後を受け継ぎ、ソ連の超音速機TU-144の設計に多大な貢献をして、名声を得たのでした。 1978年当初の説明です。 #切手 #初日カバー #FDC
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ルービック・キューブ(ハンガリー)「世界のスポーツ切手コレクション」
1970年代の中頃、ハンガリーの建築学教授、エルノ・ルービックは、自分の学生たちに3次元の物体を理解させるための教材として独特な立方体を作り出しました。それが教材として役立ったかどうかは不明ですが、パズルとしてはルービック・キューブと呼ばれてすばらしい成功をおさめ、世界じゅうで合計3,000万個も売れました。 ルービック教授の作り出したキューブは、1つの正方形を単純に27個の小六面体に分割したもので、キューブの各セクションが回転できるように工夫されていました。ミソはキューブの6面をべつべつの色に色分けしたことです。挑戦者はまず着色した小六面体をごた混ぜにし、ついで小六面体を並び代えてそれぞれの面が一色になるようにします。 しかしそれは以外に難しく、とくにルービック・キューブに可能な組み合わせが、少なくとも 43,252,003,274,489,856,000通りはあると考えると、気が遠くなりそうな作業です。 ルービック・キューブはたちまち大ブームとなり、多数の副産物(ルービック・リベンジや、ルービック・ポケット・キューブを含む)や、熱心なルービック・キューブ・ファンのための参考書や季刊誌まで出版されたのです。腕に覚えのあるキュービストたちがしばしば一堂に会し、技を競い合いました。出場資格者は1分以内に完了しなければなりません。これまでのところ、その所要時間の最高記録は28秒です。 ※1983年当初の説明です。 #切手
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