-
1997 10TH ONYX SAUBER C16 PETRONAS J.HERBERT
ザウバー2年目 ジョニー・ハーバート エース待遇 SAUBER C16 PETRONAS フレンチェンがウイリアムズに移籍 ハーバートはザウバーエース待遇 序盤5戦の予選では7位(3回) 8位(1回) R3アルゼンチンGPで4位入賞 R11ハンガリーGPでは3位表彰台獲得 年間では6度に入賞 15ポイントで10位 エンジンがフォードからペトロナス名称の フェラーリエンジンの耐久性が極めて高く ハーバートの入賞を後押しした 翌1998年も実績が認められてザウバー残留 #F1-1997年
221206 J.HERBERT 16 1/43FW12C
-
1997 (23RD) ONYX SAUBER C16 PETRONAS G.MORBIDELLI
ジャンニ・モルビデリ F1ラスト SAUBER PETRONAS C16 イタリアのオートバイメーカーの モルビデリ社の御曹司のラストイヤー 1997年はフェラーリのテストドライバー フェラーリエンジンの関連で R6スペインGPでサウバー参戦 途中ケガで離脱もR11ハンガリーから復帰 R16日本GP鈴鹿の予選でダンロップコーナーで クラッシュして結果これがF1最後となった 7戦中6戦完走も入賞は無し 決勝最高は9位 🏁ジャンニ・モルビデリ (イタリア) 【決勝出走回数】67回 (入賞5回) 【予選最高位】 6位 1994年 アロウズ R1 ブラジル 【決勝最高位】 3位 1996年 アロウズ R16 オーストラリア
221121 G.MORBIDELLI 17 1/43FW12C
-
1997 TEST ONYX TYRRELL FORD 025 T.TAKAGI
Mr.CRAFT 別注モデル 高木虎之介 TEST CAR TYRRELL FORD 025 1997年ティレルはかつてチームにも 所属した日本人ドライバ―中嶋悟率いる 中嶋企画と提携しテストドライバーに 高木虎之介を起用するとともに PIAA EPSONなどのスポンサーを獲得 高木虎之介は国内のフォーミュラニッポン にも参戦したが1勝のみランキングは6位 こちらはかつて東京 恵比寿にあった ミスター クラフトの別注モデル 型番がMC003となっている 1997年の1/23日のSILVERSTONE TESTの 仕様でEPSONのスポンサー未だ付いていない 恐らく日本の模型店が初めて 別注オーダーしたF1のモデルカー しかしONYXは1997年でF1モデルから撤退 ミスタークラフトも残念ながら2008年に閉店 #F1-1997年
221119 T.TAKAGI TEST CAR 19FW12C
-
1997 15TH ONYX MINARDI HART M197 J.TRULLI
情熱ファンタジスタ ヤルノ・トゥルーリ F1デビュー 7戦限りのMINARDI HART M197 ヤルノ・トゥルーリ イタリア出身 1996年ドイツF3チャンピオン 1997年ミナルディよりF1デビュー チームメイトは片山右京 開幕戦こそ右京に予選で敗れたが 2戦目以降は速さを見せて予選全勝 ミナルディでの予選最高位は17位 決勝最高位は9位が2回 最初はTMの右京のアドバイスを 聞き流していたトゥルーリであったが 親身に対応する右京に心を開き やがては好タイムを出すと 「右京のアドバイス通りに走った」と コメントすることが多かった R8フランスGPからはケガのO・パニスの 代役としてプロストに移籍 移籍後も右京との良好な関係は続いた
221110 J.TRULLI 21 1/43FW12C
-
1997 (24TH) ONYX SAUBER C16 PETRONAS N.FONTANA
アルゼンチン出身 ノベルト・フォンタナ 4戦限りのF1出走 SAUBER C16 PETRONAS N・フォンタナは1995年ドイツF3チャンピオン アルゼンチン出身ドライバーとしては 1989年のO・ララウリ(ユーロブルン)以来 1997年はザウバーのテストドライバー G・モリビデリのTEST中のケガにより R8~R10の3戦に出場して R10ドイツGPの予選18位→決勝8位が最高 再度モリビデリがR16日本GPケガした為 最終R17ヨーロッパGPにも出場 この年のみのF1参戦でポイント獲得はならず 合計4戦がフォンタナの生涯出走回数 N・フォンタナは1996年~1998年まで 日本のフォーミュラニッポンにも参戦 各年1勝づつを上げて1997年の年間3位が最高
