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大洋球団(川崎球場)灰皿
大洋球団(川崎球場)灰皿 直径125㎜ 盛岡南部 岩鋳製 岩手県盛岡市南仙北2丁目23-9 大洋ホエールズ時代の本拠地(1957~77)
野球 大洋ホエールズふくすけ
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1960年日本シリーズ優勝記念手帳
1960年日本シリーズ優勝記念手帳 大洋漁業株式会社が配布したもの 1960年6年連続最下位の大洋ホエールズを三原脩新監督のもとセ・リーグ優勝、日本シリーズでも日本一に導く。
野球 1960年 大洋ホエールズふくすけ
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広澤克実・竹田光訓 サイン色紙
広澤克実・竹田光訓(ルーキー)サイン色紙 両雄とも明治大学で活躍し、1984年11月20日のドラフト会議の注目選手。 広澤克実はD1で3球団から指名を受け『ヤクルトスワローズ』に入団。 大杉勝男の背番号8を受け継ぐ。 移籍先の巨人・阪神の4番打者にも起用された。 NPB通算成績(1985-2003) 打率237本塁打306打点985 打点王2回 (1991年1993年) 竹田光訓もD1で3球団から指名を受け『大洋ホエールズ』に入団。 こちらも平松政次の背番号27を継承したが結果を残せず1991年に引退。 NPB通算成績(1985-88・91) 1勝3敗防御率992 色紙の日付(1985/1/4)から入団が決定した翌年の年始に対面したサインだと思われる。
野球 1985年 ヤクルトスワローズふくすけ
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1964年 大洋ホエールズの悲劇
1964年大洋ホエールズの悲劇 誰もが優勝を疑わなかった1964年終盤・・・ 9月26日2.5G差(M1)で迎えた阪神戦(大洋残り2試合阪神残り5試合) 甲子園ダブルヘッダー 第1試合は敗戦(M1) 第2試合8回表までに2-1でリード。 その裏2ー2の同点になり、なおも二死満塁。 三原監督は21勝を上げているエース稲川をリリーフに送るがワイルドピッチ。 ボールはバックネット下のコンクリートに跳ね返ってホームベースに戻り、稲川がボールを取ってランナー(本屋敷)にタッチするもセーフ。 そのまま阪神が3ー2で勝利(M2点灯)残り3試合を全勝し逆転優勝を果す。 これ以降1998年まで優勝から遠ざかることになる。 1964年10月5日 慰労会?が催される。 当時の模様が球団誌からも確認できる。 中部謙吉オーナー・辻村正一球団社長のサインも貴重であるが両者が労るようにある稲川誠投手のサインが印象的である。 三原脩監督 長田幸雄 浜中祥和 島田源太郎 近藤昭仁 アグウィリー 金光秀憲 辻村正一球団社長 稲川誠 中部謙吉オーナー 森徹 鈴木隆 黒木基康 桑田武 近藤和彦
野球 1964年 大洋ホエールズふくすけ
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1964年 大洋ホエールズ
大洋ホエールズ(1964/3/10) 80勝58負2分首位阪神に1.0Gの2位 阪神の最終Gまでの9連勝により逆転優勝を奪われる。 三原脩(1960-67) 岩本 堯(1959-68)コーチ 森徹(1962-65) 別所毅彦(1964-66)コーチ 箱田淳(1961-64) 桑田武(1959-68) 佐々木吉郎(1962-69) (9/23王貞治にシーズンHR記録の第55号を献上) 土井淳(1956-73)
野球 1964年 大洋ホエールズふくすけ
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1960年日本シリーズMVP 『ルーキー近藤昭仁』サインボール
大洋ホエールズ 近藤昭仁 サインボール 日本シリーズ優勝(1960/10/15)書込み 『ルーキー近藤昭仁』がMVPを獲得する。
野球 1960年 大洋ホエールズふくすけ
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1960年大洋ホエールズ優勝記念風呂敷+月刊誌
