日本でも売られていたヴィクトリア朝のマスク@明治初期の医療用品カタログ

0

前回取り上げたカタログ
https://muuseo.com/lab-4-retroimage.jp/items/162
を出した自動車用品店の創業時期もそうだが、ある事業や商品が「いつが最初だったのか」がはっきりしていることはあんまりない。先行きどうなるかわかったものではないときに、そんなことをいちいち記録しておこうという考えが浮かぶ余地はないのかもしれないし、当事者は当たり前のようにわかっていたとしても、彼らがいなくなってしまえばたちまちわからなくなってしまうのは仕方のないことだろう。

今や誰もが日々お世話になっている医療用マスクにしても、大正期のいわゆる「スペイン風邪」流行の際に一般に広まったことはしられているものの、日本で最初に使われ出したのがいつなのかは精確にはわかっていない。宮武外骨が大正14年に出した自著『文明開化』二 廣告篇の中で、日本橋區本町の薬種商・いわしや松本市左衛門が自家製マスクの売り出しをしている広告を紹介している
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1182351/42
のはよくしられているけれども、「遅くともこの頃には、我が国でも作られるようになっていた」ということがわかるばかりだ。

なお同書では、外骨は新聞広告についてはちゃんとその出典を明記しているので、括弧書きで「(明治十二年二月)」としか書き込んでいないからには、この広告は恐らく引き札のたぐいなのだろう。松本一族のいわしやは大正期あたりまで、屋号の「わ」を変体仮名で書き表すのが常だから、文の文字組みはオリジナルではなく、この本のために新たに組み直していることがわかる。

と、前置きがちょっと長くなってしまったが、今回はそのいわしやが明治11年に刊行した医療用品のカタログに載っているマスクをみてみよう。

図解してあるのは表側が真っ黒で、口だけを覆うものと、それから鼻と口とを覆うものとの2種類。今日のものと同じく両耳にかけるものと、それから頚の後ろに紐を回して留めるものとがあったようだ。品名表の方をみると、「護息器 レスピラートル」と総称されている。

49番は「英式三層護息器」、50番は「ヱフライ氏の護息器」となっていて、このほかに「單純護息器」「英式四層護息器」「英式六層護息器」「鼻口護息器」というのもあったらしいことがわかる。カタカナで添えてあるのはドイツ語のようだが、綴りがちょっと思いつかないものもあって正確な意味がつかみづらい。素材や価格なども書かれていなくて不明。

それはともかく「英式」というからには、イギリス式のマスクがこの頃には輸入販売されていたということになる。では「ヱフライ氏」とはナニモノか? というところに興味が向くが、図版研で最有力候補と目されているのが、ヴィクトリア朝のロンドンで外科医をしていたジュリアス・ジェフリーズ Julius Jeffreysだ。

彼は自身の考案した慢性呼吸器疾患対策用の「レスピレータ」、つまりマスクの特許を取った初めての人物という。インペリアルカレッジ・ロンドンやオハイオ州立大の医学史研究者の方々のお話によると、ジェフリーズは東インド会社の武官や文官の診療にあたる医師としてインドのベンガルに赴任していたが、その後ロンドンに戻ってきた際に彼の妹(でなければ姉)の喘息の発作がひどくなったため、UKの寒冷で乾燥した空気がよくないと考えて、絹布と革、そして重ねた金属製の網を用いたマスクの開発に取り組んだという。彼女は結局1838年に結核で世を去ってしまうが、彼は呼吸器疾患に苦しむ人のために「身につける人工環境」を実現する道具として改良を重ね、1864年「呼吸環境改善装置climatic apparatus」として売り出して、大いに世の支持を得たらしい。

ただし、少なくとも当初は超高級品で、当時の値段で1コ7〜50シリング、今の日本円にしてざっと2600円あまり〜2万円近くもしたという。当然一般庶民には到底手が届くものではなかったし、使い捨てなどとても考えられないシロモノだった。それでも人気を博したのは、ルイ・パストゥールやロベルト・コッホによって感染症を惹き起こす病原菌が見出されるよりも前の時代、「悪い空気が病の元凶」という考えが支配的だったからだろう。

19世紀も後半になって、スコットランドの化学者ジョン・ステンハウス John Stenhouseがロンドンの下水から発生する有毒ガスの除去で効果を挙げている木炭に目をつけ、これを用いた新しいマスクを考案したそうだ。彼はジェフリーズと違って特許登録をせず、なるべく価格を抑えるように努め、一般への普及に貢献したらしい。
https://origins.osu.edu/connecting-history/covid-face-masks-N95-respirator
https://newseu.cgtn.com/news/2020-05-17/The-Respirator-the-face-mask-used-by-the-Victorians-QuthYXeI8w/index.html
http://wwwf.imperial.ac.uk/blog/imperial-medicine/2020/04/27/masks-and-health-from-the-19th-century-to-covid-19/

