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1976 (43RD) PMA (LEXINGTON RACING) TYRRELL 007 I.SCHECKTER
2年連続同一マシンによる兄弟同時出走 シェクター兄 イアン TYRRELL 007 1976年R3南アフリカGP 前年度同様イアン・シェクターは TYRRELL 007のマシンに乗り プライベーターで参戦 弟のジョディもティレル本隊で TYRRELL 007でエントリーしており 2年連続同一マシンの兄弟同時出走が実現 イアンはキャリアベストとなる予選16位も 決勝は1周もできずにリタイア 弟ジョディは予選12位→4位入賞 1976年イアンはこのレースのみ 翌1977年はマーチでキャリア最多 14戦エントリーのF1ラストイヤー モデルはスパーク イアン1戦限りのR2南アフリカ仕様 LEXINGTONはルクセンブルグのタバコブランド シェクター兄弟の祖国 南アフリカでは BAT(ブリティッシュ アメリカン タバコ)の 子会社が販売 日本では通常販売無し このモデルはLEXINGTONの文字のみ 最初からデカールが貼られており ロゴマークのみが別で添付されている 前年1975年のミニチャンプスのモデルは LEXINGTONの文字も無くデカール添付無し https://muuseo.com/FW12C/items/1502?theme_id=32702
240311 I.SCHECKTER 1976 15FW12C
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1977 14TH PMA TYRRELL FORD P34 R.PETERSON
ティレル6輪 P34 2NDシーズン 苦戦のロニー・ピーターソン 1977年ティレル6輪 2シーズン目 マーチよりロニー・ピーターソンが移籍 パトリック・デパイユはチーム残留 P34はトップスピード向上のため エンジンまで覆うカウルを開発 FIRST NATIONAL CITYの スポンサーが付きコックピット周りは 白のアクセントのカラーに変更 移籍のピーターソンは6輪に馴染めず 開幕より4戦連続のリタイア R7ベルギーGPでシーズン唯一の表彰台3位 R15アメリカでFLを記録するものの 他の入賞は2回にとどまり年間14位 R17日本GPは予選18位 決勝は6周目にビルヌーブ(フェラーリ)と 絡みリタイアに終わる ピータソンは翌1978年はロータスに戻り これが最後のシーズンとなってしまう モデルはミニチャンプス 1977年のP34のモデルは 先にモナコGP仕様が発売され 後にGP仕様表記の無い仕様が発売された 珍しいパターンでフルカウルの再現と ドライバ―フィギュアが改良されている
231229 R.PETERSON 1977 1回FW12C
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1974 9TH SPARK TYRRELL 007 P.DEPAILLER
パトリック・デパイユ 初のフル参戦 キャリア唯一のPP TYRRELL 007 1974年前年度の最終戦F・セーベルが他界 哀しみのチャンピオン ジャッキー・シチュワートが引退 ティレルは1972年に自チームで スポット参戦したパトリック・デパイユ起用 チームメイトはジョディー・シェクター デパイユは旧車のティレル005で 開幕戦のアルゼンチンGPで6位初入賞 デパイユの生涯入賞は36回 R3南アフリカGP予選15位→決勝4位 R7スウェーデンGPではニューマシンの ティレル007で予選PPを獲得 デパイユのPPはキャリア唯一 決勝は2位 シェクターと1・2フィニッシュ デパイユの通算表彰台は19回 フル参戦初年度の入賞6回で年間9位 チャンピオン争いに絡んだシェクターとは 約3倍のポイント差がついた F1と並行して参戦したヨーロッパF2は 年間4勝をあげてチャンピオンを獲得 モデルはスパーク R7スウェーデンGP仕様 デパイユ生涯唯一のPPと2位初表彰台 さらに自身初のファステストラップも記録 デパイユのFLは生涯4回
231217 P.DEPAILLER 1974 1回FW12C
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1980 12TH SPARK TYRRELL 010 D.DALY
