-
2000 10TH HOT WHEELS JORDAN MUGEN HONDA EJ10 J.TRULLI
ヤルノ・トゥルーリ ジョーダン移籍 自身初の予選フロントロー JORDAN EJ10 約2年半所属したプロストグランプリを離れ 2000年トゥルーリはジョーダンに移籍 移籍に関しては前年度同チームで引退した デーモン・ヒルの推薦も影響した チームメイトはハインツ・ハラルド・フレンツェン R2ブラジルGPでの4位入賞がシーズンベスト 予選では自身初となるフロントローを R7モナコGP R13ベルギーGPで記録も 決勝では4位1回 6位3回の入賞にとどまった 後半戦R11ドイツGPからは改良型のEJ10Bが 投入されたがマッチせずこのマシンで トゥルーリは決勝ノーポイントに終わった チームもコンストラクターランキング 前年度3位から6位となりポイント獲得も 前年比1/3以下と大きく後退した モデルはHOT WHEELS GP表記の無いRACE CAR仕様 この年ジョーダンのモデルは当初 HOT WHEELSのみのリリースであったが 後にジョーダンチームセットの ドライバーフィギュア無しで ミニチャンプスからも発売された(画像2)
240318 J.TRULLI 2000 6FW12C
-
2000 12TH PMA ARROWS SUPERTEC A21 J.VERSTAPPEN
ヨス・フェルスタッペン 1年ぶりの復帰 直線番長 ARROWS SUPERTEC A21 前年度HONDAのテストドライバーから 2000年ヨスはアロウズでF1復帰 アロウズ(フットワーク)には1996年以来 チームメイトはペドロ・デ・ラ・ロサ エンジンは自社製(ハート)から ルノーベースのスーパーテックに変更 エグバル・ハミディがデザインしたA21は ドラッグの少ないスピード重視のマシン シーズン前のTESTから速さを見せ 本戦でも決勝レース中の最高速を17戦中 チームで7回も記録(ヨス4回 デ・ラ・ロサ3回) フェルスタッペンは高速コース R8カナダで決勝5位 R14イタリアGPで4位 日本では〖直線番長〗とも呼ばれた しかし信頼性は不足でリタイアは10回 年間では5ポイントでランクは12位 モデルはミニチャンプス GP仕様表記の無いRACE CAR仕様 フランスの大手携帯キャリア Orangeがスポンサーとなり車体もオレンジ ヨスのF1キャリア終盤を象徴する1台
240303 J.VERSTAPPEN 2000 19FW12C
-
2000 8TH PMA WILLIAMS BMW FW22 J.BUTTON
最年少入賞記録更新 大型新人 ジェンソン・バトン デビュー ジェンソン・バトン イギリス出身 1999年 イギリスF3で3勝をあげランキング3位 同年にプロストグランプリのテストに参加後 ウイリアムズの翌年セカンドドライバーの トライアウトに参加 弱冠20歳でシート獲得 2000年ウイリアムズは13年ぶりに F1復帰のBMWエンジンでの組み合わせ チームメイトはラルフ・シューマッハ R2ブラジルGP 予選9位でラルフ(11位)を上回ると 決勝では5位ラルフに続く6位初入賞 この入賞時のバトンは20歳67日で 1962年 R・ロドリゲス(フェラーリ)の 20歳123日を38年ぶりに塗り替える記録 バトンのキャリア入賞は162回 R13ベルギーGP予選では この年チーム最上位となる3位 年間では4位-1回 5位-4回 6位-1回 6度の入賞でランキング8位 当時は異例の下部フォーミュラ2年経験での センセーショナルなデビューであった モデルはミニチャンプス BMW別注バージョン 通常とは異なる台紙とハイボックス仕様
240203 J.BUTTON 2000 10FW12C
-
1966 14TH SPARK (TEAM CHAMACO COLLECT)BRM P261 B.BONDURANT
F1史上 最少完走 1966年モナコGP ボンデュラント4位入賞 BRM P261 ボブ・ボンデュラント アメリカ出身 1965年北米シリーズ2戦にスポット参戦 アメリカGPはフェラーリで9位完走 1966年はプライベーター BRMのマシンで参戦 開幕戦モナコGP エントリーは16台 ボンデュラントは予選最下位 決勝はマシントラブル車が多発 12台のマシンがリタイアしたこのGPは F1史上最少の完走台数わずか4台 ボンデュラントは5周遅れながら 完走し4位入賞を果たした ボンデュラントはF1での入賞はこのGPのみ 1966年終盤2戦はイーグルで参戦 この年限りでF1からは去った その後ボンデュラントは ボンデュラント・レーシング・スクールを設立 レーシングドライバーの育成と共に ジェームズ・ガーナー ポール・ニューマン トム・クルーズ ニコラス・ケイジなどの 自動車映画の有名人を輩出した モデルはスパーク モナコGP仕様 ボンデュラント唯一の4位入賞 ヘルメット同様の黒に白のラインカラー このGPの優勝はジャッキー・スチュワート 3位グラハム・ヒルで 完走4台中3台がBRMのマシン