ということで、外骨紹介の広告に「或は金屬板を以てし或は金線を以てし或は木炭を以てする等各一樣ならず」とあるように、ジェフリーズやステンハウスその他の考案した色々な種類のUK製マスクが明治初めの日本にも入ってきていたことが、このカタログから窺えるというわけだ。

因みに、大幅に増補されて倍以上に分厚くなったこのカタログの明治17年訂正再版でも、マスクのヴァリエーションは図版ともども初版と全く同じで、なぜかいわしや自家製「呼吸器」は載せられていない。

輸入車用の幌@昭和初期の自動車用品カタログ
昭和10年代の自動車用品カタログに載っている、US製輸入車のための幌張り替え用ゴム引き生地。 画像3枚目は組み立て成型済みの既成幌。窓のところはセルロイドが嵌まっていたようだ。 貼り付けてある現物見本のうち、一番上の合成皮革のものが既製幌の1928〜31年式フォードと1927〜28年式シボレー、次の織物のものが1929〜30年式シボレー、その下のものが1932〜34年式フォードと1931〜34年式シボレー用、とある。 測り売り生地の方は、「ヤール(=ヤード)」単位売りなのに幅が尺貫法表示なのが可笑しい……「巾四尺六寸モノ」のように尻尾に「モノ」がついているのは、ヤードポンド法ベースの寸法を尺貫法に換算したおおよその幅寸、ということなのだろう。1930年代に輸入車を乗り回すような人々でも、メートル法より尺貫法の方が馴染みがあったのかしらん、とついついおもってしまう。 こういう風に現物見本がついていると、当時の車の屋根幌や横幌がどのような見た目や感触だったのかがよくわかる。殊に複層構造や裏面の色味・テクスチャなどは、こういう資料が残っていてこそ初めてしれるものだ。 画像5枚目と6枚目は幌を取りつけるための部品や補修用品。「シネリ式幌止メ」の「シネリ」は「捻り」のこととおもわれるが、商店主が江戸っ子入っているかww 画像7・8枚目、見本のうち下3枚は座席シート張り替え用の生地。ただし下から3番目の黒いものは横幌用兼用だそうだ。 このカタログを出していた森田商會は、東京市が昭和8年に出した『東京市商工名鑑』第五回によれば、経営者が森田鐵五郎といったらしい。 https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1115189/546 所在地がカタログ表紙では芝區田村町一丁目、☝の商工名鑑では「芝、櫻田本郷」となっているが、銀座局内の電話番号がどちらも同じなので間違いないだろう。 この人物名で商工信用録などを国会図書館デジタルコレクションで追ってみると、大正11年の東京興信所『商工信用録』第四十六版に大正10年1月調査で「森田鉄五郎」「自動車附屬品」「京、新肴、一七」「1年前」というのがある。 https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/970692/355 また大正12年の第四十八版では大正11年3月調査調査で「森田鐵五郎」「自動車附屬品」「芝、新幸、七」というのが出てくるが、こちらも「開業年月」のところは「1年前」となっている。 https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/970694/327 翌大正13年の第四十九版をみると、大正13年3月調査で「森田鐵五郎」「自動車附屬品」「芝、櫻田本郷、二」「3年前」 となっている。 https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/970693/284 試しに昭和7年第六十五版をみてみると、昭和6年3月調査で「森田鐵五郎」「自動車附屬品」「芝、櫻田本郷、二」「10年前」 とある。 https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1242111/312 ……ということは、創業は大正8〜9年ごろ京橋區新肴町にて、ということになるだろうか。毎年出ている同じ出版物でこうもバラついているとなると、開業がいつだったのか特定するのはなかなか難しそうだ。 なお、帝國商工會『帝国商工録』東京府版の昭和7年版 https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1024841/89 では所在が「芝區櫻田久保町二」、翌昭和8年版 https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1023922/97 では「芝區田村町一ノ三ノ六」で、こちらはカタログの表示と同じになっている。昭和7年12月1日に、帝都復興計画の一環で大幅な町域改正がおこなわれた際、櫻田本郷町は田村町一丁目、櫻田久保町は田村町二丁目に編入されたようだから、前者の「櫻田久保町二」は「櫻田本郷町二」の誤りではないかとおもわれるが、あるいは建物改修か何かで一時的に近所に越していたのだろうか。 ともあれ、今の都営三田線内幸町駅のあたりにあった、おそらくは家族経営の中小自動車用品販売店だったのだろう。
https://muuseo.com/lab-4-retroimage.jp/items/162

Default