ディレク・デイリー TYRRELL 010 キャリアベストの4位2回入賞 1979年デイリーは終盤 エンサインを離脱後ティレルの サードカーとして3戦出場 1980年はレギュラーシートを獲得する チームメイトはジャン・ピエール・ジャリエ デイリーは開幕戦アルゼンチンGP 旧型マシンのティレル090で 予選22位ながら決勝は4位入賞 R3南アフリカGPで ニューマシン010が投入され R8イギリスGPで再び4位を獲得 4位はデイリーのキャリアベスト 年間で6ポイント獲得したが 5名のドライバ―が同ポイントで並び 順位差などで以下のリザルトとなった 10位 K・ロズベルグ(フィッテパルディ) 11位 J・ワトソン(マクラーレン) 12位 D・デイリー(ティレル) 13位 J・P・ジャリエ(ティレル) 14位 G・ビルヌーブ(フェラーリ) デイリーはティレルを1年で離れ 翌1981年はマーチ・グランプリに移籍 #1980年
230728 D.DALY 1980 4FW12C
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1980 13TH SPARK TYRRELL 010 J.P.JARIER
ティレル本格参戦10年目 初の表彰台無し TYRRELL 010 1980年ティレルは ジャン・ピエール・ジャリエが残留 チームメイトにディレク・デイリーを迎える R3よりニューマシンティレル010を投入 フロントウイングの無い保守的にまとめた グランド・エフェクトカーで 予選・決勝とも中段~下位に沈んだ 予選シングルグリットは9位が僅か2回 決勝も5位に3回入賞するのがやっとで D・デイリーと合わせても入賞5回で チーム本格参戦1971年から10年目で 初の表彰台無し ティレルの低迷期となった イタリアの家電メーカーCandyが メインスポンサーでティレルブルーに マシンの上側部分は赤く染められた ジャリエはこの年でティレルを離れ 翌1981年はレギュラーシートが無く リジェとオッゼラでスポット参戦した
230703 J.P.JARIER 3 1/43FW12C
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1975 9TH PMA TYRRELL 007 P.DEPAILLER
パトリック・デパイエ ティレル2年目 前半好調も後半失速 TYRRELL 007 1975年デパイエはティレルフル参戦2年目 チームメイトは前年同様J・シェクター マシンは前年後半投入のティレル007 開幕戦アルゼンチンGP 5位 R3南アフリカGP 3位表彰台 R5モナコGP FLで5位など 前半6戦で4回入賞など好調なスタート 後半の入賞はR9フランスの6位のみで 全14戦中11戦完走と完走率は高かったが 入賞に一歩届かないレースが多く 年間順位は前年同様9位 翌1976年もティレルに残留 ティレル6輪車P34のメインテストを務めた こちらのモデルはあるサイトで 注文した所間違って1974年のモデルが届き 返金か交換を希望したが 在庫が無かったにも関わらず取り寄せ →更に誤納品までいただきました ネット注文だと店頭と併売の為 注文商品の在庫が無いこともしばしで 残念な対応でがっかりすることもある中 とても誠実に対応して頂き感謝を思い出す1台
230623 P.DEPAILLER 1975 1回FW12C
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1972 (24TH) QUARTZO TYRRELL 004 P.DEPAILLER
パトリック・デュパイエ F1デビュー ティレルの4号車 TYRRELL 004 パトリック・デュパイエ フランス出身 元々は2輪だったが→4輪ドライバーに変更 1971年 フランスF3 チャンピオン 1972年はティレルのサードドライバ―で 地元R6フランスGPにスポット参戦 予選17位→決勝は1周足らず周回不足 最終R12アメリカにも出場 予選11位→決勝は7位完走している この時使用のマシンTYRRELL 004は 001を元に作製された4号機 1972年R3モナコでJ・スチュワートが 使用して予選8位→決勝4位入賞 デュパイエが2戦使用後は 南アフリカのドライバ― エディー・ケイザンに売却されて ケイザンがプライベートチームで 1973年・1974年に1戦ずつ参戦 F1でわずか5戦限りの使用となった https://muuseo.com/FW12C/items/497?theme_id=31775 デュパイエ翌1973年はヨーロッパF2 1974年からはF1に戻りティレルの レギュラードライバ―として参戦する
230524 P.DEPAILLER 1972 8FW12C
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1993 (28TH) SPARK (宮沢模型)TYRRELL 020C YAMAHA U.KATAYAMA
