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2000 4TH HOT WHEELS FERRARI F1-2000 R.BARRICHELLO 〖🏆1〗
当時最遅125戦目の初優勝 バリチェロ FERRARI F1-2000 ジョーダン4年 シチュワート3年過ごした ルーベンス・バリチェロは2000年 アーバインの後任としてフェラーリに加入 チームメイトはミハエル・シューマッハ 開幕戦オーストラリアGPで2位表彰台 ミハエルと1.2フィニッシュを飾り 自身初のファステストラップ記録 バリチェロのキャリアFLは17回 後5度の表彰台獲得し迎えたR11ドイツGP 連日雨のセッション 電機系のトラブルで 予選もままならず18位で何とか決勝進出 決勝もウエットコンディションの中 燃料の軽い2ストップ作戦で順位を上げ 不審者侵入などのセーフティカー導入や 様々なコースコンディションの中 ドライタイヤで走り続けてトップに立ち 最後はM・ハッキネン(マクラーレン)の 猛追を凌いでトップチェッカー バリチェロの初勝利は当時の最も遅い 99戦目(M・ハッキネン)を大きく上回る 125戦目の初優勝記録となった (2024年現在も4番目の最遅記録) モデルはHOT WHEELS GP仕様表記の無いレースカー仕様 2000年フェラーリ現行モデルは HOT WHEELSのみの発売 #2000年
240401 R.BARRICHELLO 2000 3回FW12C
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1999 7TH HOT WHEELS STEWART FORD SF3 R.BARRICHELLO
スチュワート3年目 集大成 チーム最高成績 R・バリチェロ チームは前年度末にジョーダンから テクニカルディレクターの ゲーリー・アンダーソン獲得 フォード軽量V10エンジンとマシンがマッチ チーム3年目のバリチェロは R3サンマリノで3位表彰台 R7フランスGP予選でチーム初 自身は2度目となるPPを獲得 決勝もシーズン2度目の3位表彰台 翌シーズンからチームをフォードが買収 ジャガーとして生まれ変わる事が 発表された直後のR14ヨーロッパGPでは チームメイトのジョニー・ハーバートが優勝 バリチェロも3位の1・3フィニッシュとなった チームは2人で36ポイントを獲得し コンストラクター4位に躍進 完走率では20/32回で全体の2位タイ ワールドチャンピオン ジャッキー・スチュワート設立の チームは最終年に最高の成績を残した モデルはHOT WHEELS 購入したのは大阪梅田にある モデルガレージ・ロムが かつて大阪なんば(日本橋)に 出店していたセコハン中心の2号店 当時(2010年頃)月1回くらい通っていました
231018 R.BARRICHELLO 1999 16FW12C
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1998 12TH PMA STEWART FORD SF-2 R.BARRICHELLO
スチュワート グランプリ2年目 ルーベンス・バリチェロ STEWART SF-2 1998年レギュレーション変更で タイヤの円周方向に4本(前輪用は3本)の平行な 溝を持つグルーブドタイヤが初めて導入された ブリヂストンタイヤはこの変更にうまく対応し グッドイヤー勢に対しアドバンテージを得た スチュワートはこの利点を生かし ルーベンス・バリチェロが R5スペインGPとR7カナダGPで5位入賞 カナダはJ・マグヌッセン6位とダブル入賞 以降はチームメイトがヤン・マグヌッセンから ヨス・フェルスタッペンに変更されたが グッドイヤー勢の巻き返しもあり ノーポイントに終わった バリチェロはの予選はシングルグリットが2回 16戦中10戦が7列目スタート(13位・14位)を占めて フォードのワークスエンジンで あったがコンストラクター8位 予選の結果がほぼ年間の結果に近く スチュワート2年目も不本意なシーズンとなった バリチェロは翌1999年もスチュワートに残留 スチュワート最後の年にJ・ハーバートともに チーム唯一の1・2フィニッシュを決める #F1-1998年
230504 R.BARRICHELLO 18 1/43FW12C
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1997 13TH PMA STEWART FORD SF 1 R.BARRICHELLO
新生スチュワートへ移籍のバリチェロ BSユーザー初の2位 STEWART FORD SF 1 1997年4年間過ごしたジョーダンを離れ ワールドチャンピオン率いるスチュワートに 移籍したルーベンス・バリチェロ R5モナコGPで予選10位→決勝2位 この年初参戦となったブリヂストンタイヤも 初の2位表彰台獲得となった 予選ではR7カナダの3位をはじめ シングルグリット4回など 常に上位に食い込んだが 決勝では新チームの信頼性の問題もあり 完走がわずかに3回 入賞も1回のみ ジャッキーのネームバリューを活かし 【HSBC】 香港上海銀行【SANYO】 三洋電機 【TEXACO】 アメリカ石油会社 【MALAYSIA】 マレーシア観光局 など 参戦1年目ながら多くのスポンサーを獲得 #F1-1997年
