ドヴォルザーク 望郷の遠吠え

初版 2024/12/10 11:15

改訂 2024/12/10 11:15

ドヴォルザーク チェロ協奏曲ロ短調op.104

第2楽章 アダージオ・マ・ノントロッポ

出色のメロディ。

曲全体が好きというわけではない。

が、古今のチェロ協奏曲の中では抜群のスケール感を持つ作品であることは確か。昔からデュプレやフルニエ、カザルス、トルトゥリエ、最近ではガベッタ嬢とか、その他いろいろのチェリストのを聴いたけど、この曲では特別好きな部分があって、他の演奏ではなかなかないイメージドンピシャというフレーズがあるのです。

それが、ロストロポーヴィチがカルロ=マリア・ジュリーニとロンドンフィルで協演した演奏でした。

ロストロポーヴィチ氏は彼ほどの演奏家ですから、様々な優れた指揮者やオーケストラと協演していますが、レコードやCDでよく見かけるのはカラヤンBPO 小澤征爾BSO、そしてこのジュリーニLPOとの協演なんかが有名です。その中でこれはあんまり評判が良くなかった。

でも好きなんですね。他で聴けないものがあるもんだから。

第2楽章はどのチェリストも良く歌っていて曲自体が好きなので楽しませていただいたのですが、このジュリーニとの演奏は、第1楽章を聴いたとき『アレグロ?遅ッせ~』と思い、ジュリーニって何振っても遅いとじれったくなったものでした。ブルックナーの9番やマーラーの9番とかもそうなのですが、協奏者がいるときは上手くそのお相手と合わせるのです。ところがこのテンポはロストロに合わせたのでしょうか。両腕いっぱいにスライムを抱えて、顔の高さまで持ち上げてもまだ足元に粘っこいがいっぱい残っているような感じ( ´艸`)言いすぎました。

例えば万人受けの名演奏ということではカラヤン指揮ベルリン・フィルとのものがあります。
カラヤンという指揮者はいろいろ言われますが、コンチェルトのソリストの能力を十全に発揮させるフォーマットを準備することについては最高であったと思います。
リヒテルとのチャイコフスキーとロストロポーヴィチとのアプローチがアーティストの個性によって変化しているのがよくわかります。ピアノとチェロの違いはあるにしても、両方とも名演奏であることは確かです。

小沢征爾との協演は小沢の敬意が演奏全体を支配していてロストロポーヴィチになにひとつ心配のない環境を作り上げています。
破綻がありません。

これら二つの演奏に比べるとカルロ・マリア・ジュリーニとの協演はあまりにもゆったりと進む両巨匠の歩みに「ちょっとスローすぎない?」と感じました。

でもこの第2楽章(アダージオ マ ノントロッポ)この叙情性に満ちた楽章をジュリーニは流れてはつまり、うねっては静まるテンポの揺れをまるで作曲者の感情の起伏に合わせたかのような息遣いで再現していきます。新世界から故郷に向ってノスタルジックに叫ぶ血を吐くようなような望郷の思いと晩年の諦念が聴こえます。

それは木管ののどかで涼やかな主題の提示が終わり、メロディアスな心情をチェロが引き継いでゆく、仄暗いけれど、暖炉の火のようにその暖かでふわりと体温を感じさせる息遣いが見事なロストロさんのボウイングで再現されていきます。そして、静かに目を閉じて故郷の風景を脳裏に描く作曲者の晩年の心情に抑制のばねが折れたように弾ける中間部のオケのトウッティ。作曲者の歌曲『一人にして』のフレーズに似たチェロのノスタルジックな遠吠え…

お互いがすべき事を知り尽くした二人がオーケストラという糸で結ばれて、二人がベストと考えたドヴォルザークが鳴っているようです。

この一か所が聴きたくてこのアナログレコードを買い、CDで引き継いだことをいまだに思い返します。この部分の感情的暗い昂ぶりはいまだに他の演奏では聴いていません。

いつもと変わらぬ、ライナーノーツを無視した独断偏見ですが、聴くべき第2楽章です。

古生物を中心に動物(想像上のもの)を含め、現代動物までを描くイラストレーターです。
露出度が少ない世界なので、自作の展示と趣味として行っている地元中心の石ころの展示を中心に始めようかと思っています。
海と川が身近にある生活なので気分転換の散歩コースには自然が豊富です。その分地震があれば根こそぎ持っていかれそうなので自分の作品だけは残そうかとAdobe stockを利用し、実益も図りつつ、引退後の生活を送っております。
追加ですが、
古いものつながりで、音楽についてもLabを交えてCD音源の部屋をつくっています。娘の聴いてるような音楽にも惹かれるものがありますが、ここではクラッシックから近代。現代音楽に散漫なコレクションを雑多に並べていきながら整理していこうかと思っております。走り出してから考える方なので、整理するのに一苦労です。

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