231207 B.BONDURANT 1966 19FW12C
-
2021 14TH SPARK SCUDERIA ALPHA TAURI AT02 Y.TSUNODA
★2023年最終戦 アブダビGP★ 角田裕毅 キャリアベスト予選6位 日本人2人目のリーダーラップ5周記録 (2004年佐藤琢磨以来 5周は日本人最長) 2016年から開始されたファンが選ぶ そのレースでの印象に残ったドライバ― ドライバ― オブ ザ デイ(DOD)も獲得 モデルは角田裕毅のデビューイヤー 2021年の最終戦アブダビGP仕様 予選8位からチームメイトの P・ガスリーを上回る4位でフィニッシュ デビューイヤーをいい形で締めくくった 2021年の年間順位は14位 32ポイント 2023年も年間順位は14位 17ポイント リーダーラップ FL DODを記録して 翌2024年も同チームから参戦
231129 Y.TSUNODA 2021 22FW12C
-
1971 17TH QUARTZO (FRANK WILLIAMS) MARCH 711 H.PESCAROLO
アンリ・ペスカロロ Fウイリアム移籍 自身F1最後の入賞 MARCH 711 1971年フランク・ウイリアムズRCの3年目は マーチより701 後711を購入して アンリ・ペスカロロの1名体制で参戦 フランスの潤滑油メーカーMOTULがスポンサー ペスカロロはR6イギリスGPで4位 R8オーストリアGPで6位入賞 これが自身最後なる通算5度目の入賞 ティートレイと呼ばれた独得の フロントウイングの形状のマーチ711は 1971年にプライベーター含め 9名のドライバ―が使用したが ポイント獲得はマーチ本隊の ロニー・ピーターソンと2人のみ R9イタリアGPではペスカロロ キャリア唯一となるFL獲得 年間4ポイントで17位 翌1972年もFウイリアムズに残留 モデルはQUARTZO R6イギリスGP仕様 予選17位→決勝4位入賞 ティートレイとリアウイングの MOTULのロゴがとても目立ち 他のマーチ勢ファイヤストーンに対し 当該マシンはグッドイヤーのタイヤ
231117 H.PESCAROLO 1971 1回FW12C
-
1999 12TH HOT WHEELS JORDAN MUGEN HONDA199 D.HILL
初の親子WC デーモン・ヒル引退 JORDAN MUGEN HONDA199 1999年ジョーダン2年目のデイモン・ヒル チームメイトはH・H・フレンツェン 予選・決勝ともフレンツェンに押されて 前半6戦での入賞はR4サンマリノの4位のみ R7フランスGP早々にシーズン限りの引退発表 その後R8地元イギリスで5位 R11ハンガリー/R12ベルギーの6位 年間では4度の入賞 7ポイント12位 最終R16日本GP鈴鹿でこの年のジョーダンの テストドライバーであった中野信二が 代役での出場も噂されたがヒルは 最終戦まで出場し最後はリタイヤに終わった 1996年に初の親子2代でのチャンピオンと なったデーモン・ヒルであったが その後アロウズ1年・ジョーダン2年の わずか3年で静かにサーキットを去った モデルはHOT WHEELS 1999年・翌2000年のジョーダンは HOT WHEELSでの販売となったが 後のジョーダンSETとして ミニチャンプスからも(画像5) ドライバ―フィギュアレスで発売された 🏁デーモン・ヒル (イギリス) 【決勝出走数】 114回 (入賞56回-表彰台42回) 【予選最高位】 PP(20回) 【決勝最高位】 優勝(22回) 【ファステストLAP】 (19回) 【WORLD CHAMPION】1996年
230904 D.HILL 1999 7FW12C
-
1962 14TH QUARTZO FERRARI DINO156 W.MARIRESSE
