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高橋悠治 & 藤枝守 “「電脳カフェ」のための音楽”
これは、何の気無しにちょっと興味を持ったので、購入していたブツなんですが、漸く聴いてみようと思いました。それで、いつものように、各人のバイオグラフィー。先ず書いておきますが、高橋悠治氏のはマジで書くと、物凄い量になるので、かなり端折って行きたいと思います。高橋悠治の家族は、音楽一家で、父は季刊誌「音楽研究」の編集長を務めた音楽評論家高橋均、母はピアニスト蔭山英子。ピアニストの高橋アキは実妹。そして、高橋悠治自身は、ピアノとコンピュータによる即興演奏や、日本の伝統楽器と声のための作曲等の音楽活動を行っています。彼は、橋本國彦、團伊玖磨、柴田南雄、小倉朗に作曲を、伊藤裕、宅孝二にピアノを師事し、桐朋学園短期大学作曲科を1958年に中退後、1960年の東京現代音楽祭でボー・ニルソンの「クヴァンティテーテン; 『量』の意」の日本初演でピアニストとしてデビューし、注目を浴びる。そののち、草月コンテンポラリー・シリーズにおいて、武満徹の「ピアノ・ディスタンス」、John Cageの”Winter Music”やIannis Xenakisの”Herma”等を演奏しています。1962年に秋山邦晴、一柳慧、小林健次らと実験的演奏家集団New Directionを結成し、作曲家として同年、ピアノ曲”Extacys”, 電子音と12楽器による室内楽のための”Phonogienne”, 1963年にはテープと器楽アンサンブルのための「冥界のへそ」を発表。同年秋からはフォード財団の助成を得て西ベルリンに留学し、Xenakisに師事。1964年作曲の”Chromamorph Ⅱ”は、6月にベルギーのGentで初演されています。一方、パリのドメーヌ・ミュジカルなど欧州各地においてピアニストとしても活動しています。Xenakis作品を演奏したアルバムで1965年度のフランス・ディスク・アカデミー大賞を受賞。翌年1966年5月、日生劇場において開催された現代音楽祭Orchestral Spaceに参加し、高橋悠治のピアノ、小澤征爾の指揮でクセナキスの”Eonnta (エオンタ)”を演奏する。同年ロックフェラー財団の奨学金を得てタングルウッドのバークシャー音楽センターで開催される夏期講習に参加するために、NYCへ移住し、コンピュータによる作曲を研究した。また、バークシャー音楽センター、ラビニア音楽祭、ストラットフォード(オンタリオ)演劇祭、ニューヨーク州立大学バッファロー校の『創造と演奏の芸術』センターなど各地で演奏し、のちには『創造と演奏の芸術』センター所員として作曲を行っています。この間、ロンドン交響楽団、ニューヨーク交響楽団、ボストン交響楽団、シカゴ交響楽団、サンフランシスコ交響楽団、フィラデルフィア管弦楽団、トロント交響楽団、バッファロー交響楽団などと共演し、アテネ音楽祭、ストックホルム音楽祭、オックスフォード・バッハ音楽祭、プリンストン室内楽音楽祭、ニューヨークにおける「新しい音楽と音のイメージのための夕べ」では独奏者として演奏しています。この時期、多くのアルバムを録音しています。1966年と1968年には、マニラとニューヨークで開催されたユネスコ国際音楽評議会で演奏や講演を行っており、1968年6月5日、現代音楽祭「OrchestralSpace 1968」において、自作”6つの要素(4つのヴァイオリンのための)”が演奏されています。1969年1月14日小澤征爾指揮トロント交響楽団とともに武満徹の”Asterism”の初演に参加し、同年秋一時帰国し、1970年の大阪万国博覧会における武満徹が音楽監督を務める日本の「鉄鋼館―スペースシアター」での演奏作品”エゲン”を収録しています。1970年代以降は、民衆の声や音を用いた創作手法も重視し始めます。1971年6月、渋谷公会堂でのリサイタルのために一時帰国。6月9日には朝日講堂で、日米現代音楽祭クロストーク最終回として室内楽作品”和幣(ニキテ)”が初演されています。同年8月30日にインディアナ大学の数理自動音楽研究センター(CMAM)の副ディレクターに就任し、秋からは、同大学で作曲とピアノを教えています。また、サンフランシスコ音楽院でも教鞭を執っています。しかし、同年12月14日、大学学長から翌年1972年5月付けでの解雇を宣告され、Xenakisと共同でコンピュータ音楽研究室を結成し、過去数年間同大学でXenakisが継続してきた実験の企画に1年間協力するも、研究している音楽と他の領域との中間にある探究の実現にとっては、既成の学問領域分割に基づく大学の固定的区分はどうにも不自由であったらしいです。1972年末研究室は解散し、Xenakisはパリに移り、16ビット、10万サンプル/秒のD/A変換によって実験を継続することになります。1972年に高橋悠治は、東京大学の情報科学研究室でGRAMS/ICOM計画に参加し、コンピュータによる作曲と音響発生の結合を実験し始めますが、1974年のある時期以降は、しばらく大学に行かなくなります。