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2012 (20TH) SPARK MARUSSIA MR02 T.GLOCK
the story will be at a later date.
240305 T.GLOCK 2012 24FW12C
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1982 (33RD) SPARK LOTUS 91 G.LEES
日本助っ人ドライバーパイオニア ジェフ・リース F1ラストLOTUS 91 ジェフ・リースは1980年数チームでF1に エントリーしたものの8戦中決勝は2回のみ 1981年はヨーロッパF2にステップダウンも 3勝をあげてシリーズチャンピオン 1982年はR8カナダGPにエンサインより スポット参戦予選25位→決勝リタイア 同年R11フランスGP 欠場したナイジェル・マンセルの代役で ロータスより出場 予選24位→決勝12位完走 これがF1でのラストレースとなった その後日本に渡り 1983年全日本F2 チーム イクサワで 8戦中4勝をあげてシリーズチャンピオン 1978~1986年開催した同シリーズで 唯一の外国人のチャンピオン 日本のモータースポーツにおける 外国人助っ人のパイオニア的存在で 1987年はF1 HONDAエンジンの テストドライバーも務めた モデルはスパーク R11フランスGP仕様 予選24位→決勝12位 タバコブランドJPSデカール加工 リースの1戦限りのロータス91 🏁ジェフ・リース (イギリス) 【決勝出走数】 5回(入賞0回 予選落7回) 【予選最高位】 16位 1979年 TYRRELL R10ドイツ 【決勝最高位】 7位 1979年 TYRRELL R10ドイツ https://muuseo.com/FW12C/items/697
240210 G.LEES 1982 12FW12C
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2022 (22TH) SPARK ASTON MARTIN AMR22 N.HULKENBERG
困った時のニコ・ヒュルケンベルグ 代役出場 ASTON MARTIN AMR22 2022年前年に続きアストンマーティンで リサーブドライバーのヒュルケンベルグ レギュラードライバ―の セバスチャン・ベッテルが新型コロナ感染 した為急遽 開幕戦とR2に出場 2020年のレーシングポイント時代に セルジオ・ペレス/ランス・ストロールの 体調不良で代役出場以来のF1レース 開幕戦バーレーンGP決勝17位 R2サウジアラビアGP決勝12位で ポイント獲得ならず これにより実力者ながらF1参戦より 表彰台無し記録が181戦まで伸びた 翌2023年は通算のべ9チーム目となる ハースでレギュラードライバ―復帰する モデルはスパーク 開幕戦バーレーンGP仕様 予選17位→決勝17位 予選ではチームメイト ランス・ストロース(19位)を凌いだが 決勝ではストロールが上回り12位 #2022年
231228 N.HULKENBERG 2022 27FW12C
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2011 (20TH) SPARK SAUBER C30 FERRARI P.DE.LA.ROSA
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230328 P.DE.LA.ROSA 17 1/43FW12C
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1975 (35TH) PMA (LEXINGTON RACING) TYRRELL 007 I.SCHECKTER
同一マシンによる兄弟同時出走 シェクター兄 イアン TYRRELL 007 イアン・シェクター 南アフリカ出身 弟は1979年ワールド チャンピオン ジョディー・シェクター 1974年スポット参戦デビュー 1975年もプライベター LEXINGTON RACINGでティレル007の マシンでR3地元南アフリカGPに出場 弟ジョディーもこのGPにティレル本体で ティレル007のマシンで出走 史上唯一の同一マシンによる兄弟のエントリー 弟ジョディーはこのGPに見事優勝 兄イアンは残念ながら55周でリタイア イアンはR7スウェーデンR8イタリアGPを ウイリアムズで参戦 最高位は決勝12位 #F1-1975年
230321 I.SCHECKTER 1975 1.008FW12C
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1998 (25TH) PMA STEWART FORD SF-2 J.VERSTAPPEN
1998シーズン唯一のドライバ―入替 ヨス・フェルスタッペン STEWART SF-2 1998年シーズンは途中の ドライバ―入替があったのは スチュワートグランプリのみ ヤン・マグヌッセンがR6カナダで 初ポイントを獲得直後に契約解除 ヨス・フェルスタッペンに交代した 直前のテストでフェルスタッペンが 好タイムを出した事とFORDを含めた スポンサーからの意向が強かった為 フェルスタッペンは元々ティレルでの 参戦が有力であったがオーナー変更で リカルド・ロセットにシートを奪われた しかしSTEWART SF-2は戦闘力が無く 予選・決勝とも最高位は12位 完走も9戦中僅か3回でチームメイトの R・バリチェロと共に低迷した ヨス・フェルスタッペンは翌1999年は ポスルズウェイト率いるHONDAの プロジェクトのテストドライバー この入替のあった2人のドライバ―子息 マックス・フェルスタッペンと ケビン・マグヌッセンが2023年シーズに RED BULLとHASS所属で活躍しているとは この当時は全く想像できなかった #F1-1998年
