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1977 16TH SPARK SHADOW DN5B R.ZORZI
チームメイトの悲劇 R.ゾルツィ SHADOW DN5B レンツォ・ゾルジ イタリア出身 1975年 ヨーロッパF3 3位(1勝) 同年・翌1976年にウイリアムズで 各1戦 資金持ち込みでF1出場 1976年 後のアロウズチーム設立の1人 フランコ・アンブロオの支援を受けて シャドウのシート獲得 チームメイトはトム・プライス R2ブラジルGP 予選18位 決勝は完走7台のサバイバルの中 生き残りキャリア唯一となる6位入賞 悲劇はR3南アフリカGP ゾルジはエンジンが壊れコース脇に マシンを止めたが小規模な火災が発生 その火災の消火を試みたマーシャルが コースを横切りゾルジのマシンに向かう際 レース中のチームメイトのトム・プライスの マシンにはねられ死亡 プライスもマーシャルの消火器が直撃し 帰らぬ人となってしまった ゾルジはR5スペインGPまでの出場で 資金が尽きてシートを失い これがF1での最後のレースとなった モデルはスパーク ゾルジのキャリア唯一入賞の R2ブラジルGP 予選18位→決勝6位 旧型のDN5Bの漆黒マシンで 資金援助のあったアンブロオの 名前がマシンに貼られている
240224 R.ZORZI 1977 17FW12C
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1969 16TH SPARK (SILVIO MOSER RACING) BRABHAM BT24 S.MOSER
シルビオ・モーサー 自チーム立ち上げ キャリア2度目の入賞 BRABHAM BT24 シルビオ・モーサー スイス出身 1968年プライベートチームにて R5オランダGPで5位入賞 1969年は自チームを立ち上げ Silvio Moser Racingとして ブラバムの車体を購入して参戦 プライベートチームで競争力は低く 型落ちマシンで予選では常に下位争い R10アメリカGP予選18台中17位 決勝は完走6台のサバイバルを生き残り レース108周の10周遅れながら6位入賞 自チームをポイント獲得の歴史に名を刻んだ 翌1970年はグリエルモ・ベラシが製作した ベラシにマシンを変更して参戦したが 決勝は進出は1回のみ この年限りながらベラシという コンストラクタ―も記録上存在する シルビオ・モーサーは 1973年スポーツカーレース中に 残念ながら他界 享年33歳 モデルはスパーク R10 アメリカGP仕様 予選17位→決勝6位 プライベートカラーのオレンジの車体に リアウイングのイエローが際立つ1台
231227 S.MOSER 19 1/43FW12C
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1973 16TH SPARK BRABHAM BT42 W.FITTIPALD
追悼 ウィルソン・フィッティパルディ エマーソンの兄 ウイルソン・フィッテパルディ ポイント獲得 BRABHAM BT42 ウイルソン・フィッテパルディ ワールドチャンピオン エマーソンの兄 1990年台にミナルディなどに所属した クリスチャン・フィッテパルディの父 1972年にブラバムでデビュー 1973年はブラバムでフル参戦 チームメイトは南米コンビの カルロス・ロイテマン 開幕戦アルゼンチンGP 旧型のBT37で予選12位谷→決勝6位 南米の地で自身のF1初入賞 R4スペインGPよりニューマシンBT42投入 R11ドイツGP キャリアベスト5位入賞 ウイルソンのF1入賞はこの年のみ 翌1974年を準備期間として1975年に自身の チームフィッテパルディ(コパシュカー)を 立ち上げて自らドライバ―として参戦 モデルはスパーク R6モナコGP仕様 キャリアベストの予選9位 決勝は11位 BT42はゴートン・マレーのF1初設計 ショートホイールベース 三角形断面のモノコック フロントには2分割式ラジエターを登載した 特徴的なマシンにウイルソン持ち込みの ブラジルカラーのスポンサーが施されている
231113 W.FITTIPALD 1973 11FW12C
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1999 16TH PMA PROST PEUGEOT AP02 O.PANIS
