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1977 【WORLD CHAMPION】HOT WHEELS FERRARI 312 T2 N.LAUDA 〖🏆3〗
🔲🔲🔲1977🔲🔲🔲 👑WORLD CHAMPION👑 FERRARI 312 T2 🟥🟥 N.LAUDA 🟥🟥 🔲🔲🔲全17戦🔲🔲🔲 【出走】14回【PP】2回 【優勝】 3回【FL】3回 ニキ・ラウダ 2度目のワールドチャンピオン 前年1976年の事故から完全復帰 R3南アフリカで復帰後 初優勝 その後年間3勝 2位6回の安定で R15アメリカEASTで2戦残して 2度目のワールドチャンピオン獲得 しかしこの年加入した カルロス・ロイテマンを優先傾向の チームに嫌気がさし2戦残し フェラーリを去り 翌1978年は ブラバム・アルファロメオに移籍 フェラーリはラウダのシートに ジル・ビルヌーブを起用 モデルはHOT WHEELS フェラーリの過去のモデルを ラインナップしたELITEシリーズ R13オランダGP仕様 予選4位→FLで優勝 シーズン3勝目はラウダの フェラーリでの最後の勝利となった
231215 N.LAUDA 3回 11FW12C
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1978 4TH PMA BRABHAM BT46B "FANCAR" N.LAUDA〖🏆2〗
奇策 デザイナー ゴードン・マレー BRABHAM BT46B ファン・カー 1978年ブラバムは大柄の アルファロメオ水平対向V12エンジンでは 効果的なウイングカーを設計できなかった その打開策としてR8スウェーデンGP 車体後部に大型の送風機を装備した いわゆる ファン・カーを導入 ファンにより強力なダウンフォースを発生 コーナリング速度の向上を図った デザイナーのゴードン・マレーは ファンの主目的はエンジン冷却用との 名目にして使用認可を得た 注目の中 ニキ・ラウダは予選3番 PPスタートのM・アンドレッティ(ロータス)を 39/70周 目にとらえるとそこから後続を 30秒以上の差をつけて優勝 ブラバムは3年ぶり アルファロメオは27年ぶりの勝利 しかしロータスのコリン・チャップマンの 激しい抗議もありファン・カーは 強烈なインパクトと 1戦1勝の成績と共に表舞台から姿を消した モデルはミニチャンプス ユーロスポーツ限定 スウェーデンGP仕様 ドライバ―フィギュア等が修正された オリジナル台紙のバージョン 1978年を彩った1台 https://muuseo.com/FW12C/items/1383?theme_id=41104
231205 N.LAUDA 4回 1.000FW12C
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1982 5TH SPARK McLAREN MP4/1B N.LAUDA〖🏆2〗
2年ぶり復帰のニキ・ラウダ 混戦の1982年2勝 McLAREN MP4/1B 1979年末に突如引退したラウダ 1982年マクラーレンで電撃復帰 チームメイトはジョン・ワトソン 当初復帰に関してはマクラーレン側も ブランクや怪我の後遺症を考えて 開幕戦から4戦目までのスポット契約 開幕戦南アフリカGPで4位入賞すると R3アメリカWESTで予選2位より優勝 ファステストラップも記録 この年の3番目のウイナー(全11名) その後R10イギリスGPで2勝目をあげ チームもワトソンと合わせ合計4勝 ラウダの復帰と共にマクラーレンも 復活を印象づけるシーズンとなった モデルはスパーク 台座はMP4-1BとなっているがMP4/1Bの間違い ラウダの復帰初勝利となった R3アメリカWEST GP使用 予選2位→決勝WIN Marlboroデカール加工をしてあります 1980年以降のマクラーレンで ミニチャンプス唯一発売していないのが 1982年のマクラーレンMP4/1B
231104 N.LAUDA 1982 1回FW12C
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1978 4TH PMA BRABHAM BT46 N.LAUDA〖🏆2〗
ワールド・チャンピオン N・ラウダ ブラバム移籍 BRABHAM BT46 前年フェラーリでのチャンピオンの ニキ・ラウダはブラバムへ移籍 チームメイトはジョン・ワトソン 前半2戦は昨年型BT45Cで2位・3位と まずまずのスタートを切った R3南アフリカGPよりBT46が投入 いきなりのPP獲得も決勝はリタイア BT46で完走したレースでは(ファンカーBT46B含) 優勝2回 2位2回 3位1回と結果を残すも 他のレースはすべてリタイア FL4回と直線スピードの速いマシンであったが 信頼性の問題があり年間順位は4位に終わる ラウダは翌1979年もブラバムに残留するが 自身の会社ラウダ航空を1979年4月に設立 レースへのモチベーションが低下してしまう
230129 N.LAUDA 1978 4回FW12C
