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大洋球団(川崎球場)灰皿
大洋球団(川崎球場)灰皿 直径125㎜ 盛岡南部 岩鋳製 岩手県盛岡市南仙北2丁目23-9 大洋ホエールズ時代の本拠地(1957~77)
野球 大洋ホエールズふくすけ
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1960年大毎オリオンズ優勝記念レリーフ(作 棟方志功)
1960年大毎オリオンズ優勝記念レリーフ(作 棟方志功) 『VICTORY ORIONS1960 Championship PBL』 棟方志功デザインによるパリーグ優勝記念レリーフ
野球 棟方志功 1960年ふくすけ
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雲の上の道(挿絵原画) 山川勇一郎
雲の上の道(深田久弥署名) 挿入画 原画(1958/1/6) 山川勇一郎 明治42(1909)年4月26日、神戸市生れ 一水会会員・日本山岳画協会会員の洋画家 チリのロ・バルデス・アンデス連峰で遭難(1965/11/12(享年56才))
冒険 山岳 1958年ふくすけ
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柳田利夫 実使用バット(1960年)
柳田利夫 実使用バット?(1960年日本シリーズ~日米野球) 1960年日本シリーズ(10/11~15)終了間もない10月22日から始まった日米野球 当時の資料(週刊ベースボール)よりユニフォームはそれぞれのチームのものを着用する 当時、数少ない背番号4と日米野球出場者から『柳田利夫』と推定される 日本シリーズ第3戦(10/14)で本塁打を放ったバットか?実使用かは不明 1960年(昭和35年)日米野球(10/22~11/13 全16戦) サンフランシスコ・ジャイアンツが来日 E・ブレスー(Eddie Bressoud 28才)内野手(2B・SS)が柳田利夫選手のバット(玉澤)と交換?その後、里帰りしたものと思われる(長さ約86cm・重さ約900g) 柳田利夫 1958年に大毎オリオンズに入団 1959年には一軍に定着、二塁手として14試合に先発出場 1960年は開幕直後から遊撃手として起用され、大毎ミサイル打線のトップバッターとして活躍 シーズン中に榎本喜八のバットが柳田の顎を直撃、欠場を余儀なくされたが、復帰後の7月からは二塁手も兼ね、10年振り2回目のリーグ優勝に貢献 日本シリーズ(対大洋ホエールズ)では11打数2安打2打点 第3戦で鈴木隆から2点本塁打を放つ 背番号4(1960-62) 1960年のシーズン成績 打率249-12HR34打点 日米野球の成績 日本4勝(1分)SG11勝 1960年日米野球成績 E・ブレスー(MLB通算成績AB252HR94RBI365) 65打数21安打5打点3本塁打(7戦金田・10戦堀本・13戦梶本) 柳田利夫 2・3・5・7・16戦出場(第7戦(後楽園球場)は先発出場) 7打数1安打
野球 1960年 MLBふくすけ
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『ジュガール・ヒマール探査行』深田久弥 自筆葉書
『ジュガール・ヒマール探査行』 神戸港から出港直前に深田久弥が妻(志げ子)に送った自筆葉書(1958/3/2?投函) 山映商会は同行した風見武秀(山岳写真家)が経営する写真関連会社 富田健一は日本山岳会会員 『氷河への旅 ジュガール・ヒマール探査行』にも同様の様子が記述されている 1955(昭和30)年~世田谷区松原町 居住
冒険 1958年ふくすけ
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ジュガール・ヒマール探査隊記念色紙(深田久弥ほか)
ジュガール・ヒマール探査隊記念 色紙(1958/3~6) 画 チョルテン(仏舎利塔) 深田久弥(隊長・随筆家・登山家)左3人目55才 山川勇一郎(画家)左2人目49才 風見武秀(山岳写真家)右端44才 吉原和美(医師)左端 1958年に探検隊はバレピ.コーラからプルピ.チャチュ氷河、ドルジェラクパ氷河を探査。 この探検隊はジュガールの主峰レンポカンへの登頂ルートを探索することも目的であった。 その後、ガンジャラ峠からランタン谷まで足を延ばし探査活動を終了した。
冒険 1958年ふくすけ
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1957年 国鉄スワローズ 金田正一 サイン色紙
1957年は『金田正一』の成熟期である。 中央にサインがあることから祝賀会だろうか? SLのイラストも国鉄時代を感じられる。 金田正一(24才) 28勝16敗 防御率1.63 6/19 スタルヒンの奪三振記録(1960)更新 7/15 2000奪三振記録 8/21 完全試合達成 最多勝・最優秀防御率・沢村賞・ベストナイン 西垣徳雄コーチ (初代監督(1950-53)高校2年時の金田を見出した人物である) 箱田淳 宇野光雄 監督 宇佐美一夫コーチ 松田清 町田行彦 飯田徳治(盗塁王) 佐々木重徳 宮地惟友 阿井利治 佐竹一雄 鵜飼勝美 森谷良平コーチ 佐藤孝夫(本塁打王) (6時方向時計回り) 2019年10月没(86才88才?)
