-
1950 11TH BRUMM ALFA ROMEO 158 R.PARNEL
初代F1親子ドライバー レッグ・パーネル F1初戦で3位表彰台 ALFA ROMEO 158 レッグ・パーネル イギリス出身 1950年 F1の開幕戦となった記念すべきGPの エントリしたー21名のドライバーの1人 アルファロメオの4号車で出場 3F(ファリーナ ファジオーリ ファンジオ) に次ぐ予選は4位 アルファロメオが上位独占 決勝はファンジオのリタイアもあり パーネルは3位でフィニッシュ 決勝もアルファロメオが表彰台を独占 パーネルのアルファロメオは1戦のみ その後1954年までイギリスGP中心に F1でスポット参戦を続けたが 表彰台はこの3位が1度限り パーネルの息子 ティム・パーネルも 1962年にF1で2度の決勝進出があり 所謂F1親子ドライバーの初代がパーネル レッグ・パーネルはその後自身の名前の プライベートチームを結成し ジョン・サーティス クリス・エイモン マイク・ヘイルウッド ピアス・カレッジなどが 同チームでF1参戦している モデルはブルム 1950年のF1開幕戦 イギリスGP仕様 予選4位→決勝3位表彰台 2020年にF1開始70年を記念して 発売されたモデル 限定70台
240315 R.PARNEL 1950 70FW12C
-
2022 7TH BBURAGO McLAREN MCL36 L.NORRIS
マクラーレン4年目 ランド・ノリス 契約延長 McLAREN MCL36 2022年 デビューよりマクラーレン一筋 4年目となったランド・ノリス 開幕前にさらに2025年までの4年契約を交わす チームメイトはダニエル・リカルド スポンサーでGoogle chromeが パートナーとなり 車体とこの年復活となったホイルカバーに 同社のカラフルなマークが付けられた ノリスはR4イモラで3位表彰台獲得も この年の表彰台はこの1度限り チームメイトのリカルドには圧勝も 決勝では21戦中17度の入賞中 6~7位が10回とマクラーレンの この年のチーム力が反映された順位であった チームも最終戦まで争ったアルピーヌに敗れ コンストラクターランキング5位に転落 モデルはBBURAGO R3オーストラリアGP仕様 予選4位→決勝5位 2022年MODELよりマクラーレンも BBURAGOからリリース ブリティッシュ・アメリカンタバコの 無煙たばこブランド VELOのデカールは残念ながら付属無し
240207 L.NORRIS 2022 1回FW12C
-
1973 11TH SPARK SURTEES TS14 FORD C.PACE
カルロス・パーチェ初の表彰台& ファステストラップ SURTEES TS14 前年ウイリアムズ(マシンはマーチ)で F1デビューを果たしたブラジル出身 カルロス・パーチェ 1973年サーティスに移籍 チームメイトはマイク・ヘイルウッド R4まではへイルウッドとともに すべてリタイアに終わり中盤戦も苦戦 R11ドイツGPでようやく4位入賞は 自身初のファステスト・ラップ パーチェのキャリア通算FLは5回 続くR12オーストリアGPでは 決勝3位自身初表彰台獲得 パーチェのキャリア表彰台は6回 連続でファステスト・ラップ記録 1978年まで参戦する チーム サーティスとしては 最後の表彰台(通算2回) 最後のファステスト・ラップ(通算3回) パーチェはこの年 フェラーリから 世界メーカー選手権(スポーツカー選手権) にも参戦している モデルはスパーク R12オーストリアGP仕様 予選8位→決勝3位 チームサーティスの象徴とも言える スポーツカーノーズの白い矢印と パーチェのヘルメットの黄色い矢印が マッチしている1台
240123 C.PACE 1973 2回FW12C
-
1977 14TH PMA TYRRELL FORD P34 R.PETERSON