230313 J.VERSTAPPEN 19 1/43FW12C
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1980 (26TH) SPARK ENSING N180 J.LAMMERS
ヤン・ラマース F1 2年目 ATS→エンサイン移籍 ENSING N180 ヤン・ラマース(オランダ)は生涯F1で 41戦の予選参加も通過は23回 予選不通過回数18回は歴代ワースト6位 同じ予選不通過18回には M・アルボレート(イタリア)もいるが こちらの不通過率が8.5%に対して ラマースの不通過率は43.9% 1980年も前半ATSで6戦中3回 後半エンサインで8戦中5回の予選落ち モデルはR8イギリスGP仕様であるが このGPも予選落ちをしている R13カナダGPの決勝12位が最高位 チームエンサインとしても 2年連続ノーポイントで終わる ラマースは1981年ATS 1982年セオドール そしてその10年後の1992年にマーチで スポット参戦をするがF1で入賞は無かった #F1-1980年
230220 J.LAMMERS 14 1/43FW12C
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1978 (33RD) PMA WOLF FORD WR1 B.RAHAL
アメリカCART 3度チャンピオン ボビー・レイホール 2戦限りのF1参戦 1986年インディー500 優勝 アメリカCART 3度チャンピオン ボビー・レイホール 栄光を掴む前の1978年はF1に2戦限り参戦 チームはWOLFのセカンドカー R15アメリカGP 予選20位→決勝12位 R16カナダGP 予選20位→決勝リタイア モデルはカナダGP仕様 旧型マシンのWR1 ドライバ―としてはF1では2戦限り参戦 2001年はF1ジャガーのチーム代表を務めたが 思うような成績は残せずF1界から去った
230102 B.RAHAL 21 1/43FW12C
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1985 (31ST) IXO TOLEMAN TG185 T.FABI
トールマン チーム史上唯一のPP TOLEMAN TG185 テオ・ファビ トールマンチームはタイヤの供給問題で 1984年途中にピレリ→ミシュランに変更 1985年はミシュランが撤退 ピレリに戻れず グッドイヤーも供給拒否でタイヤが無い状態 開幕3戦を欠場する事態となった 嫌気をさしたオーナー テッド・トールマンは チームの撤退を示唆 ここに現れた救世主が イタリアのファッションブランド ベネトン トールマンだけでなく撤退予定のスピリットも 買収しスピリット分のピレリタイヤで参戦 ロリー・バーン作のTG185はテストでも 好タイムを出しており特に高速サーキットは トップクラスのスピードを持っていた R9ドイツGPでは前年度所属のA・セナでも達成 していないトールマン史上唯一の ポール・ポジションをT.ファビが獲得 2位のS・ヨハンソン(フェラーリ)に +1.187秒の差をつける大差のPP 決勝はクラッチのトラブルでリタイア その後も予選ではシングルグリット獲得も 信頼性不足で決勝はR12イタリアの12位が最高 ベネトンは個性的な広告キャンペーンの一環で マシンに国旗をあしらった何とも印象深い デザインを施し注目を浴びた 翌1986年からはチームベネトンとして参戦 個性的なデザインは継続され トップチームへと昇り詰める 足がかりとなった1台かもしれません #F1-1985年 #F1マシンコレクション
T.FABI F1マシンコレクション 19 141FW12C
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1976 (37TH) SPARK (RAM) BRABHAM BT44B L.KESSEL
ロリス・ケッセル スイス出身 自身唯一の完走 チームRAM初参戦 1983~1985年までコンストラクターとしても 参戦したイギリスのチームRAMは 1976年ブラバムのマシンBT44Bを購入し R4スペインGPより参戦 ドライバーはL・ケッセル R4スペインGPは予選落ち R5ベルギーGP予選23位→決勝12位 この成績はどちらもケッセルのキャリアベスト 5戦出走して2度の予選落ち 完走は1回 このマシンはスイスの時計ブランド TISSOTがはじめてF1でスポンサーに付き 同郷のクレイ・レガッツォーニとも 親しかったケッセルをサポート TISSOTはこの後70年代~90年代にかけて エンサイン ルノー リジェ ロータス ザウバー 様々なチームのスポンサーとなり個人的にも 印象的なスポンサーロゴの1つであった マニアックマシンをリリースする RACE LANDの別注モデル 限定300台 #1976 #F1-1976年
L.KESSEL 1976 300 32FW12C