オリビエ・パニス F1 6年目 フレンチチームと決別 PROST AP02 前年度ノーポイントに終わったパニス 1999年もヤルノ・トゥルーリと共に プロスト グランプリに残留 R2ブラジルGPで予選13位から 2年ぶりとなる6位入賞を果たすと R7地元フランスGPでは予選3位と健闘 途中完走率の高いパニスは7戦連続の完走と 粘りの走りを見せたものの R10ドイツGPの2度目の6位と 入賞は僅かに2回に終わり シーズンで2ポイント 16位に終わった 1994年リジェ~プロストと6年過ごした フランスチームから離脱 翌2000年はウイリアムズからのオファーが 単年であったこともあって断り マクラーレンのテストドライバーとして契約 この時のテストドライバーしての働きが 再びパニスの評価を上げて 2001年はBARでF1に復帰する モデルはミニチャンプス タバコ ゴロワーズはバーコード仕様 何故か台紙の車体表記が PROST GRAND PRIX 1999 となっている
231023 O.PANIS 1999 18FW12C
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1963 16TH SPARK LOTUS 25 T.TAYLOR
最高位2位のドライバ―の1人 トレバー・テイラー LOTUS 25 トレバー・テイラーイギリス出身 1961年~1964年にかけて主にロータスで参戦 1962年開幕戦オランダGPで2位表彰台 F1最高位2位のドライバ―の一人 1963年もロータスに所属 ロータス25車体 クライマックスエンジン 開幕戦モナコGPで6位入賞 この年のワールドチャンピオン ジム・クラークは開幕戦のみ未入賞 ロータスの車体では7名のドライバ―が エントリーも入賞はテイラーのみ この年のテイラーの入賞は1回のみ 翌1964年はBRPに移籍 1965年は1戦限りでシャノンで走行している モデルはR5イギリスGP仕様 予選10位→決勝は失格 レースはチームメイトのクラークが優勝 クラークのマシンには特徴的な 黄色のストライプがこのGPより入るが テイラーはグリーンの単一色のまま SPARKの初期にリリースされたモデル
230823 T.TAYLOR 1963 5FW12C
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1980 16TH SPARK McLaren M29 A.PROST
4 TIMES WORLD CHAMPION アラン・プロスト デビュー McLaren M29 1979年ヨーロッパF3 13戦9勝 圧倒的勝利でチャンピオン獲得 マルボロの支援もあり マクラーレンのテストを受けて 同時に参加したケビン・コーガンのみならず レギュラードライバーのジョン・ワトソンより 速いタイムを出し1980年のシートを獲得する 1980年開幕戦アルゼンチンGP 予選でワトソンを上回り12位を獲得 決勝はデビュー戦にて6位入賞 プロストの生涯入賞回数は128回 その中で表彰台が106回 4位以下の入賞は22回と少ない 続くR2ブラジルでも決勝5位入賞も R3南アフリカの予選でマシントラブル起因の クラッシュで手首を負傷しR4も欠場 年間では4度の入賞5ポイント年間15位 ワトソン6ポイント 年間11位わずかに及ばず 翌1981年はマクラーレンとの複数年契約が あったが地元ルノーからのオファーを受け移籍
230612 A.PROST 1980 8FW12C
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2022 16TH PMA HAAS VF-22 Mick.SCHUMACHER
シューマッハ 2世 ミック F1初入賞もシート喪失 HAAS VF-22 7度のワールドチャンピオン 父ミハエルの息子ミック・シューマッハ レースキャリアスタート時は素性を隠し 母の旧姓 ミック・ベッチュを名乗る 2019年フェラーリの育成プログラム フェラーリ・ドライバ―・アカデミー所属 2020年F2 チャンピオン 2021年ハースよりF1デビューは父と同じ22歳 F1史上15組目の親子ドライバ― 2022年ハース2年目はスポンサーの関係で チームメイトはケビン・マグヌッセンとなり 2世ドライバ―コンビとなった R9カナダGP 自己最高予選6位 R10イギリスGP 初入賞8位 R11オーストリアGP 決勝自己最高6位 しかし自己のミスによるクラッシュもあり この年でハースのシートを喪失 2023年は父ミハエルが最後に所属した メルセデスのリザーブドライバ―となり フェラーリ(FDA)からも所属を離れた モデルはドイツのCK-MODELCARS別注 開幕戦のバーレーンGP仕様 (予選12位→決勝11位) #F1-2022年
230513 Mick.SCHUMACHER 2022 555FW12C
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1998 16TH PMA PROST PEUGEOT AP01 J.TRULLI
