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2000 (19TH) PMA MINARDI FONDOMETAL M02 M.GENE
コンストラクター最下位2年連続回避 マルク・ジェネ力走 MINARDI M02 前年度4年ぶりにミナルディにポイントを もたらしたマルク・ジェネはミナルディ残留 チームメイトはガストン・マッツァカーネ 基本設計は3年前のマシンながら 上位との差を僅かながらも縮めたM02 エンジンはフォンメタル名を付けた 1998年製のフォード・ゼテックR ジェネの決勝最高位は8位が2回 ポイント獲得はならなかったが この8位2回の差でチームプロストを上回り ミナルディはコンストラクター10位となり 翌年のTV放映権の分配金を手にした ジェネはスポンサー撤退もあり この年でミナルディを離れ 翌2001年からウイリアムズの リザーブ兼テストドライバー 2003年に同チームから代役参戦する モデルはミニチャンプス GP仕様の無いレースカー仕様 スポンサーのスペイン大手通信会社 テレフォニカはジェネの持ち込み 鮮やかなクリームイエローは 2000年限りのカラーリング
240412 M.GENE 2000 20FW12C
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2000 (21ST) PMA MINARDI FONDOMETAL M02 G.MAZZACANE
黄色いミナルディ MINARDI M02 ガストン・マッツァカーネ デビュー 2000年レギュラードライバーとして F1デビューしたのは3人 ①ジェンソン・バトン(ウイリアムズ) ②ニック・ハイドフェルド(プロスト) ③ガストン・マッツァカーネ(ミナルディ) (※スポット参戦 L・ブルティ(ジャガー)) マッツァカーネはアルゼンチン出身 前年度のテストドライバーから昇格 チームメイトはマルク・ジェネ 全17戦の予選は22台出走の中 22位→12回 21位→4回 20位→1回 決勝は速さはかったものの 12戦で完走 シーズンLAP周回数は 意外にも全体の3番目であった 決勝最高位はR6ヨーロッパGPの8位 ハイライトはR15アメリカGP ウエットレースでタイヤ交換を遅らせ 一時的とは言え3位に順位を上げ ハッキネン(マクラーレン)を抑えて走行 しかしその後ピットクルーを轢いて 最後はエンジンが壊れてリタイア マッツァカーネは翌2001年 チームプロストでの4戦がF1で最後 これ以降アルゼンチンのF1ドライバーは 2023年末現在エントリーされていない モデルはミニチャンプス ミナルディは前年のシルバー/ブルーから 鮮やかなイエローに変更 2000年限り珍しいカラーリング
240127 G.MAZZACANE 2000 21FW12C
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1999 17TH PMA MINARDI FORD M01 M.GENE
ミナルディ 4年ぶりのポイント 新人マルク・ジェネ MINARDI FORD M01 マルク・ジェネ スペイン出身 1998年当時スペインでのトップフォーミュラ ワールドシリーズ・バイ・ニッサン初代王者 1999年ミナルディからF1デビュー ハイライトはR14ヨーロッパGP チームメイトのルカ・バドエルが 終盤4位走行中にエンジンが壊れリタイア 人目もはばからず涙流す中 ジェネは5位に順位を上げる その後チャンピオン争いの ミカ・ハッキネン(マクラーレン)と エディ・アーバイン(フェラーリ)が猛追 ハッキネンには抜かれたものの アーバインは何とか抑えて6位入賞 ジェネのF1初入賞はミナルディの 1995年最終オーストラリアGP以来 4年ぶり(65戦)ぶりのポイント獲得 コンストラクタ―でBARとの争いに 勝った貴重な1Pを獲得したジェネは 評価も上がり翌2000年もチームに残留 モデルはミニチャンプス 前年度に続くシルバーとブルーを 基調とするカラーリング メインスポンサーのテレフォニカは スペインの大手通信会社 マルク・ジェネの持ち込みスポンサー
231107 M.GENE 1999 21FW12C
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1999 (23RD) PMA MINARDI FORD M01 L.BADOER
入賞無し最多参戦記録更新 ルカ・バドエル MINARDI FORD M01 1999年ルカ・バドエルはフェラーリの テストドライバーを務めながら ミナルディから3年ぶりのF1復帰 チームメイトは新人マルク・ジェネ 開幕戦オーストラリアGPで決勝リタイア このGPで入賞無し最多参戦記録が35になり 1970年代のブレッド・ランガーを抜き 単独でワースト1位となった R2はフェラーリのテストで負傷し欠場 ステファン・サザランが代役で出場 R14ヨーロッパGPではレースが荒れ バドエルは終盤4位走行も 53/66周目にエンジントラブルでリタイア F1での初入賞目前だった為 この時コースサイドの止まったマシンに 寄りかかり 人目もはばからず号泣した 奇しくこのリタイアでチームメイトの マルク・ジェネが6位初入賞 ミナルディチーム4年ぶりの入賞となった バドエルはこの後 フェラーリの テストドライバーを継続で務め 2000年~のフェラーリ黄金期を支える 10年後の2009年にフェリペ・マッサ代役で フェラーリでスポット参戦する モデルは版権の関係でドライバ―名が 〖Italian Driver〗となっている 1999年よりフェラーリのF1モデルが ホットウィールと契約となった為 フェラーリ所属であったバドエルの 表記が出来なかったと思われます