221109 N.FONTANA 17 1/43FW12C
-
1997 (25TH) ONYX MINARDI HART M197 U.KATAYAMA
1997年日本GP 鈴鹿で引退発表 右京ラストシーズンMINARDI HART M197 片山右京は4年間所属したティレルを離れ MILD SEVENとともにミナルディに移籍 TMはルーキーのヤルノ・トゥルーリ トゥルーリ移籍後はタルソ・マルケス 開幕戦オーストラリア予選15位 決勝はモナコ・ハンガリーの10位が最高 TMのヤルノ・トゥルーリとは良好な関係で 右京の経験をつぎ込み若手育成に努めた 翌シーズンの残留の要請もあったが 後進にF1シートを譲りたいとの理由で 日本GP 鈴鹿のフリー走行後に引退を発表した こちらのモデルは大阪時代に 日本橋にあったNinomiyaで購入 Joshinのような電気屋で模型も扱いしてた記憶? 右京のF1通算出走回数は95戦 これは現在でも日本人歴代最多記録 🏁片山 右京 (日本) 決勝出走回数 95回 予選最高位 5位(2回) 1994年 ティレル R9ドイツ 1994年 ティレル R10ハンガリー 決勝最高位 5位(2回) 1994年 ティレル R1ブラジル 1994年 ティレル R3サンマリノ #F1-1997年
221008 U.KATAYAMA 20 1/43FW12C
-
1996 TEST ONYX BRIGESTONE TEST CAR (JS41) D.HILL
ワールドチャンピオン獲得翌日 D・ヒル ブリヂストンタイヤテスト 1996年鈴鹿でチャンピオンを決めた デーモン・ヒルはその翌日に同コースで 翌1997年~の参戦開始する ブリヂストンタイヤテスト ヒルはブリヂストンユーザーとなる TWRのアロウズへの移籍が決まっていた 元々の車体は1995年シーズンに リジェ無限HONDAが使用したJS41 これを赤・白ベースのカラーに変更 このマシンでのテストは鈴木亜久里や ヨス・フェルスタッペンも実施している https://muuseo.com/FW12C/items/780?theme_id=34911
221007 D.HILL TEST CAR 1/43FW12C
-
1996 (20TH) ONYX MINARDI FORD M195B P.LAMY
ペドロ・ラミー 初のフル参戦 最後のマシン MINARDI FORD M195B 1996年シーズンはドライバ―の エントリーが複数あったのは ミナルディのみで合計4人 その中でペドロ・ラミーは初のフル参戦 エース格で挑んだシーズンであったが 開幕戦予選で新人のG・フィジケラに敗れ R3アルゼンチンでもT・マルケスにも敗れた 決勝もR4サンマリノGPの9位が最高位 ミナルディのチームとしても 1990年以来6年ぶりのポイント無で終了 ラミーはこの年限りでF1引退 ポルトガル出身のF1ドライバ―は ラミー含め現在まででわずか4人のみ 1991年のペドロ チャベス(コローニ)は 決勝進出していない為 決勝走行は3人 ラミーの次のポルトガル人ドライバーは 2005年のT.モンテイロ(ジョーダン) ラミーは見た目より実際は若く F1 初エントリーは21歳 F1 最終エントリは24歳だった ペドロ・ラミー(ポルトガル) 決勝出走回数 32回 予選最高位 14位 1995年 ミナルディ R15パシフィック 決勝最高位 6位 1995年 ミナルディ R17オーストラリア #F1-1996年 #F1最後のマシン
P.LAMY 20 1/43 MINARDIFW12C
-
1996 16TH ONYX ARROWS FOOTWORK HART FA17 J.VERSTAPPEN