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1995 (31ST) PMA SIMTEK FORD S951 J.VERSTAPPEN
ヨス・フェルスタッペン2年目 シムテックは5戦のみで撤退 フェルスタッペンは前年度の ベネトンの契約が残っており オートマチック用のギアBOX関連と 共に貸し出される形でシムテックの エースのシートを獲得 シムテックは資金難で新車S951は 開幕戦のブラジルGPでシェイクダウン それでもフェルスタッペンは予選で 中盤(ベストはR2アルゼンチン14位) など奮闘し決勝では一時6位を走行 開発資金はおろか運営資金もままならぬ チームはR5モナコで撤退 負債額は約600万ドル チームのあらゆるものが競売にかけられたが 僅か25万ドルにしかならなかった フェルスタッペンは個人スポンサー フィリップ・カー・ステレオの援助を得て 翌1996年はアロウズより参戦 フロントウイングとノーズのスポンサー BARBARAはモナコに拠点を置く スポーツなどのマネージメント会社 元々はローランド・ラッツェンバーガーの スポンサーであったがローランド亡き後も チームのサポートを継続 その一環として当時ヨーロッパで人気上昇の ロックバンドSELF CONTOROLをBARBARA社が 世界プロモ―ション活動として フロントウイングに 彼らのバンドのロゴが貼られています #F-1995年 #F1 #1995年
J.VERSTAPPEN 12 1/43 SIMTEKFW12C
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1975 (34TH) PMA TYRRELL 007 J.P.JABOUILLE
ジャン=ピエール・ジャブイユ フランス出身 F1デビューマシン ティレル007 1974年ウイリアムズ / サーティスで スポット参戦もそれぞれ予選落ち 1975年地元フランスGP ティレルの3RDカーとして出場 予選21位通過→決勝は12位完走 1戦のみのスポット参戦 ティレル007は1974~1976年途中年まで使用 後継車は6輪車のティレルP34 のちに他チームにも販売されて 1976年はヒーローズレーシングで星野一義 1977年はメイリツレーシングで高橋国光 それぞれ日本GPで出走している #F1-1975年
J.P.JABOUILLE 1975 864 15FW12C
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1979 (30TH) SPARK ALFA ROMEO 179 V.BRAMBILLA
頭部骨折の重傷から1年ぶりの復帰の ヴィットリオ・ブランビラ 1979年アルファロメオで出場 (チーム名はアウトデルタ) R13イタリアは暫定モデルの177 予選22位→決勝12位 R14カナダでニューマシン179で参戦 179はモノコックの後端の上部が 斜めに削られ形状でそこに エンジンのオイルタンクを装備する ユニークな設計が特徴で 1982年の開幕戦まで改良版が使用された ブランビラはモデルのR14カナダGPは 1台のみのエントリーで予選18位→決勝R 最終戦のR15アメリカ東は予選落ちしている
V.BRAMBILLA 36 1/43 ALFA ROMEOFW12C
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1985 (30TH) SPARK RAM 03 S4T M.WINKELHOCK
2022年現在までに親子揃って F1ドライバ―になったのは15組31名 親子でワールドチャンピオンは ヒルそしてロズベルグ 複数人はブラバム 日本人は中嶋 近年はフェルスタッペンが有名 2021年はミック・シューマッハが参戦 マンフレッド・ヴィンケルホック ドイツ出身 主にF1ではATSに所属 1985年はATSが撤退もありRAMで参戦 R7フランスGPの決勝12位が最高位 並行して参戦の世界耐久選手権(WEC) にてレース中に事故死 享年33歳 マンフレッドの弟のヨアヒムも 1989年AGSで参戦 こちらは 7戦全戦予備予選落ちで決勝進出ならず 1985年5歳であったマンフレッドの息子 マルクス・ヴィンケルホックは 2007年のスパイカーチームで1戦限り R10ヨーロッパGPでF1に参戦している #F1-1985年 #F1親子鷹 https://muuseo.com/FW12C/items/679
M.WINKELHOCK 9 1/43 RAMFW12C
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1990 (30TH) TAMEO ONYX ORE-2 J.J. LEHTO
フィンランド出身のJ.J.レートは愛称で 本名はユルキ・ユハニ・ヤルヴィレヘト 何とも言いにくい為 ケケ・ロズベルグの指示で J.J.レートで登録して参戦 1989年終盤4戦をONYXで出場 1990年はレギュラードライバ―として参戦 チーム内はゴタゴタで2戦目で S・ヨハンソンが離脱 出資金を持つ G・フォイテクが加入 R9ドイツGPからはチーム名も モンテベルディに変更 R10ハンガリーで2台予選落後 チームに見切りをつけ両ドライバー離脱 チームもそのまま消滅しました 前年度のS・ヨハンソンの 参戦初年度表彰台も虚しく 1年半で消えてたONYX カラーリングはとても好きでした
J.J. LEHTO 36 1/43 ONYXFW12C