230711 L.BADOER 1999 20FW12C
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1998 (18TH) PMA MINARDI M195 S.NAKANO
日本人初の6戦連続完走 中野信治 MINARDI M195 1998年中野信治は前年プロスト離脱 ミナルディとの交渉合意に至らず 帰国前日にイタリア・ミラノで偶然 オーナーのガブリエーレ・ルミと遭遇 そこで中野の代理人が提示した条件が 事実と異なっていた事が判明 改めて その場で話し合いを持ち契約にこぎ着けた 中野自身は遭遇した場所にちなんで モンテナポレオーネ通りの奇跡と呼んでいる 中野はエイベックスやMUSASHIなどの スポンサーを持ち込んだがチームは財政難 苦しい状況の中でシングルフィニッシュ4回 これまでで日本人ドライバ―初となる 6戦連続完走など粘り強い走りを見せたが ポイント獲得ならず決勝最高位は7位 翌1999年はレギュラーシート獲得できずに ジョーダンのテストドライバー 途中デイモン・ヒル引退で参戦の噂もあったが 実現されず1998年でF1からは退く形になった 🏁中野 信治 (日本) 【決勝出走数】33回(入賞2回) 【予選最高位】 12位 1997年 PROST R8 フランス 【決勝最高位】 6位(2回) 1997年 PROST R7 カナダ 1997年 PROST R11ハンガリー
230405 S.NAKANO 22 1/43FW12C
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1998 (19TH) PMA MINARDI M198 E.TUERO
シルバー/ブルー ミナルディM198 エスティバン・トゥエロ アルゼンチン 1998年ミナルディはチーム立て直し3年計画 ジャンカルロ・ミナルディと大株主で フォンドメタルのガブリエーレ・ルミが 中心となり 元フェラーリ・リアル・レイトンハウスなどの デザイナー グフタス・ブルナーを招集 何とスタッフも75名→120名に増員 スポンサーの意向もあってか カラーリングも今までにない シルバーとブルーのコントラスト エスティバン・トゥエロは アルゼンチンドライバ― 19歳 参戦当時で史上3番目の若さでエントリー (2023年現在でも9番目の若さ) チームメイトは中野信治 前年の1997年はフォーミュラニッポンで 入賞1回 わずか1Pでスーパーライセンスの 発給も危ぶまれたがアルゼンチンの スポンサーの後押しもあり何とか参戦 開幕戦オーストラリアで予選17位 R4サンマリノで決勝8位が最高位 16戦中完走は僅かの4回でシーズン終了 チームも3年連続でノーポイント トゥエロは翌年1999年はミナルディで L・バドエル M・ジェネとのシート争いに 敗れてF1のシートを失ない 以降F1にエントリーすることは無かった
230209 23 1/43 MINARDIFW12C
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1997 15TH ONYX MINARDI HART M197 J.TRULLI
情熱ファンタジスタ ヤルノ・トゥルーリ F1デビュー 7戦限りのMINARDI HART M197 ヤルノ・トゥルーリ イタリア出身 1996年ドイツF3チャンピオン 1997年ミナルディよりF1デビュー チームメイトは片山右京 開幕戦こそ右京に予選で敗れたが 2戦目以降は速さを見せて予選全勝 ミナルディでの予選最高位は17位 決勝最高位は9位が2回 最初はTMの右京のアドバイスを 聞き流していたトゥルーリであったが 親身に対応する右京に心を開き やがては好タイムを出すと 「右京のアドバイス通りに走った」と コメントすることが多かった R8フランスGPからはケガのO・パニスの 代役としてプロストに移籍 移籍後も右京との良好な関係は続いた
221110 J.TRULLI 21 1/43FW12C
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1997 (25TH) ONYX MINARDI HART M197 U.KATAYAMA