大型スポンサーと共にアロウズへ移籍 1996年 ヨス・フェルスタッペン フェルスタッペンはベネトンとの契約を 終えて地元オランダに本社がある ヨーロッパ最大の電気メーカーであった フィリップス・カーシステムとともに ハートエンジンのアロウズに移籍する R3アルゼンチンGP予選7位→決勝6位は どちらもシーズンベスト 自身2年ぶりの入賞 シーズン序盤トム・ウォーキンショーが率いる TWRに買収されると翌年に標準を合わせる為 1996年度の開発を止め 信頼性は悪化 フェルスタッペンはチームからの3年契約の オファーを断り翌1997年はティレルに移籍 フットワークのコンストラクター名称の 最後のマシンであるとともに翌年から参戦の ブリヂストンタイヤのテストも実施 フェルスタッペンは日本と関わりが多い ONYXから発売の2種類のモデルは 画像1 R4ヨーロッパGP仕様(後半戦カラー) 画像2 R2ブラジルGP仕様(前半3戦カラー) 契約の関係でフェルスタッペン名称ではなく DUTCH DRIVERの表記になっており ドライバ―ヘルメットのデカールが無い #F1-1996年 #フェルスタッペン #1996年 #F1
J.VERSTAPPEN 17 1/43 ARROWSFW12C
-
1996 (21ST) ONYX FORITI FORD FG03 L.BADOER
こちらのモデルはMuuseoではおなじみの 【アダムスキー(当時はサイケデリア)】で購入 2010年1月27日 980円 さすがの価格 1996年ルカ・バドエルはミナルディから レンタルの形でフォルティに移籍 チームメイトはA・モンテルミニ 前年度のR・モレノ P・デニスのブラジルから イタリアンドライバ― コンビニ変更 競争力の無いマシンでこの年導入された 予選107%ルールで4度の予選落ち 画像1 R7スペインGP 画像2 R4ヨーロッパGP 2種類のモデルとも予選落ち R11ドイツGPよりチームは撤退 この時点で唯一のイタリア人ドライバ―の G・ラバッジ(ミナルディ)が予選落ちしたため 23年ぶりにイタリア人ドライバーが 一人も決勝にいないレースとなった バドエルは1996年末時点で エントリー41 決勝35レースで無得点 1970年代のアメリカ人ドライバ― ブレッド・ランガーと並び 無得点ドライバ―の最多エントリー記録に並ぶ バドエルはその後 1997~1998年はフェラーリのテストドライバー 1999年にミナルディで再びF1に復帰します #F1-1996年 #アダムスキー(サイケデリア)
L.BADOER 22 1/43 FORTIFW12C
-
1996 (24TH) ONYX MINARDI FORD M195B T.MARQUES
タルソ・マルケス ブラジル出身 ミナルディよりF1デビュー 1996年資金難のミナルディは南米ラウンドに ブラジル出身のT・マルケスを起用 マルケスのデビューは20歳40日で 当時としては歴代5番目の若さ R2ブラジルGP ピットレーンの信号無視で予選結果は抹消 決勝は1周目にスピンしてリタイア R3アルゼンチンGP 予選はこの年のミナルディのベストの14位 決勝はM・ブランドル(ジョーダン)に 2度も追突して34周目にリタイア 若さが出た結果となりこの2戦のみの出場 マルケスは翌1997年後半と2001年前半戦に 再びミナルディで参戦します 1996年はドライバ―が3人以上のチームは ミナルディのみで T・マルケスの他は P・ラミー G・フィジケラ G・ラバッジの4人 G・ラバッジのみが量販モデルの発売が無いが この年のミナルディの成績(ノーポイント)を 考えると残念ながら今後も発売の期待は薄い #F1-1996年
T.MARQUES 21 1/43 MINARDIFW12C
-
1996 (23RD) ONYX FORITI FORD FG03 A.MONTERMINI