その後、1972年4月に帰国し、グラモフォンで「武満作品集」を収録。1973年には3月20日の渋谷公会堂での第600回N響定期公演において、Xenakisのピアノ協奏曲”Synaphai (シナッフェ)”を演奏、同年、武満徹、林光、松平頼暁、湯浅譲二と共にグループTransonicを組織し、1976年まで季刊誌”Transonic”の編集活動を行っています。1973年7月からは日本コロムビアの川口義晴プロデュースによるレコーディング開始し、「バッハの世界」を作成しています。1974年9月には4チャンネルを使った「パーセル最後の曲集」を作成、1975年には、J.S.Bach “Die Kunst der Fuge(フーガの技法)”, John Cage “Sonata & Interlude”等、同社からのアルバム・リリースは1980年1月収録のSatieまで続いています。一方、FM放送録音として、1974年1月20日の日生劇場でのリサイタル録音には、1973年に高橋悠治によって初演されていた近藤譲”Click Clack”、1973年に仏ピアニストMarie-Françoise Bucquet (マリー=フランソワーズ・ビュケ)により初演されていたXenakis の”Evryali(エヴリアリ)”の日本初演に当たる音源等が収録されています。また、1976年から画家の富山妙子とスライドで絵と音楽による物語作品を製作する。1978年にはタイの抵抗歌を日本に紹介するために、水牛楽団を組織し、以後5年間、各地の市民集会でアジアやラテンアメリカの民衆の抵抗歌を編曲・演奏する活動を行っており、1980年1月から月刊「水牛通信」を発行。同年9月からは光州事件を受けて、各地で韓国政治犯支援コンサートを開催、1981年1月、「山谷越冬闘争支援集会」「金大中氏らを殺すな! 杉並市民集会」「金大中氏らに自由を! 新宿コンサート」を開催しています。同年2月に「高橋悠治とその仲間」を東京文化会館にて開催し、同年4月からは「都市シリーズ」コンサートとして「ワルシャワ物語」。これは「カタルーニャ讃歌」「サンチャゴに歌が降る」「コザの向こうにミクロネシアが見える」「バンコックの大正琴」を開催しています。同年10月にはタイのバンコクのタマサート大学で「血の水曜日」5周年追悼集会に参加。同年12月には、加藤登紀子と日比谷公会堂における国連パレスチナ・デー記念コンサート「パレスチナに愛をこめて」で共演。1982年1月には、緊急コンサート ポーランド「禁じられた愛」が中野文化センターで開催されています。1983年以後は次第にコンピュータとディジタル・サンプラーによる作曲やライブが中心となってきますが、また室内楽やオーケストラ曲の作品を書き、三宅榛名とのユニットによるコンサートプロジェクトをはじめ、富樫雅彦、豊住芳三郎、John Zornとの即興演奏も行っています。1987年12月築地本願寺講堂において、水牛通信100号記念コンサート「可不可」を上演、1988年8月、1986年出版のChristoph Wolff校訂Bach “フーガの技法”自筆初期稿をピアノで演奏録音しています。1989年には東京でマッキントッシュ・フェスティバルに参加、1990年2月には築地本願寺Buddhist Hallにおいて、コンサート「可不可Ⅱ」を上演。高田和子に三味線を習い、同年以降は邦楽器や雅楽の楽器のための作品を多数発表しています。1990年4月には、「発掘品に拠って復元製作された弥生期のコトのための『ありのすさびのアリス』―矢川澄子の詩による―」コンサートに参加し、1991年には初の環太平洋電脳音楽会と池袋電脳カフェを開催しています。後者では、高田和子と共作のコンピュータと三絃弾き語りのための「水……」を初演しています。CD時代に入り、1992年サイバーサウンドウィーク、管絃心戯を企画し、コンピュータ演奏を開始し、また同年よりFONTECからCDシリーズ「高橋悠治リアルタイム」により、自作を含む演奏・録音物をリリースしています。1993年三絃弾き語りとオーケストラのための「鳥も使いか」を作曲、1995年には、詩人藤井貞和とコラボレーションを始めています。1997年のパシフィック・ミュージック・フェスティバル札幌には作曲部門の講師として参画し、若手音楽家たちによって多くの高橋作品が演奏され、自身もピアニストおよび指揮者としています。1999年には作曲家・編曲者である蘭人Louis Andriessen(ルイス・アンドリーセン)とともにポーランドにおける第19回若手作曲家のためのISCMサマーコースに、同年、東京フェスティバルには、韓国の伝統音楽の専門家であり、作曲家のHwang Byung-ki(ファン・ビョンギ)とともに参加しており、一方、同年には演奏集団「糸」を結成しています。2002年コンピュータによる音響作品の制作を始めています。同年10月より約1年間病気により休養後、2003年の大阪での北東アジアフェスティバルにおいては、中国の作曲家瞿小松(チュ・シャオソン)や韓国の作曲家Hype-shin Na (ヒョーシン・ナ)と共に「東アジアからの提案」シンポジウムを組織しています。2006年にはニューヨークの現代芸術財団 (FOCA) から助成金を授与され、2008年にはモンポウ、ブゾーニの作品、2009年には「Bartók(バルトーク)初期ピアノ作品集」を制作し、21世紀に入ってからも多くのピアノソロを収録しています。
