(C940-941)近代美術シリーズ 第16集 初日カバーコレクション

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発行日 1983.3.10

 「無我」は横山大観(1868~1958)の、明治30年(1897)の作品である。大観は、代表的日本画家で、日本美術院創立に参加、日本画壇の一大勢力に育て上げた。昭和12には第1回文化勲章を受章した。

 「老猿」は高村光雲(1852~1934)の、明治26年(1893)のシカゴ万国博覧会に出品し妙技2等賞を受けた作品である。光雲は彫刻家で、東京美術学校も開校とともに教授に迎えられ、彫刻科の基礎を確立した。

※1983年当初の説明です。

額面・種類 
  60円 2種
図案    
  ①無我
  ②老猿
原画構成者  
  ①②菊池 吉晃
版式・刷印 
  ①グラビア5色
  ②グラビア3色 凹版1色
印面寸法  
  ①②よこ30×たて48ミリのたて型
シート   
  ①②よこ5×たて4=20面構成
発行数   
  ①②3,000万枚

#切手
#初日カバー
#FDC
#近代美術シリーズ

■横山大観肖像画カバー
https://muuseo.com/stamp_collection/items/277

■児高村光雲肖像画カバー
https://muuseo.com/stamp_collection/items/288

横山大観 ≪無 我≫(1897年) 「近代美術シリーズ初日カバー」
横山大観  明治元年(1868)9月18日水戸に生まれる。幼名秀蔵、のちに秀松、秀麿と改める。明治11年一家をあげて上京、東京府立中学校から東京美術学校へ進む。明治26年第一期生として東京美術学校日本画科を卒業、母校の助教授をつとめるとともに、日本絵画協会共進会などに出品し、また日本美術院会員となった。岡倉天心の指導のもとに、新しい時代の日本画の創造を目指してさまざまな試みをつづけ、明治32年ごろみは菱田春草とともに没線描法で描いて「朦朧体」と酷評された。明治39年日本美術院が不振となり、下山観山、木村武山、菱田春草らと茨城県五浦に移住して苦しい生活のなかで研究にはげんだ。明治40年文展開設とともに審査員に迎えられたが、大正3年同志と日本美術院を再興し、以後その中心的画家として活躍し「生々流転」(大正12年)、「四時山水」(昭和22年)など数々の名作を発表した。明治・大正・昭和の三代にわたり、文字通り近代日本画の歴史をつくってきた大画家である。昭和6年帝室技術院、10年帝国美術院会員となり、12年第1回文化勲章を受章した。昭和33年(1958)2月26日死去。 #近代美術シリーズ #切手 #初日カバー #FDC
https://muuseo.com/stamp_collection/items/277
高村光雲 ≪老 猿≫(1893年)) 「近代美術シリーズ初日カバー」
高村光雲  嘉永5年(1852)2月18日東京に生まれる。幼名中島光蔵、明治24年以降光雲と号した。文永3年江戸仏師高村東雲の弟子となり、東雲の姉の養子となって高村姓をついだ。明治維新直後の彫刻哀徴の時期に、苦しい精進をつづけて技法を取得し、明治22年東京美術学校成立と同時に木彫科教授となった。大正15年退官するまでに、永い間同校で後進の指導に当り、米原雲海、山崎朝雲、平櫛田中ら多くの木彫家を育てて、日本の近代彫刻の発展に大きく寄与した。日本美術協会展、東京勧業博覧会などに出品して受賞を重ね、さらに明治24年から30年にかけて、東京美術学校に依頼された「楠公像」「西郷隆盛像」を制作した。今も上野公園に立つ「西郷隆盛像」は特に有名である。また海外の展覧会にもしばしば出品し、明治26年シカゴ万博博覧会で「老猿」が2等賞、33年パリ博覧会で「山霊訶護」「盲人川を渡る」がそれぞれ金賞、銀賞を受賞した。大正8年帝国美術院会員となり、昭和2年老齢を理由に一度しりぞいたが、5年再び復帰した。昭和9年(1934)10月10日死去。 #近代美術シリーズ #切手 #初日カバー #FDC
https://muuseo.com/stamp_collection/items/288

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    Jason1208

    2019/11/19 - 編集済み

    高村光雲といえば、『智恵子抄』の高村光太郎の御父上ですね。
    上野公園の西郷隆盛像も、高村光雲作と聞きます。

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    • 光太郎氏は、彫刻家・画家としても有名ですね。正に才能に恵まれた方です。
      彫刻と言えば高村光雲!!
      日本だけではなく、海外での評価も高い方です!!

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