ヤルノ・トゥルーリ チーム最下位脱失 貴重な1ポイント PROST PEUGEOT AP01 1998年ヤルノ・トゥルーリは 前年度途中加入のプロストから レギュラードライバ―でフル参戦 チームメイトはオリビエ・パニス 無限→プジョーエンジンにスイッチするも 苦戦を強いられたチーム・プロスト 前半終了時点で両ドライバ―とも 決勝最高9位でコンストラクター最下位 R13ベルギーGP トゥルーリ予選13位 決勝は雨の混戦で上位陣がリタイヤの中 何とか生き残り6位入賞 貴重1ポイントはノーポイントの ティレル ミナルディを抜いて コンストラクター9位に浮上 トゥルーリ自身もこの1ポイントが 後にデビューから13年連続入賞を継続する 1998年唯一のポイントでもあった 翌1999年もプロストに残留し 自身初の表彰台を手に入れる
230430 J.TRULLI 12 1/43FW12C
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1998 16TH PMA PROST PEUGEOT AP01 "TOWER WING″ J.TRULLI
1998年開幕戦から不振であった チームプロストはこの年トレンドになりつつ あったタワーウイングを導入するも 大きな効果は得る事ができなかった 前チームリジェ時代の1996年より フランスのタバコのスポンサーが ジタン→ゴロワーズに変更 ゴロワーズタバコはアルタディス社が 1910年から発売するブランドで フランスではジタンと並び 最もポピュラーなブランド 日本でも購入することができ アニメなので非公式ではあるものの 名探偵コナンに登場する ジンや ルパン3世のルパンが ゴロワーズタバコ(類似のタバコ) を吸っている映像が存在する また かまやつひろし氏は1975年に 〖ゴロワーズを吸ったことがあるかい〗 という楽曲を発表しており 自身もゴロワーズを喫煙していた
230430 J.TRULLI "TOWER WING″ 2.222FW12C
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1975 16TH QUARTZO LOTUS 72E J.ICKX
イクス最後の2位はハーフポイント チーム途中離脱 LOTUS 72E 1975年 ジャッキー・イクスはロータス2年目 チームメイトはロニー・ピーターソン 基本設計が1970年であるロータス72Eでは 両ドライバ―とも如何ともできずに苦戦 イクスの唯一の入賞はR4スペインGP R・シュトルメ(チーム ヒル)が混乱の中 トップ走行中にリヤウイングが脱落 ガードレールに激突して観客席に落下 観客を巻き込む痛ましい大事故となり 全75周中29周でレースが終了 レースの消化が75%未満の為 史上初のハーフポイントとなったレースで 事故でのハーフポイントは現在まで唯一のGP (他のハーフポイントは雨によるもの) 結果これがF1生涯最後の2位表彰台 イクスの通算表彰台は25回 イクスはロータスのR10地元イギリスGP前に チームを離脱 この年は他チームでは走らず 翌1976年にウイリアムズからエントリー 更にシーズン途中でエンサインに移籍した #F1-1975年
230427 J.ICKX 1975 6FW12C
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2000 16TH PMA ARROWS SUPERTEC A21 P.DE.LA.ROSA
キャリアベストタイ 予選5位 ペドロ・デ・ラ・ロサ ARROWS A21 前年度アロウズに貴重なポイントをもたらした デ・ラ・ロサはアロウズに残留 チームメイトはヨス・フェルスタッペン 高速重視のマシンであった ARROWS A21 レース中の最高速をデ・ラ・ロサは3回記録 フェルスタッペンとあわせてチームで7回 R6ヨーロッパGPでシーズン初6位入賞 R10オーストリアGPでは 一時3位走行(最終リタイア) R11ドイツGPキャリベスト(タイ)で予選5位 決勝もシーズン2度目の6位入賞 印象的な走りを見せたものの マシンの信頼性の不足もあり 完走は17戦中6回 完走率は37.5%は フル参戦ドライバーの中では最下位 デ・ラ・ロサはアロウズを離れ 翌2001はプロストのテストドライバー シーズン途中よりジャガーにて参戦する モデルはミニチャンプス フランス通信大手Orangeがスポンサー ブラック/オレンジのカラーリングが 印象的な2000年シーズンを彩った1台
230326 P.DE.LA.ROSA 2000 18FW12C
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2001 16TH HOT WHEELS JAGUAR R2 P.DE.LA.ROSA
the story will be at a later date.