ティレル6輪 P34 2NDシーズン 苦戦のロニー・ピーターソン 1977年ティレル6輪 2シーズン目 マーチよりロニー・ピーターソンが移籍 パトリック・デパイユはチーム残留 P34はトップスピード向上のため エンジンまで覆うカウルを開発 FIRST NATIONAL CITYの スポンサーが付きコックピット周りは 白のアクセントのカラーに変更 移籍のピーターソンは6輪に馴染めず 開幕より4戦連続のリタイア R7ベルギーGPでシーズン唯一の表彰台3位 R15アメリカでFLを記録するものの 他の入賞は2回にとどまり年間14位 R17日本GPは予選18位 決勝は6周目にビルヌーブ(フェラーリ)と 絡みリタイアに終わる ピータソンは翌1978年はロータスに戻り これが最後のシーズンとなってしまう モデルはミニチャンプス 1977年のP34のモデルは 先にモナコGP仕様が発売され 後にGP仕様表記の無い仕様が発売された 珍しいパターンでフルカウルの再現と ドライバ―フィギュアが改良されている
231229 R.PETERSON 1977 1回FW12C
-
1975 10TH SPARK SHADOW DN5 T.PRYCE
トム・プライス 初の表彰台3位 自身唯一のPP獲得 SHADOW DN5 1975年トム・プライスは前年後半に トークンから移籍したシャドウで レギュラーシートを獲得 チームメイトはジャン・ピエール・ジャリエ R3南アフリカより新車DN5が プライスにも与えられて R5モナコGP予選でフロントロー獲得 2度の6位入賞の後 R10イギリスGP予選 自身キャリア唯一となる ポール・ポジション獲得→決勝はリタイア R12オールトリアGPでは 予選15位から初の3位表彰台獲得 年間では5度の入賞 ランキングは10位 翌1976年はロータス移籍の噂もあったなか エースとしてシャドウに残留 モデルはスパーク オランダGP仕様 3位と表記されているが 当該GPは予選12→決勝は6位 ●GPの表記ミス オランダ➡オーストリア ●順位の表記ミス 3位➡6位 のどちらかと思われます
231226 T.PRYCE 15 1/43FW12C
-
1974 11TH IXO McLAREN FORD M23 M.HAILWOOD
マイク・ヘイルウッド F1ラスト YARDLEY McLAREN FORD M23 1974年マクラーレンは新たなスポンサーで タバコの多国籍企業フィリップモリスの マールボロとアメリカ石油のテキサコを獲得 しかしながら前年までの化粧品会社 ヤードレーとの契約も残っており 所謂Bチームとしてプラス1台体制を取り そのチームにマイク・ヘイルウッドを起用 ヘイルウッドは開幕から3戦連続入賞 R3南アフリカGPは自身2度目の表彰台3位 R4以降の入賞はR8オランダの4位のみ R11ドイツGP終盤5位走行中に マシントラブルによりバリアに衝突 長時間閉じ込められて両脚を骨折 そのままF1からは引退となった その後2輪ドライバ―としては復帰し マン島TTレースと2年連続制覇 1981年に交通事故により愛娘とともに 残念ながらこの世を去った 享年40歳 モデルはデアゴスティーニ(IXO) F1マシンコレクションシリーズは その年の主役以外のモデルも リリースしていたのが魅力のひとつ ヘイルウッドの最後の雄姿の YARDLEY McLAREN M23もその1台 🏁マイク・ヘイルウッド (イギリス) 【決勝出走数】50回(入賞10回-表彰台2回) 【予選最高位】 4位(2回) 1972年 SURTEES R2 南アフリカ 1974年 McLAREN R8 オランダ 【決勝最高位】 2位 1972年 SURTEES R10イタリア 【ファステストLAP】1回 1972年 SURTEES R2 南アフリカ
231027 M.HAILWOOD F1マシンコレクション 1974FW12C
-
1972 10TH SPARK MATRA MS120D C.AMON
クリス・エイモン 最後のPP FL 表彰台 チームマトラの最後 MATRA MS120D 1972年マトラに残留のエイモン マトラはエイモン1台体制でエントリー R5ベルギーGP自身2度目のFL記録 R6フランスGPマトラの最終形MS120Dを投入 予選はエイモン自身5度目のPP獲得 決勝は19周目までトップ快走も最終3位表彰台 2連続での決勝FLも記録 このフランスGPの通算5度目PP 11度目の表彰台 3回目のFL がエイモン自身最後の記録 チーム マトラはル・マンに集中する為 この年限りでF1から撤退 エイモンもシートを失い翌1973年は 小規模チームテクノで参戦 モデルはスパークの初期のF1リリース シルバーのスリーブで台紙には Sparkの旧青文字がロゴ印字されている
