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1973 (22ND) SPARK SURTEES TS14 M.HAILWOOD
マイク・ヘイルウッド 唯一のフル参戦 炎の中の救出劇 SURTEES TS14 1973年マイク・ヘイルウッドは サ―ティス残留 キャリア唯一のフル参戦 チームメイトはカルロス・パーチェ 前年末に投入されたSURTEES TS14が不振で ヘイル・ウッドは前半10戦中リタイア9回 R3南アフリカGP ヘイルウッドはタイヤがパンクし C・レガッツォーニ(BRM)と衝突 車は炎上 レガツォーニは意識不明のまま 車に取り残された中 ヘイルウッドは 炎の中に飛び込みシートベルトを外して レガツォーニを車から引きずり出して救出 この勇敢な行動で関係者から賞賛された 後半戦は4戦連続完走もあったが 決勝最高位は7位でポイント獲得ならず サーティスはこの年で離脱 翌1974年はプライベーター マクラーレンのマシンで参戦 キャリア最後のF1シーズンを迎える #1973年
230805 M.HAILWOOD 1973 23FW12C
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1999 (22ND) PMA BAR 01 SUPERTEC R.ZONTA
リカルド・ゾンタ F1デビュー 新規チーム BAR 01 SUPERTEC リカルド・ゾンタ ブラジル出身 1997年 国際F3000チャンピオン(3勝) 1997年 ジョーダンテストドライバー 1998年 マクラーレンテストドライバー 1999年 ティレルを買収して BATタバコの協力スポンサーのBARでデビュー チームメイトはジャック・ビルヌーブ R2地元ブラジルGPのフリー走行で足負傷 R3~R5まで欠場 代役でミカ・サロが走行 R12ベルギーGPでも大クラッシュをしている 予選最高R7フランスGP10位 決勝最高R14ヨーロッパGP8位 鳴り物入りで登場したBARとゾンタであったが ビルヌーブとともに無得点に終わる 翌2000年もBARに残留
230730 R.ZONTA 1999 23FW12C
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1980 18TH SPARK ALFA ROMEO 179 B.GIACOMELLI
ブルーノ・ジャコメリ 初入賞& 唯一のPP獲得 ALFA ROMEO 179 1980年第2期アルファロメオの 本格フル参戦1年目 ドライバーは 開発から携わったB・ジャコメリ チームメイトはパトリック・デュパイエ (後にV・ブランビラ/ A・チェザリス) 開幕戦アルゼンチンGP 予選20位から混戦生き残り5位入賞 2期アルファロメオとジャコメリの初入賞 ジャコメリの生涯F1入賞は6回 主にアルファロメオV12エンジンの 信頼性の不足の起因により決勝は 14戦中 完走僅か3回も5位入賞2回獲得 予選では速さを見せ9回のシングルグリット 最終戦アメリカEAST GPでは 生涯自身唯一となるPPを獲得 PPから31周目までリーダーラップも記録 シーズン途中のテストでチームメイトの パトリック・デュパイエが事故で他界した中 チームに希望と勇気を与える PPと31周のトップ走行であった https://muuseo.com/FW12C/items/1579?theme_id=34513
230624 B.GIACOMELLI 1980 23FW12C
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2006 (25TH) PMA SUPER AGURI SA05 Y.IDE
史上初 日本人ドライバ―同士 チームメイト 井出有治 SUPER AGURI 井出有治 埼玉県浦和市出身 2002年 フランスF3 7位(1勝) 2004年 フォーミュラニッポン3位(1勝) 2005年 フォーミュラニッポン2位(2勝) 2006年は日本人初の表彰台F1ドライバ― 鈴木亜久里が立ち上げたSUPER AGURIで F1デビュー チームメイトは佐藤琢磨 史上初の日本人2人のチームメイト 急遽立ち上げたチームでもあり テストもほとんどドライブしないまま 開幕戦デビューとなり2戦連続のリタイア R3オースラトリアGP 決勝13位完走するも R4サンマリノGPでは クリスチャン・アルバース(ミットランド)に 接触しアルバースのマシンは横転 自身もダメージを負いリタイア この接触事故も一因となり 残念ながらシーズン途中に発給済みの スーパーライセンスが取り消され 4戦限りのF1エントリーとなった その後フランク・モンタニー 山本左近が 井出のシートの後ドライブするも いずれも決勝最高は16位で 井出の13位を上回る事は出来なかった Y・IDEの名前三文字表記は C・PIC(シャルル・ピック)などと並び F1ドライバ―最小名前表記文字の1人