1997年日本GP 鈴鹿で引退発表 右京ラストシーズンMINARDI HART M197 片山右京は4年間所属したティレルを離れ MILD SEVENとともにミナルディに移籍 TMはルーキーのヤルノ・トゥルーリ トゥルーリ移籍後はタルソ・マルケス 開幕戦オーストラリア予選15位 決勝はモナコ・ハンガリーの10位が最高 TMのヤルノ・トゥルーリとは良好な関係で 右京の経験をつぎ込み若手育成に努めた 翌シーズンの残留の要請もあったが 後進にF1シートを譲りたいとの理由で 日本GP 鈴鹿のフリー走行後に引退を発表した こちらのモデルは大阪時代に 日本橋にあったNinomiyaで購入 Joshinのような電気屋で模型も扱いしてた記憶? 右京のF1通算出走回数は95戦 これは現在でも日本人歴代最多記録 🏁片山 右京 (日本) 決勝出走回数 95回 予選最高位 5位(2回) 1994年 ティレル R9ドイツ 1994年 ティレル R10ハンガリー 決勝最高位 5位(2回) 1994年 ティレル R1ブラジル 1994年 ティレル R3サンマリノ #F1-1997年
221008 U.KATAYAMA 20 1/43FW12C
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2001 (23RD) PMA MINARDI EUROPEAN PS01 F.ALONSO
フェルナンド・アロンソ 新記録樹立 F1デビューから21年3ケ月8日(7770日) F1参戦期間が史上最長ドライバー 2022年6月12日R8アゼルバイジャンGPで達成 それまではM・シューマッハの7763日 アロンソはスペイン出身 1981年生まれ 2001年3月4日にミナルディからデビュー その時点で19歳 当時史上3番目の若さ こちらはそのデビューマシン MINARDI EUROPEAN PS01 決勝の最高位はR12ドイツGPの10位 ミナルディ出身のドライバ―で後に F1で優勝するのはアロンソ含め5人 A・ナニーニ G・フィジケラ J・トゥルーリ M・ウエバー ワールドチャンピオンはアロンソのみ 途中F1から離れたが2022年で19シーズン目 ミナルディ➡ ルノー➡ マクラーレン➡ ルノー➡ フェラーリ➡ マクラーレン➡ 2022年現在がのべ7チーム目のアルピーヌ アロンソのデビューマシンで人気もあり ミニチャンプスとしては珍しく 2度のワールドチャンピオン後の 2007年頃に再販されたバージョン #F1-2001年
F.ALONSO 20 1/43 MINARDIFW12C
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1996 (20TH) ONYX MINARDI FORD M195B P.LAMY
ペドロ・ラミー 初のフル参戦 最後のマシン MINARDI FORD M195B 1996年シーズンはドライバ―の エントリーが複数あったのは ミナルディのみで合計4人 その中でペドロ・ラミーは初のフル参戦 エース格で挑んだシーズンであったが 開幕戦予選で新人のG・フィジケラに敗れ R3アルゼンチンでもT・マルケスにも敗れた 決勝もR4サンマリノGPの9位が最高位 ミナルディのチームとしても 1990年以来6年ぶりのポイント無で終了 ラミーはこの年限りでF1引退 ポルトガル出身のF1ドライバ―は ラミー含め現在まででわずか4人のみ 1991年のペドロ チャベス(コローニ)は 決勝進出していない為 決勝走行は3人 ラミーの次のポルトガル人ドライバーは 2005年のT.モンテイロ(ジョーダン) ラミーは見た目より実際は若く F1 初エントリーは21歳 F1 最終エントリは24歳だった ペドロ・ラミー(ポルトガル) 決勝出走回数 32回 予選最高位 14位 1995年 ミナルディ R15パシフィック 決勝最高位 6位 1995年 ミナルディ R17オーストラリア #F1-1996年 #F1最後のマシン
P.LAMY 20 1/43 MINARDIFW12C
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1996 (24TH) ONYX MINARDI FORD M195B T.MARQUES
タルソ・マルケス ブラジル出身 ミナルディよりF1デビュー 1996年資金難のミナルディは南米ラウンドに ブラジル出身のT・マルケスを起用 マルケスのデビューは20歳40日で 当時としては歴代5番目の若さ R2ブラジルGP ピットレーンの信号無視で予選結果は抹消 決勝は1周目にスピンしてリタイア R3アルゼンチンGP 予選はこの年のミナルディのベストの14位 決勝はM・ブランドル(ジョーダン)に 2度も追突して34周目にリタイア 若さが出た結果となりこの2戦のみの出場 マルケスは翌1997年後半と2001年前半戦に 再びミナルディで参戦します 1996年はドライバ―が3人以上のチームは ミナルディのみで T・マルケスの他は P・ラミー G・フィジケラ G・ラバッジの4人 G・ラバッジのみが量販モデルの発売が無いが この年のミナルディの成績(ノーポイント)を 考えると残念ながら今後も発売の期待は薄い #F1-1996年
T.MARQUES 21 1/43 MINARDIFW12C