アンドレア・モンテルミニ F1 3年目 フォルティで参戦も途中撤退 前年度パシフィックからモンテルミニは 自身が1992年に国際F3000でも所属していた フォルティに移籍 TMはL・バドエル 1996年は予選107%ルールが導入され PPのタイムから107%を超える予選タイムの 場合は予選落ちとなりモンテルミニは 開幕戦を含め5度の予選落ち ONYXは2種類のカラーリングがリリースされ R4ヨーロッパGP仕様 前年度に続くイエロー フォルティFG01/96 R7スペインGP仕様 グリーンと白がベース フォルティFG03/96 両マシンとも名称の表記が無い これはアイルランドのシャノンレーシングと 契約によりカラーが変更されたが シャノンとの協力体制が上手くいかず スポンサーマネーが支払われることがなかった 結局チームはR11ドイツGPには現れたものの このGPからFIAへ撤退の申し入れをした モンテルミニは次年度1997年はローラの テストドライバーを務める予定も チームが開幕戦で早々と撤退しF1から引退 所属チームがシムテック→パシフィック →フォルティ→マスターカードローラと ことごとく撤退する不運なドライバ―であった #F1-1996年
A.MONTERMINI 23 1/43 FORTIFW12C
-
1996 (18TH) ONYX ARROWS FOOTWORK HART FA17 R.ROSSET
リカルド・ロセット ブラジル出身 1996年 F1デビュー アロウズ 1996年F1デビュードライバ―は3人 G・フィジケラ T・マルケス R・ロセット ロセットのみがフル参戦 1995年国際F3000 2位の実績と スポンサーマネーを持ち込みシート獲得 TMはヨス・フェルスタッペン 開幕戦は接触しながら9位完走 シーズン予選ではフェルスタッペンに全敗 R12ハンガリーの予選18位→決勝8位が最高位 ONYXからは2台のGP仕様車が発売 画像1 R2ブラジルGP仕様 前年度のカラーリング継承 赤・青・銀・白のパッチワーク模様 画像2 R4ヨーロッパGP仕様 赤と青の2カラーに変更され オーストリアのスポーツドリンクの 専門メーカーPOWER HORSEのロゴが 大きく見やすく改善された ロセットはこの年限りでアロウズ離脱 翌1997年はマスターカード・ローラに移籍も 開幕戦のみでチームは撤退した #F1-1996年 #F1
R.ROSSET 16 1/43 ARROWSFW12C
-
1996 (19TH) ONYX MINARDI FORD M195B G.FISICHELLA
ジャンカルロ・フィジケラ イタリア出身 愛称フィジコ F1デビューはミナルディ 1996年ミナルディは当初 P・ラミー 井上隆智穂のラインナップであったが 井上のスポンサーが撤退しシート喪失 急遽フィジケラのデビューが決まる 開幕戦オーストラリアで予選16位 TMのP・ラミー(予選17位)を上回る R8カナダGPで再び予選16位→決勝8位 これはフィジケラ ミナルディとも 1996年のシーズンベスト チームは資金難の為シートを R2・3 タルソ・マルケス(ブラジル) R11~ ジョバンニ・ラバッジ(イタリア) に売り渡した為 フィジケラは8戦のみ ONYXのモデルカーからもたくさんの 小スポンサーのデカールと リアウイングのチーム名だけのロゴで ミナルディの苦しい台所事情が覗える ミナルディでの走りが認められた フィジケラは翌1997年 ドライバ―オーディションの 実走テストを経てジョーダンに移籍 #F1-1996年 #F1-デビュー
G.FISICHELLA 21 1/43 MINARDIFW12C
-
1995 3RD ONYX WILLIAMS RENAULT FW17 D.COULTHARD〖🏆1〗
デビッド・クルーザード 初優勝 WILLIAMS RENAULT FW17 1995年初優勝3人中のラスト クルーザード2年目初のフル参戦 予選ではTM D・ヒルと互角の戦い R2アルゼンチンGPで自身初のPP R12~R15まで4戦連続PP R13ポルトガルGPで 参戦21戦目で初優勝 これは2位M・シューマッハ(ベネトン) 3位TMのD・ヒルを従えた完ぺきな勝利 しかしR12イタリアのPPから フォーメーションラップでのスピンなど ミスも目立ちこの年限りで ウイリアムズを放出され 翌1996年はマクラーレンに移籍する ONYXからは4種類以上のモデルが 1995年のクルザード車として発売 画像1 FW17 パラソル仕様 画像2 FW17 通常版 画像3 FW17 ポルトガルGP仕様 (初優勝 ドライバ―レス) 画像4 FW16 TEST仕様 #F1初優勝 #1995年 #WILLIAMS #F1-1995年
D.COULTHARD 2回 6 1/43FW12C