野球 1957年 国鉄スワローズふくすけ
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三原脩・川上哲治 サインフォト+スポーツ紙(1958/10/22)
第9回日本シリーズ(三原西鉄対水原巨人)西鉄ライオンズが球史初の3連敗からの逆転日本一に輝く! 西鉄ライオンズの3連覇(1956-58)は3度の水原巨人が相手の日本一であった。 第5戦は鉄腕稲尾の延長10回サヨナラホームラン。 翌日の新聞一面には西鉄ライオンズ日本一の報道とは対照的に『打撃の神様』川上哲治(38歳)の現役引退表明の報道でもあった。 写真は当時巨人監督であった三原修(改名脩)監督と川上哲治選手の連名サインフォトである。 筆跡から1951年以降のようである。
野球 1958年 西鉄ライオンズふくすけ
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1964年 大洋ホエールズの悲劇
1964年大洋ホエールズの悲劇 誰もが優勝を疑わなかった1964年終盤・・・ 9月26日2.5G差(M1)で迎えた阪神戦(大洋残り2試合阪神残り5試合) 甲子園ダブルヘッダー 第1試合は敗戦(M1) 第2試合8回表までに2-1でリード。 その裏2ー2の同点になり、なおも二死満塁。 三原監督は21勝を上げているエース稲川をリリーフに送るがワイルドピッチ。 ボールはバックネット下のコンクリートに跳ね返ってホームベースに戻り、稲川がボールを取ってランナー(本屋敷)にタッチするもセーフ。 そのまま阪神が3ー2で勝利(M2点灯)残り3試合を全勝し逆転優勝を果す。 これ以降1998年まで優勝から遠ざかることになる。 1964年10月5日 慰労会?が催される。 当時の模様が球団誌からも確認できる。 中部謙吉オーナー・辻村正一球団社長のサインも貴重であるが両者が労るようにある稲川誠投手のサインが印象的である。 三原脩監督 長田幸雄 浜中祥和 島田源太郎 近藤昭仁 アグウィリー 金光秀憲 辻村正一球団社長 稲川誠 中部謙吉オーナー 森徹 鈴木隆 黒木基康 桑田武 近藤和彦
野球 1964年 大洋ホエールズふくすけ
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『立教三羽烏』
『立教三羽烏』(1956年立教大学3年) 本屋敷 錦吾(阪急) 主将 リーグ通算75試合出場 打率242本塁打0打点18 ベストナイン(遊撃手) 長嶋茂雄(巨人) リーグ通算96試合出場 打率286本塁打8打点39盗塁22 ベストナイン(三塁手) 杉浦忠(南海) リーグ通算36勝12敗 防御率119奪三振233 ベストナイン
野球 1956年 立教大学ふくすけ
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大村憲司 直筆サインアルバム
大村憲司 直筆サインLPジャケット (1997年8月1日) 1980年 YMOのサポートギタリストとして参加 『増殖』『ワールドツアー』 1981年 『春がいっぱい』リリース 1998年 逝去(49才)・・・
YMO 音楽 1981年ふくすけ
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「い・け・な・い ルージュマジック」直筆サイン色紙
「い・け・な・い ルージュマジック」直筆サイン色紙 忌野清志郎+坂本龍一(1982/2/14) 当時、両雄ともに30歳。 様々なジャンルに挑戦する『教授』 この年、矢野顕子と結婚。 翌年『戦場のメリークリスマス』に出演、音楽と共に『世界の坂本』として歩み始める・・・
YMO 音楽 1982年ふくすけ
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長嶋茂雄(立教大学3年)・木戸美摸 サイン
長嶋茂雄(立教大学3年生(20才9ヶ月)) 筆跡からたっぷり使った墨跡が照り輝き、燦然とオーラが輝いている。知り得る中で最も若いサインである。 木戸美摸(1956/57/58?) 1956年は木戸美摸投手負傷事件が発生。 1957年は17勝の勝ち星を挙げ最高勝率を獲得する。 1958年春の明石キャンプ時はルーキー長嶋と相部屋となる。
野球 1956年 立教大学ふくすけ
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2010年 横浜ベイスターズ子供用ユニフォーム
2010年 横浜ベイスターズ子供用ユニフォーム(24名) 2010年の成績(尾花監督1年目) 48勝95負1分 首位中日から32.0差で最下位(交流戦最下位) 2008~2012年5年連続最下位 左胸のキャプテンマーク位置に新星の輝きが・・・ 2009年ドラ1の『日本の主砲になる筒香嘉智』である。 前面 48 投 手 安斉 雄虎(D3) 22 投 手 高崎 健太郎 36 捕 手 細山田 武史 00 外野手 森笠 繁 30 投 手 真田 裕貴 0 内野手 山崎 憲晴 3 外野手 スレッジ 44 投 手 石井 裕也 51 内野手 カスティーヨ 55 内野手 筒香 嘉智(D1) 背面 39 外野手 内藤 雄太 59 捕 手 黒羽根 利規 11 投 手 山口 俊 14 投 手 小林 太志 18 投 手 三浦 大輔 20 投 手 木塚 敦志 23 内野手 藤田 一也 21 投 手 吉見 祐治 2 内野手 内川 聖一 24 投 手 寺原 隼人 34 投 手 篠原 貴行 50 外野手 下園 辰哉 31 外野手 吉村 裕基 7 内野手 石川 雄洋
野球 2010年 横浜ベイスターズふくすけ
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『世紀のホームラン競争』サイン
週刊ベースボール(昭和49年12月2日号) 日米野球(1974年11月2日)第6戦 世紀のホームラン競争はアーロン10本王9本 1974年オフ時点でHアーロン733本、王634本である。
野球 1974年 MLBふくすけ