ウィリー・メレス 唯一のリードラップ FERRARI DINO 156 シャークノーズ ウィリー・メレス ベルギー出身 1960年にフェラーリでスポットデビュー R9イタリアGPで3位表彰台獲得 1962年フェラーリで再びスポット参戦 R3地元ベルギーGP 予選4位 途中ロータスのトレバー・テイラーと 激しいトップ争い 生涯自身唯一のリードラップも3周記録 25/32周目に両車接触 メレスのフェラーリ156は裏返って炎上 自力で出られず腕と足に火傷を負った それでもR7イタリアGPに再び出場 予選10位→決勝4位入賞 フェラーリの地元で5名の出場の ドライーバーの中では最上位であり メレスの通算最後の2度目の入賞であった モデルはR2モナコGP仕様 予選4位→決勝7位 フロントのエアインテークが左右分割 〖シャークノーズ〗という名付けられた デザイナー カルロ・キティの 歴代フェラーリの中でも人気の高いマシン
230828 W.MARIRESSE 1962 40FW12C
-
2001 12TH PMA JORDAN HONDA EJ11 H.H.FRENTZEN
★2026年 HONDA パワーユニット★ アストンマーチンで復活 現在のアストンマーチンF1を遡ると 2021~アストンマーチン 2018~レーシングポイント(R13より) 2008~フォースインディア 2007~スパイカー 2006~ミットランド 1991~ジョーダン 現在のアストンマーチンの はじまりはジョーダンチームで HONDAとのかかわりも多かった 2001年過去3シーズン無限ホンダが ジョーダンにエンジン供給を行っていたが この年はHONDAエンジンに変更 ジョーダンHONDAが誕生 (2001年はアロンソのデビューの年) ドライバ―はH・Hフレンツェンが残留 チームメイトはヤルノ・トゥルーリ フレンチェンは序盤4戦で全て完走 4位・5位・6位各1回入賞と出だしは好調も 中盤からはマッチングに苦しみ その後は入賞無しと苦戦 R12ドイツGP前に突如解雇されて J・アレジと交換の形でプロストに移籍した HONDAは翌2002年もジョーダンに供給 佐藤琢磨のデビューも後押しした だいぶと先ですが 2026年のアストンマーチンHONDAの 挑戦に期待します!! https://muuseo.com/FW12C/items/1150?theme_id=34513
230525 H.H.FRENTZEN 2.304 11FW12C
-
1964 13TH SPARK (SCUDERIA CENTRO SUD) BRM P57 T.MAGGS
最高位2位ドライバ― トニー・マッグス 自身最後の入賞 BRM P57 トニー・マッグス 南アフリカ出身 1960年ヨーロッパジュニアフォーミュラで ジョー・シフェールと同点でチャンピオン F1での南アフリカ人初入賞・初表彰台獲得者 過去に同国の表彰台獲得ドライバ―は ジョディ・シェクターと2人のみ 1962年・1963年にクーパーで 2位表彰台を各1回 記録している 最高位2位ドライバ―の1人 1964年はプライベートチームで BRMの型落ちマシンP57で5戦にエントリー この時のBRMのレギュラードライバーは グラハム・ヒル / リッチ・ギンザー マッグスはR6ドイツで予選16位→決勝6位 R7オーストリアで予選19位→決勝4位 いずれも予選下位から追い上げての入賞 オーストリアでの4位が 自身F1での最後の9回目の入賞であった 翌1965年 2年ぶりの開催の地元 南アフリカGPに参戦してF1からは引退した #F1-1964年
230417 T.MAGGS 17 1/43FW12C
-
2014 12TH HOT WHEELS FERRARI F14-T K.RAIKKONEN
5年ぶりの復帰 第2期フェラーリ キミ・ライコネン FERRARI F14-T 2014年ライコネンは5年ぶり復帰フェラーリ チームメイトはフェルナンド・アロンソ フェラーリのワールドチャンピオン同士の ドライバ―ラインナップは 1953年のA・アスカリ G・ファリーナ以来 2014年は固定カーナンバー制度を導入 ライコネンはNo7を選択 これは単なる前年度のロータス時代の No7をそのまま継続したシンプルな理由 公募でこの年のマシンをF14-Tと名付けたが レギュレーション大幅変更に対応できず低迷 19戦中リタイアは1回のみであったが 入賞は13回 最高位はR12ベルギー4位 デビューの2001年以来の表彰台無し 年間順位も前年5位➡12位と大きくダウン この後フェラーリで約5年間 112戦未勝利の長いトンネルに入ってしまう #F1-2014年 #F1
230315 K.RAIKKONEN 1回 1/43FW12C
-
1988 15TH SPARK RIAL ARC1 (JAPAN GP) A.DE.CESARIS