片山右京 ティレル移籍 約3年落ちのマシン TYRRELL 020C 1993年ティレルはヤマハエンジンを獲得 1990年ブラバムヤマハのテストドライバーを 務めた経験もあり片山右京が移籍 チームメイトは残留のA・チェザリス 1993年のマシンTYRRELL 020Cは 1991年に中嶋悟がドライブした020の 改良版でモノコックはほぼ一緒 エンジンもヤマハはこの年は単独でなく ジャッドと提携でジャッドV10そのもの 右京は開幕から6戦連続リタイア ようやくR7カナダGPで決勝17位 R9イギリスGP決勝13位が2度目の完走 R10ドイツGPでニューマシン021が導入 1991年の開幕戦から41戦で使用された TYRRELL 020シリーズは役目を終えた モデルは宮沢模型別注のフィギアレス 開幕戦の南アフリカGP仕様 右京の持ち込みスポンサーの日本たばこ 【CABIN】のデカールは付属でなく別購入 日本の菓子メーカーカルビーがスポンサー継続 1993年のカルビーポテトチップスには裏面に ティレルF1の設計場面が描かれたものが発売 https://muuseo.com/FW12C/items/527?theme_id=31948
230507 U.KATAYAMA 3 1/43FW12C
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1970 7TH QUARTZO TYRRELL 001 J.STEWART〖🏆1〗
記念すべきティレル1号車 J・スチュワート TYRRELL 001 1970年ティレルは 前年度ワールドチャンピオン車体の マトラと決別してフォードエンジン 使用の為当初はマーチ701の車体で参戦 その後マトラのエンジニアであった ディレック・ガードナーに依頼して 記念すべきティレルのオリジナル車 TYRRELL 001を終盤3戦で導入した R11カナダGP ティレル車体のデビュー予選で いきなりのポール・ポジションを獲得 決勝31(/90)周目までトップもリタイア R12アメリカGP 予選2位 決勝は82(/108)周目までトップ走行も オイルもれトラブルでリタイア R13メキシコGP 予選2位 約20万人の観衆で大混乱の中コースに 飛び出してきた犬を轢いてリタイア 予選では速さを見せたTYRRELL 001だが 決勝はトラブルや不運で3戦ともリタイア 001は翌1971年開幕戦のJ・スチュワートと 最終戦にスポット参戦したP・レブソンの わずか5戦限りの使用で役目を終えて F・セーベルの002号車 J・スチュワートの003号車に引き継いだ
230408 J.STEWART 1 1/43FW12C
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1984 (32ND) PMA TYRRELL FORD 012 S.BELLOF(GP MONACO)
ステファン・ベロフ モナコGP 幻の3位表彰台 TYRRELL FORD 012 1984年 R6 モナコGP 予選は20位までが決勝進出 この年ルーキーのドイツ人ドライバー S・ベロフはギリギリの20位で通過 チームメイトのM・ブランドルは予選落ち 決勝は豪雨の中のレースで 予選最後尾から追い上げ3位まで浮上 レースは豪雨で31周で打ち切られ そのまま3位表彰台を獲得 このレースは2位A・セナ(トールマン)が レースが仮に継続していたらトップの A・プロスト(マクラーレン)をとらえていた とも言われるレースだが3位のベロフも ペースを考えると優勝争いのチャンスが あったとも言われている しかしこの後チームは 不正なエンジン出力の増大行為 所謂水タンク事件で成績が全て失格となり ベロフの3位リザルトも幻となってしまった このモデルはモナコGP仕様 ミニチャンプスの通常版とは異なり タイヤは レインタイヤ スポンサーもイタリアのDeLonghiと このGPのベロフ車のみに フランスの化粧品メーカーDISCOSTARの ロゴがフロントウイングに貼られている
230404 S.BELLOF 2,304 4FW12C
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1982 (27TH) SPARK TYRRELL 011 B.HENTON
ヨーロッパF2チャンピオン B・ヘイトン F1ポイント獲得ならず ブライアン・ヘイトン イギリス出身 1974年から参戦したヨーロッパF2では 参戦7年目の1980年に悲願のチャンピオン 1975年には全日本F2000にもスポット参戦 F1では1975年のロータスを皮切りに マーチ→PVマーチ→ボロ→サーティス 1981年トールマン初のレギュラードライバ― 1982年アロウズ→R4サンマリノGPより S・ボルグッドに代わりティレルで参戦 チームメイトのミケーレ・アルボレートが 初の表彰台&初優勝の中 ヘイトンは予選最高11位 決勝最高7位 いずれも生涯のベストリザルトで F1での入賞はならなかった R10地元イギリスで自身唯一の ファステストラップを記録 モデルはR15イタリアGP仕様 (予選14位→決勝R) 後半戦仕様のディープグリーンが鮮やかで スイスの香水DENIMがメインスポンサー #F1-1982年 🏁ブライアン・ヘイトン (イギリス) 【決勝出走数】18回(入賞0回) 【予選最高位】 11位 1982年 TYRRELL R4 サンマリノ 【決勝最高位】 7位 1982年 TYRRELL R12ドイツ 【ファステストラップ】 1回 1982年 TYRRELL R10イギリス