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1996 (19TH) ONYX MINARDI FORD M195B G.FISICHELLA
ジャンカルロ・フィジケラ イタリア出身 愛称フィジコ F1デビューはミナルディ 1996年ミナルディは当初 P・ラミー 井上隆智穂のラインナップであったが 井上のスポンサーが撤退しシート喪失 急遽フィジケラのデビューが決まる 開幕戦オーストラリアで予選16位 TMのP・ラミー(予選17位)を上回る R8カナダGPで再び予選16位→決勝8位 これはフィジケラ ミナルディとも 1996年のシーズンベスト チームは資金難の為シートを R2・3 タルソ・マルケス(ブラジル) R11~ ジョバンニ・ラバッジ(イタリア) に売り渡した為 フィジケラは8戦のみ ONYXのモデルカーからもたくさんの 小スポンサーのデカールと リアウイングのチーム名だけのロゴで ミナルディの苦しい台所事情が覗える ミナルディでの走りが認められた フィジケラは翌1997年 ドライバ―オーディションの 実走テストを経てジョーダンに移籍 #F1-1996年 #F1-デビュー
G.FISICHELLA 21 1/43 MINARDIFW12C
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1995 18TH ONYX MINARDI FORD M195 P.LAMY
ペドロ・ラミー ポルトガル 自身唯一の入賞 MINARDI FORD M195 1995年シーズン前 ラミーは当初 パシフィックからの参戦予定であったが ティレルのシートを画策し交渉 結局ティレルのシートを獲得出来ない だけでなくパシフィックのオーナーの キース・ウィギンスの逆鱗に触れて パシフィックのシートも失った ラミーはR10ハンガリーより 資金難のミナルディに持参金を持ち込み P・マルティニのシートを獲得 結果的にマルティニはこれでF1引退 最終戦のR17オーストラリアGPで 予選17位から完走8台のサバイバルを 生き残り自身初の6位入賞 (7位 P・デニス フォルティ) (8位 B・ガショー パシフィック) これはラミーの生涯唯一の入賞 ポルトガル人の初の入賞でもあり ミナルディの25戦ぶりの 1995年の初ポイントでもあった #1995 #F1 #MINARDI #ONYX #初入賞
P.LAMY 23 1/43 MINARDIFW12C
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1995 (23RD) ONYX MINARDI FORD M195 L.BADOER
ルカ・バドエル 1年ぶりF1復帰 MINARDI FORD M195 1994年ミナルディのテストドライバー 1995年M・アルボレートの引退に伴い ミナルディのレギュラーシート獲得 前半のTMはP・マルティニ 予選・決勝とも互角の戦いで R6カナダGPの予選18位→決勝8位が最高 後半のTMはP・ラミー R10ハンガリーGPは予選12位 これはバドエルの予選生涯最高位 決勝も8位完走(ラミー9位完走) しかし後半戦はラミーに 予選・決勝ともに敗れる事が多く バドエルはミナルディのシートを失い 翌1996年はフォルティに移籍します ミナルディの量産モデルは1990年以来 ONYXより4年ぶりの発売 1991年~1994年までは (1991年のマルティニ車(IXO)除く) 未だに量産モデルは発売されておらず 空白の4年間になってしまっています SPARKさん是非とも量産化を願います! #1995
L.BADOER 24 1/43 MINARDIFW12C
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1995 (19TH) ONYX MINARDI FORD M195 P.MARTINI
ミスター・ミナルディ P・マルティニ 最後のマシン MINARDI FORD M195 1995年マルティニとL・バドエルの イタリア人コンビで迎えたミナルディ 無限HONDAエンジンを土壇場でリジェに 奪われ出鼻をくじかれたシーズン序盤 初のUPDATE実施したR5モナコと R7イギリスで入賞手前の7位完走し 後半戦に向けて光が見えたが R10ハンガリーGPより 資金難のチームは持参金を持つ P・ラミーにシートを譲り マルティニはF1のキャリアを終了した 生涯9シーズン中8シーズンをミナルディで 過ごしたピエルルイジ・マルティニ 119戦で表彰台なしは2014年に E・スーティルに更新されるまでの 表彰台無しドライバ―の最多出走 陽気な性格で皆に愛されたドライバ― 1999年にはル・マン24時間で優勝している 🏁ピエルルイジ・マルティニ (イタリア) 【決勝出走数】119回 (入賞10回) 【予選最高位】 2位 1990年 ミナルディ R1アメリカ 【決勝最高位】 4位(2回) 1991年 ミナルディ R3サンマリノ 1991年 ミナルディ R13ポルトガル #F1-LAST
P.MARTINI 23 1/43 MINARDIFW12C