230820 C.AMON 1972 2回FW12C
-
1980 10TH SPARK FITTIPALDI F8 K.ROSBERG
ケケ・ロズベルグ 初入賞は表彰台 名称変更チーム フィティバルディ F8 1980年前年までコパーシュカーが スポンサーを離れフィティバルディに チーム名が変更して2台体制での参戦 エマーソンのチームメイトは ウルフから移籍のケケ・ロズベルグ 開幕戦のアルゼンチンGPで 予選12位→決勝3位表彰台 自身初の入賞&表彰台 ケケの生涯表彰台17回 入賞38回 3度の予選落ちなど粗い部分もあったが 予選でエマーソンに10勝4敗と速さ見せる R12イタリアで5位入賞もあり年間6ポイント 6ポイントで5名のドライバーが並んだが その中で唯一表彰台獲得のケケが最上位の 年間10位ははエマーソンを上回った エマーソンは引退 翌1981年ケケ・ロズベルグは チームフィティバルディにエースで残留
230708 K.ROSBERG 21位 1/43FW12C
-
1993 7TH SPARK LIGIER JS39 M.BRUNDLE
2度目のブランドル・ブランデル イギリス人コンビ LIGIER JS39 1993年はリジェはドライバ―を一新 当初は前年度にブラバムで参戦 ウイリアムズのテストドライバーも 務めたデイモン・ヒルにオファーも固辞 その後も実力者イギリス人ドライバ―で ベネトン離脱のマーティン・ブランドルと マクラーレンのテストドライバーであった マーク・ブランデルを起用 実況泣かせの2度目のM・Bコンビ結成 1976年から参戦のリジェ史上初めて フランス人ドライバ―無しとなった 当時最強のルノーエンジン2年目 マシンともマッチして飛躍 ブランドルはR4サンマリノGPで 予選10位→決勝3位表彰台を獲得 ここから13戦で半分以上の7度の入賞 チームも最終戦まで4位フェラーリと争い 敗れたものの4強に次ぐ5位に躍進 ブランドルは終盤2戦を 日本でのGITANEタバコ発売記念の 特別artカラーで出場し話題となった https://muuseo.com/FW12C/items/124?theme_id=31948
230626 M.BRUNDLE 25 1/43FW12C
-
1975 9TH PMA TYRRELL 007 P.DEPAILLER
パトリック・デパイエ ティレル2年目 前半好調も後半失速 TYRRELL 007 1975年デパイエはティレルフル参戦2年目 チームメイトは前年同様J・シェクター マシンは前年後半投入のティレル007 開幕戦アルゼンチンGP 5位 R3南アフリカGP 3位表彰台 R5モナコGP FLで5位など 前半6戦で4回入賞など好調なスタート 後半の入賞はR9フランスの6位のみで 全14戦中11戦完走と完走率は高かったが 入賞に一歩届かないレースが多く 年間順位は前年同様9位 翌1976年もティレルに残留 ティレル6輪車P34のメインテストを務めた こちらのモデルはあるサイトで 注文した所間違って1974年のモデルが届き 返金か交換を希望したが 在庫が無かったにも関わらず取り寄せ →更に誤納品までいただきました ネット注文だと店頭と併売の為 注文商品の在庫が無いこともしばしで 残念な対応でがっかりすることもある中 とても誠実に対応して頂き感謝を思い出す1台
230623 P.DEPAILLER 1975 1回FW12C
-
1987 13TH SPARK BRABHAM BT56 R.PATRESE
3年ぶりの表彰台 リカルド・パトレーゼ 最後のBMWターボエンジン BRABHAM BT56 1987年ブラバムは約17年間担当した ゴードン・マレーがマクラーレンに移籍 コンベンショナルなマシンBT56を投入 前年苦戦したものと同じBMWエンジンと ギアボックス使用により 予選では4~5列目をキープするも 決勝の信頼性が不足でリタイア続出 残留したリカルド・パトレーゼも 前半戦はノーポイントに終わる 後半R9ハンガリーでようやく5位 R14メキシコで予選8位から 自身3年ぶり(48戦)の3位表彰台を獲得も 入賞は2レースのみで年間順位は 新人中嶋悟(ロータス)の下の13位 パトレーゼは最終戦オーストラリアGPでは 翌年移籍の決まっていたウイリアムズの N・マンセルが負傷欠場の為 前倒しでウイリアムズに移籍 空いたブラバムのシートで ステファノ・モデナがデビューした https://muuseo.com/FW12C/items/189?theme_id=30175