230428 Y.IDE 23 1/43FW12C
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1978 (31ST) SPARK (SACHS RACING) ENSING N177 H.ERTL
1グランプリに2チームからエントリー ハラルド・アートル ENSING N177 1978年ハラルド・アートルは プライベートチーム ザックレーシングで エンサインのマシンを使用し途中参戦 初戦のR11ドイツGP 予選23位→決勝11位 R12オーストリアGP 予選24位→決勝リタイア 決勝進出は2レースのみでこれが アートルのF1レース最後の決勝レースになった R14イタリアGPはエントリーが32台となり アートルはザックレーシングで 予備予選から出場も通過ならず 予選開催時にATSチームに空きシートがあり 予選はATSから出場 こちらも予選落ち 1グランプリに2チームからエントリー しかも予備予選落ちと予選落ちを 両方経験したドライバ―となった ハラルド・アートルはこの後 1980年にATSからスポット参戦も予選落ち 1982年に自家用飛行機の事故で 残念ながら他界 享年33歳 1976年ドイツGP 自らのレースは棄てて 同郷のニキ・ラウダ(フェラーリ)を 炎上するマシンから救出した4人の ドライバ―の1人として賞賛されている #F1-1978年
230314 H.ERTL 23 1/43FW12C
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1975 19TH SPARK HILL GH1 T.BRISE
イギリス期待の星 トニー・ブライズ グラハム・ヒルとともに散る トニー・ブライズ イギリス出身 同年同郷にトム・プライス(シャドウ)がおり 90年代のマーティン・ブランドル マーク・ブランデルに似てアナウンサー泣かせ 1973年イギリスF3チャンピオン 1975年はF2に参戦するJ・ラフィーの代役で R4スペインGPウイリアムズでデビュー(7位完走) R6ベルギーGPよりチームヒルから参戦 予選ではR・シュトルメンや後のチャンピオン A・ジョーンズらを圧倒しチームメイトに全勝 ヒルでの2戦目のR7スウェーデンGPでは 予選17位→決勝6位入賞 GH1のマシン初ポイント ヒル初のオリジナルマシンで熟成の低い中 R12イタリアGPで予選6位を獲得するなど イギリス期待の星となる活躍であった シーズン終了後 翌年のマシンGH2でテストを終えた帰路 チームオーナーのグラハム・ヒルが 操縦する小型飛行機が墜落 同乗していたトニー・ブライズも帰らぬ人となった 享年23歳の早すぎる死であった 前述の同郷トム・プライスも1977年に レース中で事故死しているが 後にブライズの妻とプライスの妻が親しくなり 共同でアンティークショップを経営している
230211 T.BRISE 1975 23FW12C
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1998 (19TH) PMA MINARDI M198 E.TUERO
シルバー/ブルー ミナルディM198 エスティバン・トゥエロ アルゼンチン 1998年ミナルディはチーム立て直し3年計画 ジャンカルロ・ミナルディと大株主で フォンドメタルのガブリエーレ・ルミが 中心となり 元フェラーリ・リアル・レイトンハウスなどの デザイナー グフタス・ブルナーを招集 何とスタッフも75名→120名に増員 スポンサーの意向もあってか カラーリングも今までにない シルバーとブルーのコントラスト エスティバン・トゥエロは アルゼンチンドライバ― 19歳 参戦当時で史上3番目の若さでエントリー (2023年現在でも9番目の若さ) チームメイトは中野信治 前年の1997年はフォーミュラニッポンで 入賞1回 わずか1Pでスーパーライセンスの 発給も危ぶまれたがアルゼンチンの スポンサーの後押しもあり何とか参戦 開幕戦オーストラリアで予選17位 R4サンマリノで決勝8位が最高位 16戦中完走は僅かの4回でシーズン終了 チームも3年連続でノーポイント トゥエロは翌年1999年はミナルディで L・バドエル M・ジェネとのシート争いに 敗れてF1のシートを失ない 以降F1にエントリーすることは無かった
230209 23 1/43 MINARDIFW12C