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1976 2ND QUARTZO FERRARI 312T N.LAUDA 〖🏆6〗
不死鳥 ニキ・ラウダ 大事故から6週間での復活 1976年 前年度Wチャンピオンのラウダは FERRARI 312Tで好調を維持して R9イギリスまでに5勝 表彰台8回と 選手権を優位に進めていた R11ドイツGPで悲劇に見舞われる レイン→ドライタイヤにスイッチして 順位を挽回中に高速コーナーで コントロールを失いクラッシュして炎上 ラウダのヘルメットは衝撃で脱げてしまう 4人のドライバーとマーシャルの決死の救出で 一命を取り留めたものの数日間生死を彷徨う その後驚異的な回復を見せて わずか6週間後のR13イタリアGPで 顔に火傷治療の跡を残しながら 予選5位→決勝復活の4位入賞を果たす ポイントリーダーで迎えた 最終戦 F1世界選手権イン・ジャパン 豪雨の中で行われた決勝レースを リスクが大きいと判断して2周でリタイア 結果J・ハント(マクラーレン)に逆転され Wチャンピオン連覇を逃してしまう コンストラクターチャンピオンは 死守したもののラウダ不在時に C・ロイテマンを招き入れ 結果盟友のC・レガッツォーニを チームが放出したこともあり フェラーリとの関係が悪化しながら 翌1977年シーズンを迎える事となる #F1-1976年
N.LAUDA 1976 4回 1FW12C
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1979 14TH SPARK BRABHAM BT48 N.LAUDA
ニキ・ラウダ1度目の引退 前年度は2度の優勝7度の表彰台獲得 ブラバムのラウダであったが 1979年は一転して不振に陥る 予選最高はR7モナコの4位(モデル仕様) 決勝最高はR13イタリアの4位 シーズン中盤は自身ワーストの9連続リタイア 予選でもTMのN・ピケに負ける事も多かった チームはアルファロメオエンジンから フォードに変更しBT49をR14カナダから導入 しかしこの車体に失望したラウダは フリー走行後に突如引退を表明 レースに対するモチベーションの低下と V12→V8エンジン変更に対する 迫力の不足も理由の1つであった 入賞2回で1973年以来の表彰台なし 年間順位は14位に終わる 引退後ラウダ航空の経営に従事するも 3年後の1982年マクラーレンにてF1に復帰する #F1-1979年
N.LAUDA 5 1/43 BRABHAMFW12C
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1983 10TH PMA McLAREN MP4/1C N.LAUDA
F1復帰マクラーレン2年目のN・ラウダ TMは昨年同様のJ・ワトソン 開幕戦ブラジル予選9位→決勝3位 R2アメリカ西(モデル仕様) 予選はワトソン22位ラウダ23位 決勝では上位陣の接触と 驚異の追い上げを見せて ワトソン優勝ラウダ2位の1.2フィニッシュ ラウダはファステストラップ しかし1983年の見せ場はここまで 以降はターボエンジン全盛 ノンターボのFORDエンジン では太刀打ちできず6位入賞2回のみ R5モナコでは2台そろって予選落ち 予選落ちはラウダ生涯唯一の出来事 モデルはMarlboroデカール加工しました #F1-1983年
N.LAUDA 1回 8 1/43FW12C
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1975 WORLD CHAMPION QUARTZO FERRARI 312T N.LAUDA 〖🏆5〗
1975年 WORLD CHAMPION N.ラウダ R3アフリカGPより名車 FERRARI 312T 312Tは横置きのギヤボックス 着座位置の変更などの新しい試みが 功を奏しラウダ曰く【予想可能】な車 特にマシンバランスが抜群であった R4スペインGPでPP R5モナコGPはPP→WIN モナコでのフェラーリの優勝は 1955年以来の20年ぶりの事 モナコからの5戦で4勝2位1回 でチャンピオン争いの主導権握り 最終的にはPP9回 WIN 5回 (モデルはR9フランスGP WIN仕様) R13イタリア モンツァ TMのレガッォーニが優勝 ラウダも3位に入りWタイトル獲得 1964年のジョン・サーティース以来 11年ぶりの出来事にサーキットは半狂乱 #F1-1975年 #WORLDCHAMPION #F1 #Ferrari
N.LAUDA 1975 2回 12FW12C
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1984 WORLD CHAMPION PMA McLAREN TAG TURBO MP4/2 N.LAUDA〖🏆5〗
#F1-1984年 #WORLDCHAMPION
N.LAUDA 8 1/43 MarlboroFW12C
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1985 10TH PMA McLAREN TAG TURBO MP4/2B N.LAUDA〖🏆1〗
#F1-1985年
N.LAUDA 1回 1 1/43FW12C