(C816-C817)近代美術シリーズ 第4集 初日カバー

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発行日 1979.11.22

 「裸婦」は村上華岳(1888~1939)の1920年第3回国展への出品作で、華岳に対する評価を確立した作品といわれている。村上華岳は国画創作協会を興し、深く思案的な情趣を漂わせた仏画や山の作品を多く描いた。

 「収穫」は浅井忠(1856~1907)が1890年第2回明治美術会展に出品した作品で、この作品により初めて日本人の体質に根ざした写実主義が生まれた。浅井忠は関西美術院を創立、美術の普及に努力した。

額面・種類 
  50円 2種
図案    
  ①裸婦
  ②収穫
原画構成者  
  ①②菊池 吉晃
版式・刷印 
  ①グラビア4色 凹版1色
  ②グラビア5色
印面寸法  
  ①よこ30×たて48ミリのたて型
  ②よこ48×たて30ミリのたて型
シート   
  ①よこ5×たて4 -20面構成
  ②よこ4×たて5 -20面構成
発行数   
  ①②2,800万枚

■村上華岳肖像画カバー
https://muuseo.com/stamp_collection/items/61

■浅井忠肖像画カバー
https://muuseo.com/stamp_collection/items/62

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村上華岳 ≪裸婦図≫(1920年) 「近代美術シリーズ初日カバー」
村上華岳 明治21年(1888)7月3日大阪に生まれる。本名武田震一。幼年期に神戸の村上家に引取られ、17歳の時、村上姓を嗣いだ。京都市立美術工芸学校から京都市立絵画専門学校へ進み、在学中に文展へ出品した。明治44年同校を卆業、文展、新古美術品展などへ出品をつづけ、大正5年第10回文展の「阿弥陀之図」が特選となった。大正7年日本画の革新を目指して、竹内栖鳳門下の土田麦僊、小野竹喬らと国画創作協会を結成、同展に「聖者の死」「日高河清姫図」「裸婦図」など、霊的な清純さと官能美とを融合させ、個性的な作品を発表した。しかし昭和2年神戸へ帰り、画壇との交渉を絶って、求道者のような厳しい精進をつづけ、牡丹、佛陀、山、木など、地味な画題の中に、深い精神的内容をもりこむ独自の画風を確立した。ことに晩年は、孤高な、宗教的瞑想のこもる山水画や佛画を描いている。昭和14年11月11日、持病の喘息が悪化し、神戸の自宅で急逝した。51歳。 #切手 #記念切手 #初日カバー #FDC #近代美術シリーズ
https://muuseo.com/stamp_collection/items/61
浅井 忠 ≪収 穫≫(1890年) 「近代美術シリーズ初日カバー」
浅井 忠 安政3年(1856)6月21日、江戸木挽町佐倉藩邸内にうまれる。明治9年新設された工部美術学校に入学、イタリア人画家アントニオ・ファンタネージに就いて油絵を学んだ。明治11年ファンタネージの帰国後、同校を中退し、同志11人と研究団体十一字会を結成して勉強を続けた。明治22年小山小太郎、松岡寿らと明治美術館を創設し、同会に「春畝」「収穫」などを発表して、明治前期洋画壇の指導者としての地位を確立した。明治31年東京美術学校教授となり、さらに33年から35年までフランスに留学した。この時期に、「グレーの秋」「洗濯場」など優れたグレー風景を描いている。帰国後京都高等工芸学校教授に任命されて京都に移り、美術教育に尽力するとともに、画塾聖護院研究所、関西美術院を成立して多くの洋画家を育てた。その門下からは津田青楓、安井曽太朗、梅原龍三郎などが出ている。明治30年代以降の洋画は、黒田清輝の紹介した外光派の明るい描画が主流となり、黒田の新派に対し、浅井は旧派に属すると考えられているが、その詩情あふれる作品は、そうした新旧の問題を超えて、今なお高い評価を与えられている。 #切手 #初日カバー #FDC #近代美術シリーズ
https://muuseo.com/stamp_collection/items/62

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