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1997 (21ST) PMA STEWART FORD SF 1 J.MAGUSSEN
新規参戦ジャッキー設立スチュワート 異例の4年契約 ヤン・マグヌッセン 3度のワールドチャンピオン ジャッキー・スチュワートがチーム設立 フォードのワークスエンジンで参戦 新規チームがワークスエンジンを使用するのは 1976年のリジェ・マトラ以来 タータンチェックを施した白ベースのマシン ヤン・マグヌッセンは 1994年にイギリスF3で18戦14勝の 圧倒的成績でチャンピオンを獲得 1995年にマクラーレンで1戦のみデビュー 1997年は新規チームスチュワートと 異例ともいえる4年契約で参戦 TMのルーベンス・バリチェロに予選で 勝ったのは17戦中2回 最高6位 決勝は最終R17ヨーロッパGP最高9位 フル参戦初年度で大きな成果を出せなかった ヤンの息子 ケビン・マグヌッセンは 2014年父と同じマクラーレンからデビュー 2022年は2年ぶりにハースに復帰 R21ブラジルGPで自身初のPP獲得 #F1-1997年
221113 J.MAGUSSEN 23 スケールFW12C
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1981 15TH SPARK ALFA ROMEO 179C B.GIACOMELLI
アルファロメオ3年目 B・ジャコメリ 自身唯一の表彰台 ALFA ROMEO 179C 1981年参戦3年目の2期アルファロメオは ジャコメリのチームメイトとして マリオ・アンドレッティを迎い入れた 車体は前年度改良型の179Cで参戦 予選ではシングルグリットがあったものの 決勝ではリタイアが多かった ジャコメリの入賞はR14カナダで4位 そして最終戦R15アメリカ ラスベガス 予選8位→決勝3位表彰台獲得 モデル仕様 これは第2期アルファロメオの初 ジャコメリもキャリア唯一の表彰台獲得 年間15位 7ポイントもキャリアベスト アメリカ ラスベガスGPは1981・1982年の 2年間開催でシーザースパレス(ホテル)の 駐車場に作られた特設コース ヘアピンが多く中低速コーナーが続くコース ホテルの駐車場にF1レースのコース モデルはフロントウイングが劣化したが 勝手にレース仕様と思って良しとします ミニカーショップイケダで2014年購入 #F1-1981年 #ジャコメリ #ALFAROMEO
B.GIACOMELLI 23 1/43 MarlboroFW12C
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1996 (23RD) ONYX FORITI FORD FG03 A.MONTERMINI
アンドレア・モンテルミニ F1 3年目 フォルティで参戦も途中撤退 前年度パシフィックからモンテルミニは 自身が1992年に国際F3000でも所属していた フォルティに移籍 TMはL・バドエル 1996年は予選107%ルールが導入され PPのタイムから107%を超える予選タイムの 場合は予選落ちとなりモンテルミニは 開幕戦を含め5度の予選落ち ONYXは2種類のカラーリングがリリースされ R4ヨーロッパGP仕様 前年度に続くイエロー フォルティFG01/96 R7スペインGP仕様 グリーンと白がベース フォルティFG03/96 両マシンとも名称の表記が無い これはアイルランドのシャノンレーシングと 契約によりカラーが変更されたが シャノンとの協力体制が上手くいかず スポンサーマネーが支払われることがなかった 結局チームはR11ドイツGPには現れたものの このGPからFIAへ撤退の申し入れをした モンテルミニは次年度1997年はローラの テストドライバーを務める予定も チームが開幕戦で早々と撤退しF1から引退 所属チームがシムテック→パシフィック →フォルティ→マスターカードローラと ことごとく撤退する不運なドライバ―であった #F1-1996年
A.MONTERMINI 23 1/43 FORTIFW12C
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1975 (28TH) SPARK HILL GH1 G.HILL