221127 R.BARRICHELLO 22 1/43FW12C
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1996 8TH PMA JORDAN PEUGEOT 196 R.BARRICHELLO
ルーベンス・バリチェロ 4年目シーズン 最後のジョーダン JORDAN PEUGEOT 196 ジョーダンはプジョーエンジン2年目 イギリス大手のタバコメーカー BENSON & HEDGESがスポンサー カンパニーカラーでるゴールドは シーズン途中より色調がリアルになり ミニチャンプスはその後半戦仕様 バリチェロはR2ブラジルGPで 地元の声援の中予選2位獲得も 決勝はスピンでリタイア 1996年はジョーダンはハイノーズを採用 しかしゴールドに輝く車体とは裏腹に 地味なレース運びでバリチェロは 入賞は7回獲得も最高位は4位が2回 チームとしても3年ぶりに表彰台は無し シーズン終了後バリチェロは 4年間過ごしたジョーダンを離れ 新規チームスチュワートグランプに移籍 #F1-1996年 #F1
R.BARRICHELLO 11 1/43 JORDANFW12C
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1995 11TH JORDAN PEUGEOT EJR 195 R.BARRICHELLO
ジョーダン3年目R・バリチェロ 自己最高 2位表彰台獲得 1995年のジョーダン195はフロントから リアにかけて美しい曲線を描き コックピットの前方に位置した 開口部の小さいサイドポンツーンが特徴 ゲーリー・アンダーソン作 カラーリングもベネトンB188・B189を 思わせるようなスポンサーごとに カラフルに彩られており新たに プジョーエンジンとタッグを組んだ バリチェロはR6カナダで上位陣の脱落もあり 自己最高の予選9位→2位表彰台を獲得 年間順位は11位とTMのE・アーバイン12位 僅差で勝ったが予選では開幕から6連敗 年間でも5勝12敗と見劣りする結果 翌1996年はE・アーバイン→フェラーリ 対しバリチェロはジョーダンに残留 アーバインにTOPチーム移籍を 先に越された形となってしまった 画像1 PMA通常版 画像2 ジョーダンチームセット (ドライバ―フィギュアレス) #F1-1995年 #F1 #PEUGEOT #JORDAN #PMA
R.BARRICHELLO 14 1/43 JORDANFW12C
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1994 6TH ONYX JORDAN 194 HART R.BARRICHELLO
ルーベンス・バリチェロ2年目飛躍の年 この時点で当時の参戦 最年少の22歳 R2パシフィックGPで3位表彰台獲得 R11ベルギーでは雨にも助けられて デビュー26戦目にして初のPPを獲得 表彰台・PPともジョーダンにとっても初 最終的には3位1回 4位5回の年間6位 予選ではアーバインと切磋琢磨 テクニカルではかつてマクラーレンや フェラーリ所属のスティーブ・ニコルズの 加入が良い方向に進んだ 非力ながらも限られた予算の中で ハートV10エンジンも結果を出し エンジンを手掛けたブライアン・ハートを エディ・ジョーダンは絶賛している 母国の英雄を失ったブラジル人にとって バリチェロが希望の光となった #F1-1994年 #F1 #JORDAN #ONYX
R.BARRICHELLO 14 1/43 JORDANFW12C
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1993 18TH PMA JORDAN 193 HART R.BARRICHELLO
F1決勝出走回数322回 R.バリチェロのデビューマシン 弱冠20歳 3年目のジョーダン エンジンはヤマハ→ハートに変更 当初のTMのI.カペリは早々の離脱 チームメイトが5人も変わるチームで バリチェロ中心に開発を進めるが なかなか結果に結びつかず R15鈴鹿でようやく5位入賞 日本GPより参戦のアーバインの加入が チームとバリチェロに良い刺激を与えた JORDAN HERT 193はアーバイン車はあるものの 何故かバリチェロ車は量産化されていない モデルはジョーダンセットとして カーナンバー・ドライバ―レスでの販売のもの タバコ広告禁止の国ではBARCLAYエンブレム またはドライバ―名に変更され この手法は後のマクラーレン等でも使用された
R.BARRICHELLO 14 1/43 JORDANFW12C