230326 P.DE.LA.ROSA 19 1/43FW12C
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1978 16TH SPARK SHADOW DN8 C.REGAZZONI
クレイ・レガッツォーニ シャドウ移籍 チーム主力離脱の混乱の中 5位入賞2回 1978年シャドウはチームの主力が離脱 新たにアロウズを立ち上げチーム内が混乱 ドライバーはC・レガッツォーニと H・J・シュトックのベテランコンビ 前半は前年A・ジョーンズが初優勝を もたらしたSHADOW DN8で戦い レガッツォーニはR2ブラジルGPで 予選15位→決勝5位入賞(モデル仕様) R4モナコGPより新車DN9を投入も デザイナーのトニー・サウスゲートが アロウズに移籍に伴い熟成進まず 予選落ちを4回(年間で5回)と不振 年間では5位2回 4ポイントで16位 DN9はアロウズA1とデザインが酷似 どちらもサウスゲートのデザイン SHADOW はデザインの盗用であると訴え 法廷闘争に持ちこみ勝訴したが チームの成績は上昇せず 2人のドライバ―ともシャドウを離脱し 翌1979年レガッツォーニはウイリアムズへ移籍 #F1-1978年
230116 C.REGAZZONI 1978 17FW12C
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1978 14TH PMA McLAREN FORD M26 P.TAMBAY
パトリック・タンベイ マクラーレンに抜擢 McLAREN FORD M26 前年度 非力なエンサインで3度の入賞 その走りが認められてマクラーレンに 抜擢されたパトリック・タンベイ チームメイトはジェームス・ハント ニューマシンのM27の計画が頓挫したため 旧マシンの前年3勝をあげたM26で参戦も ハント共々苦戦を強いられた タンベイは5度の入賞 表彰台は無し 最高位はR8スウェーデンGPの4位 シーズン終盤アメリカ・カナダGPは フィリップモリス傘下のミラー社が 販売するビールブランド レーベンブロイがスポットスポンサー 2戦のみカラーがブルーに代わった モデルはR15アメリカWEST GP仕様 予選18位→決勝6位入賞 R16カナダGPのみ予選でハントに勝っている タンベイ17位 ハント19位 翌1979年もタンベイはマクラーレン残留 #F1-1978年
221217 P.TAMBAY 1978 1.656FW12C
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1997 16TH PMA ARROWS YAMAHA FA18 P.DINIZ
F1 3年目 ペドロ・ディニス 3チーム目 TWR アロウズに移籍 1997年 ペドロ・ディニスは大手スポンサー イタリア乳製品 parmalat ブラジルアイス Kibon などのを持参で アロウズに移籍 TMはデーモン・ヒル 前半はヒル共に苦戦したが 途中ジョン・バーナードの加入もあり改善 R8フランスGPでは予選でヒルに勝ち(16位) 年間でも3度勝利するなどの成長を見せた 予選でヒルに勝ったR12ベルギーの7位は デニスのF1で生涯唯一のシングルグリット R15ルクセンブルクGPでは予選15位から 決勝5位入賞 生涯ベストリザルトタイ ヒルからも沢山の事を教わり感謝の意を示した 翌1998年もアロウズに残留 #F1-1997年 #F1
221126 P.DINIZ 2 1/43FW12C