2度のワールドチャンピオン グラハム・ヒル 最後のマシン 1975年G・ヒルは自らのチームHILLの 3年目にして念願の自製シャーシ完成 3戦まではローラ製のシャーシで出場 R4スペインGPからHILL GH1を導入し R・シュトルメンが予選9位を獲得(決勝R) R5モナコGPではG・ヒルが自らドライブ 過去5度のモナコGPウイナーであったが 予選落ち(18位までが決勝で21位) G・ヒルはこのGPをもってドライバ―から 引退をしてチームの運営に専念 GP出場176戦は当時の最多決勝出走記録 シーズン終了後次年度に向けたテストの帰路 G・ヒル自らが操縦する小型飛行機の着陸失敗 同乗していたトニー・ブライズらとともに 残念ながら帰らぬ人となってしまい これに伴いチームHILLも解散となった この時息子デイモン・ヒルは15歳 グラハム・ヒル (イギリス) 決勝出走回数 176回 予選最高位 PP(13回) 決勝最高位 優勝(14回) ファステストLAP(10回) ワールドチャンピオン 2回 1962年 BRM 9戦4勝 1969年 ロータス 12戦3勝 #F1-1975年 #F1最後マシン
G.HILL 1975 23 1/43FW12C
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1995 18TH ONYX MINARDI FORD M195 P.LAMY
ペドロ・ラミー ポルトガル 自身唯一の入賞 MINARDI FORD M195 1995年シーズン前 ラミーは当初 パシフィックからの参戦予定であったが ティレルのシートを画策し交渉 結局ティレルのシートを獲得出来ない だけでなくパシフィックのオーナーの キース・ウィギンスの逆鱗に触れて パシフィックのシートも失った ラミーはR10ハンガリーより 資金難のミナルディに持参金を持ち込み P・マルティニのシートを獲得 結果的にマルティニはこれでF1引退 最終戦のR17オーストラリアGPで 予選17位から完走8台のサバイバルを 生き残り自身初の6位入賞 (7位 P・デニス フォルティ) (8位 B・ガショー パシフィック) これはラミーの生涯唯一の入賞 ポルトガル人の初の入賞でもあり ミナルディの25戦ぶりの 1995年の初ポイントでもあった #1995 #F1 #MINARDI #ONYX #初入賞
P.LAMY 23 1/43 MINARDIFW12C
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1995 (19TH) ONYX MINARDI FORD M195 P.MARTINI
ミスター・ミナルディ P・マルティニ 最後のマシン MINARDI FORD M195 1995年マルティニとL・バドエルの イタリア人コンビで迎えたミナルディ 無限HONDAエンジンを土壇場でリジェに 奪われ出鼻をくじかれたシーズン序盤 初のUPDATE実施したR5モナコと R7イギリスで入賞手前の7位完走し 後半戦に向けて光が見えたが R10ハンガリーGPより 資金難のチームは持参金を持つ P・ラミーにシートを譲り マルティニはF1のキャリアを終了した 生涯9シーズン中8シーズンをミナルディで 過ごしたピエルルイジ・マルティニ 119戦で表彰台なしは2014年に E・スーティルに更新されるまでの 表彰台無しドライバ―の最多出走 陽気な性格で皆に愛されたドライバ― 1999年にはル・マン24時間で優勝している 🏁ピエルルイジ・マルティニ (イタリア) 【決勝出走数】119回 (入賞10回) 【予選最高位】 2位 1990年 ミナルディ R1アメリカ 【決勝最高位】 4位(2回) 1991年 ミナルディ R3サンマリノ 1991年 ミナルディ R13ポルトガル #F1-LAST
P.MARTINI 23 1/43 MINARDIFW12C
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1975 (49TH) SPARK HILL GH1 F.MIGAULT
フランソワ・ミゴール フランス出身 1975年はワールドチャンピオン G.ヒルの チームHILLよりスポット参戦 R4スペインGP チームHILLは それまでのローラの車体から 念願の自製のGH1の車体で出走 しかしTMのR・シュトルメンが決勝 走行中にリアウイング吹っ飛び 観客を巻き込む痛ましい事故が発生 ミゴールは予選22位→決勝 周回不足 その後は R6ベルギーGP 予選22位→決勝リタイア (モデル仕様)の2戦のみの参戦 F1通算16戦でポイント獲得は無し ミゴールはフランスのル・マン出身 ル・マンには1971年~2002年まで参戦 最高は1976年の総合2位 2002年は日本のKONDO Racingより出走 #1975
F.MIGAULT 1975 23 1/43FW12C
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1992 18TH TAMEO MINARDI M191B LAMBORGHINI C.FITTIPALDI
追悼 ウィルソン・フィッティパルディ
C.FITTIPALDI 1992 23 1/43FW12C