B.HENTON 1回 3 1/43FW12C
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1998 (21ST) PMA TYRRELL FOAD 026 T.TAKAGI
TORA TAKAGI F1デビューは ティレルの最後 TYRRELL 026 1998年 高木虎之介はテストドライバーから 昇格してティレルのシートを獲得 師である中嶋悟氏のバックアップを受け PIAA brotherなどのスポンサーを持ち込んだ 予選最高は13位 決勝最高は9位 予選決勝ともチームメイトの リカルド・ロセットに圧勝したが ロセットの決勝最高8位のリザルトがあり 年間順位はロセットの下の(21位) 1970年から参戦したティレルは 29年目のこの年をもって活動が終了 最終戦R16日本GP鈴鹿は チームメイトのロセットが予選落ち ティレル最後の814台目の決勝は 高木虎之介の走行であったが E・トゥエロ(ミナルディ)に追突されて 有終の美とはならなかった #F1-1998年
230330 T.TAKAGI 21 1/43FW12C
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1998 (21ST) PMA TYRRELL FOAD 026 T.TAKAGI "TOWER WING″
ティレル026は他のチームとは異なり "TOWER WING″をデザイン段階から 取り入れたマシンであった 禁止となったR5スペインGPからは ダウンフォース不足となり苦戦 約5%程度が失われたと言われている チームは翌年以降のB・A・R体制に移行で 現行マシンの開発が継続されなかった事も 成績不振の原因となった 前年はその形からXウイングとも呼ばれたが 1998年はサイドポンツーン上部に 垂直に伸びる形状となっていた 長き歴史において1976年の6輪車や 1990年のアンヘドラルウイングなど ユニークな技術が導入されたティレルの 最後が"TOWER WING″のマシンであった #F1-1998年
230330 T.TAKAGI "TOWER WING″ 2.222FW12C
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1975 (35TH) PMA (LEXINGTON RACING) TYRRELL 007 I.SCHECKTER
同一マシンによる兄弟同時出走 シェクター兄 イアン TYRRELL 007 イアン・シェクター 南アフリカ出身 弟は1979年ワールド チャンピオン ジョディー・シェクター 1974年スポット参戦デビュー 1975年もプライベター LEXINGTON RACINGでティレル007の マシンでR3地元南アフリカGPに出場 弟ジョディーもこのGPにティレル本体で ティレル007のマシンで出走 史上唯一の同一マシンによる兄弟のエントリー 弟ジョディーはこのGPに見事優勝 兄イアンは残念ながら55周でリタイア イアンはR7スウェーデンR8イタリアGPを ウイリアムズで参戦 最高位は決勝12位 #F1-1975年
230321 I.SCHECKTER 1975 1.008FW12C
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1975 (50TH) SPARK TYRRELL 007 M.LECLERE
元祖 ルクレール ミッシェル F1 デビュー TYRRELL 007 ミッシェル・ルクレール (フランス) 現在活躍中のシャルル・ルクレールが モナコ出身に対しミッシェルはフランス トリコロールカラーをモチーフにした トップが赤いヘルメットが特徴 1972年 フランスF2チャンピオン 1975年 ヨーロッパF2 2位 この時のチャンピオンはジャック・ラフィー 1975年 F1最終R14 アメリカGP フランス エルフの後押しもあり ティレルのサードカーとしてデビュー チームメイトはジョディー・シェクター パトリック・ドュパイエ 予選はトップから約4秒落ちの20位で通過 決勝は6周目にエンジンが壊れリタイア ティレルでの出場はこの1戦のみ 翌1976年はウイリアムズで 地元フランスまでの6戦限りの出走 このティレル007の車体は プライベートチームにも販売され 1976年は星野一義 1977年は高橋国光が 日本GP 富士SWに出場している
230306 M.LECLERE 1975 15FW12C