旧済生館本館「近代洋風建築シリーズ初日カバー」

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1982年3月10日発行

 現在は山形市郷土館として使われているが、もとは山形県立病院として明治12年県庁舎前に、市の中心計画の一環として建てられたもの。洋風の病院もまた近代化の象徴であった。当時の県令(県知事)三島通庸も雄大な欧化計画構想の遺構である。鬼県令として自由民権主義者だったことも、明治の栄光と、かげりをよくあらわしている。

 黒い屋根瓦、うす暗い民家のひしめく日本の、とくに東北の風土の中に正面に木造3階建ての桜閣を構え、下見板ペンキ塗りの、しかも円形に近い14角形の内側廊下つきの明るい異様な建物が姿をあらわしたときの、人びとに与えた衝撃は大きかったに違いない。明治13年版の『県内名所図鑑』にも、この建物を評して「無双の壮観なり哉」とある。文明開化もただ底抜けに明るく陽気だったというわけでもない。むしろ新政府の権威を誇示して人民を威圧する風なきにしもあらずである。

 だが今は、そんな印象はまったくない。国の重要文化財指定に際して一度解体され、戦時中2階建てに縮められていたものをもとに復し、明るく閑静な旧城址に移築されたためもあろう。いかめしいヒゲの官員さんのイメージも、明治とともに遠くなってしまった。
 設計者は原口祐之とも筒井明俊とも言われるがはっきりしない。また当時の病院長が東京医学校や横浜の海軍病院などを訪ねていろいろの助言を得、それにもとづいてこの病院の平面を作成したとも伝えられている。とにかく"奇想"と称するにふさわしい形で、旧開智学校と並ぶ代表的な擬洋風建築である。よほど独創的な技術者が参加していたに違いない。
(重要文化財、山形県山形市霞城公園)

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