230622 R.PATRESE 7 1/43FW12C
-
1998 11TH PMA SAUBER C17 PETRONAS "TOWER WING" J.ALEJI
R3 アルゼンチンGP 予選11位から決勝に挑んだアレジは スタートで7位まで順位を上げて その後ポイント圏内を走行 27周目にピットインをした際に 右側のタワーウイングを インパクトレンチのホースにひっかけ 片側だけが折れるという事態に これにより11位まで順位を落としたが 左のタワーウイングのみで走行継続し その後は着実に順位を上げて 最終的には5位でフィニッシュ サウバー移籍初ポイントを上げた この件がきっかけとなり R5スペインGPよりタワーウイングが 安全上の理由により禁止とされたが 美観を損ねるという理由が 支持されたとみられている #F1-1998年
230416 J.ALESI "TOWER WING″ 2.222FW12C
-
1971 14TH SPARK BRABHAM BT33 T.SCHENKEN
オーストラリア人 2人目の表彰台 ティム・シェンケン BRABHAM BT33 ティム・シェンケン オーストラリア出身 1968年 イギリスF3 チャンピオン 1970年 デトマソでF1デビュー 1971年 ブラバムで本格参戦 チームメイトはグラハム・ヒル ブラバムはジャック・ブラバムが 前年の1970年で引退&チーム売却 新体制での運営もあり不振 車体BT33も開発が進まなかった シェンケンはR7ドイツで初入賞6位 R8オーストリアでは自身唯一の3位表彰台 オーストラリア人ではJ・ブラバムに 続く2人目の入賞&表彰台獲得者 オーストラリア人入賞ドライバ―は A・ジョーンズ M・ウエバー D・リカルドの 現在までに歴代合計5人 後半戦は予選でもグラハム・ヒルに勝ち 年間順位も14位 ヒルは21位 翌1972年はサーティスに移籍
230329 T.SCHENKEN 8 1/43FW12C
-
1998 7TH PMA WILLIAMS MECACHROME FW20 H.H.FRENTZEN
ウイリアムズ黄金期の終焉 WILLIAMS FW20H・H・フレンツェン 1998年フレンツェンはウイリアムズ2年目 デザイナーのA・ニューウェイの離脱と 最強を誇ったルノーエンジンの撤退で 前年チャンピオンチームは一転不振に陥る フレンツェンは開幕戦で3位表彰台 これはマクラーレン1・2フィニッシュに 周回遅れにされてのかろうじての3位 この年の表彰台はこのGP 1戦のみ マシンの開発が進まなかった事もあるが ウイリアムズのドライバ―に対して 高圧的な態度もフレンツェンには合わず それが成績低迷した原因である所も大きい 16戦中入賞7回 17ポイントで年間7位 この年限りでウイリアムズを離脱 翌1999年はジョーダン無限に移籍 タバコスポンサーがロスマンズから 当時の子会社のオーストラリアの ウインフィールドに代わりカラーリングも変更 タバコ禁止GPではカンガルーのロゴに変わった #F1-1998年
230318 H.H.FRENTZEN 2 1/43FW12C
-
1970 15TH QUARTZO (STP CORPORATION) MARCH 701 M.ANDRETTI
マリオ・アンドレッティ 初の3位表彰台 MARCH 701 1970年マリオ・アンドレッティは 新規参入のMARCH 701の車体で STPの支援を受けて5戦のみの参戦 モデル仕様のR2スペインGPで 予選16位からの追い上げで3位表彰台 マリオにとって初入賞(生涯入賞38回)を 初の表彰台(生涯表彰台19回)で決めた 他の4レースは全てリタイアに終わり 年間順位は15位 4ポイント この年8名ものドライバ―が MARCH701の車体で参戦しており マーチのワークスだけでなく ティレル等のチームも使用 そのドライバーは C.エイモン/J.シフェール/J.シュチュワート R.ピーターソン/F.セーベルなど錚々たる面々 マリオは翌1971年はフェラーリに移籍 自身の初優勝を飾ります #F1-1970年
230228 M.ANDRETTI 18 1/43FW12C