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カフェーの図案・喫茶店の図案@昭和初期の商業図案集
画家にして装幀家、博覧強記の物書きでもあられる林哲夫氏が『喫茶店の時代』(ちくま文庫) https://sumus2013.exblog.jp/31179026/ でまとめておられるところによると、東京市内の喫茶店は欧州大戦後大正9年(1920年)からの恐慌にあおられてか11年(1922年)には32軒にまで減ったものの、翌12年(1923年)の関東大震災後にはほかの飲食店などは数を減らしているにもかかわらずひとり55軒まで回復、以降年々増えていき、そのピークとなる昭和13年(1938年)には3307軒をかぞえたという。今回はその当時の売れっ子グラフィックデザイナーが世に送り出した商店や企業の宣伝向けの図案プレート集(冊子体ではなく、一葉一葉厚手のカードに仕立てられたものが函や帙などに収められている型式)から、カフェや喫茶店、ついでにバーやビヤホールのところを拾い出してみよう。 序文で著者・内藤良治〈ないとうながはる〉は「本書の内容は諸君の便宜上、商業別に致しました、(中略)幸ひに諸君の御硏󠄀究の御參考になりましたら欣快の至りで御座います。」と書いているが、目次があるわけでも各葉にタイトルがついているわけでもないので、その辺は受け手側のよいように、という考えによる構成のようだ。この手の図案集はいってみれば「素材集」なのだから、なまじいはっきりカテゴライズしていない方が先入観にじゃまされなくてよいのかもしれない。 ところでご存知の方はご存知だろうが、戦前の「カフェー」は、今いうカフェとはちょっと趣向が違った。林氏が引用しておられるところによれば、「洋風の設備を有し直調理を客に供し、連続して客席にはべり、歓興するもの」と法的に規定されていた業種だそうで、要するに酒色を伴う風俗営業店の類いだったのだ。そういう視点で眺めてみれば、おのずとどれが「カフェー」向きでどれが「喫茶店」向きなのかはわかってこよう。もちろんどちらも、化粧をばっちりきめて着飾った女給たちが立ち働いてはいたのだが。 それはともかく、和製デコに傾いた図案化の手法や配色など、当時もてはやされたデザインの趣味的方向性が、たったこれだけ抜き出してみてもよくわかるようにおもう。こうした一種の洗練が、戦局が悪化し統制がすすむにつれて次第に荒れた感じに変わっていき、戦後復興期に一時(恐らく著者に断わりなく)改題覆刻されたりしたものの、やがて消えていってしまうのだった。こうした図案が人知れず埋もれたままになっているのは、なんとももったいない話だ。7枚目は惜しいことに青版が版ずれを起こしているが、これによって緑の部分は青版と黄版とのかけ合わせではなく緑版として別途刷られている、つまり3色のプロセス印刷ではなくて多色刷りであることがしれる。出版意図や目的からして、おそらく初版からこうしたヘマがあったとはおもえないのだが、これも大東亜戦時下に突入した後の版だからだろうか。
色彩商業圖案集 昭和16年(1941年) 昭和13年(1938年) 網版多色刷り図版研レトロ図版博物館
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包帯の巻き方図解@昭和初期の看護教科書
最近、割と身近で外科手術を受けた方があった。そろそろやらねばならない時期で、ご商売もCOVID-19パンデミックのあおりでお休み中、ということもあってちょうどよいタイミングでの施術、ということだったようだが、でも夏至も前から30℃超えの暑さに見舞われている最中に包帯ぐるぐる巻きだなんて、考えただけで気が遠くなる。 さて、今回は日本赤十字社傘下の病院などで働く看護師のために編まれた、昭和10年代の看護法の本に載っている包帯の巻き方図解をちょこっと眺めてみることにしよう。ひと口に「包帯」といっても円柱状に巻いてある細長いヤツだけじゃなくて三角巾とか、副え木やギプスなどを使ったのとかいろいろあるわけだが、最も基本の「卷軸帶」、つまりガーゼや木綿布を細く切って巻いたものについて解説した章の中からいくつか拾ってみた。巻軸包帯は患部を固定するのが目的だから伸縮性のある材料は使えず、巻き方がまずいと血行が停まってしまったり、緩んできてしまったりしてたちまち困ったことになる。きちんと巻けるようになるのに習熟を要するのは今も昔もかわりない。しかし当時は伸縮包帯とか網包帯とか粘着テープとかはなかったから、はるかに限られた材料でいかにそのときの状況にあわせて巻くか、という判断も含めて、今以上に難しい部分があったに違いない。 現在使われている巻き方やその呼び名などと見較べてみると、ほぼ変わっていないことがわかる。 https://www.kango-roo.com/learning/5601/ http://www.jhpia.or.jp/pdf/news69.pdf こうした巻く順番などの細かい要領は、今でこそ誰にでも容易にアクセスできるけれども、かつてはこうした医療関係者向けの専門書でもなければ見られなかった。それはさておき、この手の教科書で最も早いものは明治22年(1889年)初版の看護教程書だが、巻き方は違わないように見えるもののここまで細かくは解説されていない。そしてモデルになっている実演さん方にしても、いかにも当時の洋書にあった挿し絵を引き写してきたような西洋人(の男性)ばかりなのだが、この本ではモダンな日本人男女風に変わっている。日赤のはじまりは西南戦争の傷痍兵の惨状をみるにみかねて、という経緯だったから当初は近代戦にかかわる軍人だけが対象だったのが、だんだんと一般人へも間口がひろがっていった、という移り替わりを端的にあらわしているようにもおもえる。
看護教程草案(救護看護婦用) 第二卷 昭和16年(1941年) 昭和12年(1937年) 銅版+活版刷り図版研レトロ図版博物館
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ペーパークラフト自動車構造模型@昭和初期の運転免許受検教材(大東亜戦中版)
多分昭和16年に刊行されたと思われる、別途掲載の紙製自動車構造模型の別ヴァージョン。特に真ん中辺りのギア周りが前のものより詳しくなっている。 なお出典資料については、図版研「架蔵資料目録」ブログにて紹介している。 http://lab-4-retroimage-jp.seesaa.net/article/470608450.html また収蔵については、「モノ日記」に記事を書いた。 https://muuseo.com/lab-4-retroimage.jp/diaries/22
自動車學習模型 昭和16年(1941年) 昭和16年(1941年) 石版刷り図版研レトロ図版博物館