1960年当時、関係者に配布された記念風呂敷。 『大洋ホエールズ』月刊誌、表紙はMVPの近藤昭仁が飾る。
野球 1960年 大洋ホエールズふくすけ
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佐々木信也・近藤和彦 サイン
ルーキー佐々木信也 1956年 高橋ユニオンズに入団。 新人ながら154試合に全イニング出場。 154試合出場はシーズン試合出場の日本タイ記録。 新人での全イニング出場は史上初。 622打数でリーグ最多180安打141単打を記録。この3つの記録は現在も新人記録である。この年はベストナインに選出。 引退後は野球の評論家として1976~88年まで『プロ野球ニュース』のキャスターとして活躍。 近藤和彦 明治大学3年生時と思われる。 立大の長嶋茂雄と同期でありライバル視していたようである。この芳名簿では長嶋茂雄署名ページの裏に署名してあるのも意図が見える・・・ 東京六大学リーグでは2年生からレギュラーとなり秋山登を擁し1955年春季リーグの優勝。 リーグ通算83試合出場、255打数66安打、打率.259、0本塁打、23打点。ベストナイン3回(一塁手1回、外野手2回)。 1958年に大洋ホエールズに入団。『天秤打法』で有名。
野球 1956年 大洋ホエールズ 明治大学ふくすけ
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1960年第11回日本シリーズチケット
1960年日本シリーズチケット(第3戦 後楽園) 三原大洋VS西本大毎 1960年10月14日 W6-5O 3連勝 イラストには横山隆一のフクちゃんも登場。 5-5 9回表 近藤昭の決勝ホームラン。 翌日も勝利し球団創立(1950)初の日本一! 大毎有利の中、全試合1点差勝利の4連勝『完全勝利』となる。
野球 1960年 大毎オリオンズふくすけ
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大洋ホエールズ 球団旗
デザインから1955~63年頃と思われる・・・ 「マルハ」は林兼(はやしがね)商店(のちの大洋漁業)から由来する。
音楽 大洋ホエールズ 横浜DeNAベイスターズふくすけ
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週刊ベースボール 昭和35年9月28日号
昭和35年オールスター戦時の両雄(セリーグ水原監督・三原コーチ) この年、三原脩氏がセ・リーグ大洋ホーエルズ監督として戻って来た。 水原巨人との対戦成績はG11(1)14Wであった。 また昭和25年創設以来初のリーグ優勝・日本シリーズ優勝となる。 水原巨人監督はこの年をもって退任、東映フライヤーズ監督へ・・・ この時、どんな会話が交わされたか聞いてみたいものである。
野球 1960年 大洋ホエールズ 読売ジャイアンツふくすけ
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新人王 張本勲・桑田武 サイン色紙
1959年 セパ新人王獲得者 桑田武(大洋ホエールズ)新人ホームラン最多31本記録(清原和博) 本塁打31 打点84 打率269 張本勲(東映フライヤーズ) 本塁打13 打点57 打率275
野球 1959年 大洋ホエールズふくすけ
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秋山登・荒川博 サイン
秋山登(大洋ホエールズ・1956)の記録 新人王(25勝25敗) 野球殿堂入り(2004年) 荒川博(毎日大映オリオンズ・1958?) 選手より指導者として『荒川道場』で王に「一本足打法」を指導したことで有名。 現役中はチームメイトで早実の後輩でもあった榎本喜八を指導したほか、少年時代の王貞治を見出して母校の早実への進学を薦める。1961年引退後は監督・川上哲治の下で1962年から1970年まで巨人一軍打撃コーチを務め、7度のリーグ優勝・日本一に貢献。早大の後輩・広岡が犬猿の仲であった川上に頭を下げてくれたため、荒川は毎日OBであったが巨人入りを果たした。川上が荒川を雇った理由は、「その若さで榎本という素晴らしい打者を育て上げた」という一点のみだったとのこと。
野球 1956年 大毎オリオンズ 大洋ホエールズふくすけ