通称青いフェラーリ RIAL ARC1 A・チェザリス 日本GP鈴鹿仕様 1988年新規参戦チーム リアル 前半戦は予選で4戦連続12位 R6アメリカGPフェニックス 4位入賞など 新規1台エントリーチームとしては 上々の成績の序盤戦であった しかしシーズン途中にデザイナーの グフタス・ブルナーがザグスピードに移籍 それに伴い予選順位も徐々に低下 決勝も6戦連続のリタイアなど苦戦 モデルは日本GP 鈴鹿仕様 予選14位→決勝リタイア(オーバーヒート) オイルのSTP ジーンズのBOBSONが 日本GPスポットスポンサーで付いている 最終R16オーストラリアGPでは チェザリス得意の公道コース 終盤ポイント圏内5位を走行 NAエンジンのトップ争いを 6位走行T・ブーツェン(ベネトン)と 激しく争うもトラブルでストップ 最終的に5周遅れの8位完走扱いで終わった チェザリスは残留要請断り 翌1989年はスクーデリア・イタリアに移籍 リアルは一時中嶋悟の移籍先と噂されたが C・ダナーとF・バイドラーの2台体制で参戦 #F1-1988年
230302 A.DE.CESARIS 1/43 MarlboroFW12C
-
1975 18TH CP MODEL SHADOW DN7 J.P.JARIER
シャドウ 2戦限りのマトラエンジン ジャン・ピエール・ジャリエ SHADOW DN7 1975年シャドウに残留したJ・P・ジャリエ チームメイトはトム・プライス ジャリエは開幕2戦 予選連続PPを獲得 ジャリエとチームシャドウ初の快挙 しかし開幕のアルゼンチンはスタートできず R2ブラジルGPもトラブルでリタイア R4スペインGPは観客を巻き込む事故が発生 ジャリエは4位走行中に途中で打ち切り 入賞を果たすもハーフポイントの1.5ポイント シーズンでの入賞はこの1回限り R12オーストラリアGPではブラバムとヒルとの 争奪戦に勝ちマトラV12エンジンを獲得 ニューマシンのSHADOW DN7を導入 しかしもともとコスワースエンジンを搭載の DN5の車体がベースの為 マトラV12では マシンの重量バランスが狂い直線が伸びず 僅か2戦のみでマトラとの関係解消した モデルはCP MODELで2戦限りの マトラエンジン搭載のDN7をリリース SHADOW DN7はジャリエのみが決勝で走行した #F1-1975年
230218 J.P.JARIER 1975 1回FW12C
-
1992 9TH SPARK TYRRELL 020B A.DE.CESARIS
A・チェザリス TYRRELL 020B R15日本GP 鈴鹿 シーズンベスト4位 1992年ティレルはエンジンが ホンダからイルモアに変更 パワーは劣るものの軽量コンパクト設計が TYRRELL020にマッチしてチェザリスが好成績 R15日本GP鈴鹿では予選9位→決勝4位 4位は1992年のシーズンベストリザルト チェザリスは1987年~1993年まで 生涯鈴鹿には7回出走も入賞はこの1回限り チェザリスの生涯入賞回数は22回で この中では決勝リザルト4位が一番多く7回 モデルは大阪モデルガレージROMUの別注 昨年までティレルのスポンサーであった 日本信販がスポットでコックピット前と リアウイングサイドに同社のロゴが付き 元々リアウイングサイドのユーロスポーツの ロゴがインダクションポッド横に移動している 1991年より約2年半 41GP使用された TYRRELL 020シリーズの最後の入賞モデル
230205 A.DE.CESARIS 350 4FW12C
-
1978 17TH QUARTZO RENAULT RS01/2 J.P.JABOUILLE
フランス チーム ルノー ターボエンジン 初入賞 J・P・ジャブイ-ユ RS01/2 1978年 前年度より参戦ルノーは 本格参戦を果たすがル・マン24時間を 優先の為 開幕2戦は欠場 ドライバーはJ・P・ジャブイ-ユの1台体制 R3南アフリカGPで予選6位と速さをみせる ターボエンジンが改善され直線スピードが伸び R12オーストリア R14イタリアでは予選3位 しかし決勝の信頼性は上がらずに 途中7戦連続のリタイアと苦しんだ それでもR15アメリカWEST GPでは 予選9位→決勝4位入賞 記念すべきルノーとターボエンジンの初入賞 モデルはそのアメリカWEST GP仕様 J・P・ジャブイ-ユにとっても初入賞 生涯入賞回数は3回で他の2回は優勝 下位での入賞はこの1回限り ジャブイーユはフランスの同胞で F1通算6勝のジャック・ラフィーとは 義理の兄弟(互いの妻が姉妹)でもある #F1-1978年
230125 J.P.JABOUILLE 1978 15FW12C