一方、藤枝守も、現代音楽家であり、カリフォルニア大学サンディエゴ分校では湯浅譲二, Morton Feldman, Gordon Mumma他に師事し、現在は、九州大学名誉教授です。それで、藤枝守は「耳の理解をはるかに超えた複雑で緻密な作曲手法は…(中略)、けっして耳に居心地のいいものではなかった」と言う点から、自身の創作を展開しています。つまり、聞いて感じが良いものとは何か、それはなぜ感じが良いのか、といった2つの問いに答えることが藤枝守の創作の根幹にあります。初期の藤枝守は、調性に基づいたシステマティックなパターンを西洋音楽の古典にも適用し、古典のメロディを際限なく自身の創案したパターンで「寄生」することによって音楽を成立させており、この時期の代表作にピアノのための「遊星の民話」がある。また、同時に、調性的なパターンに特殊な変調を施した電子音楽もこの時期に制作されています。その後、カリフォルニア大学サンディエゴ分校では湯浅譲二, Morton Feldman, Gordon Mumma他に師事し、この地で、Harry Partchの43分割音律を知り、自身の音楽を調律の問題へシフトさせています。彼は、12平均律全盛の前衛音楽の歴史に一石を投じることができるのではと考え、音律の変更が楽な、琴、クラビコード、笙といった楽器編成に変更して電子楽器とは離れますが、自身の使用する調律にはコンピュータが用いられており、古典から現代までに試みられた様々な調律を参照した自身の調律法で作曲されることが多かったようです。近年では新たに提唱された「バッハ調律」といったもので自身の作品を演奏するなどの試みも続けている。またインスタレーションにも熱心で、実際の植物の電位変化をコンピュータ解析した結果でメロディを生成して楽曲を制作したりもしています。
以上が、2人のバイオグラフィーになりますが、本作品は、1991年9月4日〜8日に池袋西武百貨店カフェ・ポアンで、高橋悠治の企画の元、開催された「池袋電脳カフェ - 街へ出たコンピューター・ミュージック」の為に制作された4曲が収録されています。この4曲は、この企画中に販売する為に、急遽、柴田南雄邸で、櫻井卓によって録音されたカセット作品が元になっており、その時のカセットスリーブが、ジャケに貼ってあったり、ICチップの基盤が貼り付けてあったりします。そして、副題にもありますように、内容もコンピューター・ミュージックでありますが、元々はサウンド・インスタレーションの為の音楽であったとのことです。本作品では、Yuji Takahashi (Computer), Mamoru Fujieda (Computer, Synth, Transducer)が参加していますが、実際のインスタレーションでは、高田和子(3弦)や朝吹亮ニ(Vo, Poet)も参加する時間帯があったようです。因みに、ここでのコンピューターと言うのはMacのことで、特に作曲支援プログラムMAXを使っていたようです。
それで、内容ですが、A面は、金属質な音をバックに変調音を組合せたシンプルなA1で始まり、次には、如何にもコンピュータ音楽と言う感じのサンプリング機能と変調機能をバリバリに使って、金属質な変調音をバックにコロコロした音等が点描的に配置された「現代音楽」的なA2となります。間の取り方やパンの仕方が「現代音楽」的です。
B面も、金属質な音(弦楽器の変調音?)と象の鳴き声の絡みから始まり、様々なサンプリング音やその変調音を時間的に加えていくB1から始まりますが、シンセ等の電子音も聴取できます。やはり金属質な音をバックに、如何にも「コンピューター処理しました」と言うような具体音や楽器音或いは打楽器音を加えていくB2で終わっています。
コンピューター・ミュージックの走りであったことを考えると、多分、当時は革新的だったのだろうことが容易に予測できますが、現在の音楽テクノロジーの進歩に慣れた耳で聴くと、割とシンプルな変調とか曲構成しかしていないようにも感じます。なので、逆に「懐かしい」音楽にも感じますね!!それは現在では、音楽テクノロジーの進歩と安価にその手の機材が入手出来る状況であることから、現代では、如何に、そのようなテクノロジーを使いこなすか?と言う命題にぶつかるのではないかと思います!!そんなことを考えさせてくれる1枚でした!! ただジャケのデザインは中々面白いなと感じました!
A1 “Morning” (4:44)
A2 “Afternoon” (9:38)
B1 “Evening” (9:34)
B2 “Night (Remix)” (4:40)
https://youtu.be/PE5lTPKfVIA?si=p3K7j_x00tHNVjz1
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