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1983 (26TH) SPARK ATS D6 M.WINKELHOCK
F1の歴史で初めてメス型成型マシン グフタス・ブルナー作 ATS D6 カーボン素材の技術が進歩 メス型成型をすれば別のカウリングを廃して 型から抜いたモノコック外皮をそのまま ボディとして使えるという発想が生まれ この技術に初めて挑戦したのが デザイナー グフタス・ブルナー 1983年 ATS D6の黒の部分は カーボン地肌そのままにされており 新しい製造方法をアピールする狙いもあった この後メス型成型は瞬く間に広がり F1のスタンダードとなった この年ATSは1台体制でドライバーは マンフレッド・ヴィンケルホック エンジンがBMWに変更された 予選では7位3回を含む シングルグリット8回獲得も 決勝ではリタイアが多く最高8位 後のスタンダードとなる技術も 初年度は試行錯誤で決勝レースで 結果を残すことはできなかった モデルはスパーク R14ヨーロッパGP(ブランズ・ハッチ) 予選9位→決勝シーズンベスト8位 後半戦のサイドポンツーンが 短くなったバージョン ヴィンケルホックはMarlboro契約 ドライバーでヘルメットやスーツに 同社のロゴの別添えデカールを貼付
240126 M.WINKELHOCK 1983 9FW12C
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1983 (21ST) SPARK ARROWS A6 T.BOUTSEN (DETROIT GP)
ブーツェン デビュー2戦目 予選・決勝シーズンベスト ARROWS A6 1983年R6地元ベルギーGPで アロウズよりF1デビューした ティエリー・ブーツェン 2戦目となったR7アメリカ東 F1-2度目の開催 デトロイト市街地コース 予選10位→決勝7位はいずれもシーズンベスト ブーツェンの決勝初完走レースで チームメイトのM・スレール(10位)を上回った この年アロウズはスポットスポンサーに 合わせて毎戦のようにカラーが変わり デトロイトではのちの1980年代 中盤~後半のアロウズの代名詞とも言える クリームベージュのカラーとなった モデルはスパーク デトロイトGPでは 1987年~1988年に同チームで BMWエンジンのバッジネームとなった アメリカのかつての保険大手USF&Gの子会社 メガトロンがスポンサーで同社のロゴが 車体とリアウイングに貼られている 1983年のアロウズA6のブーツェン車は GP違いで3台目のリリースとなり 先日4台目発売の情報がありました… https://muuseo.com/FW12C/items/1201?theme_id=30446 https://muuseo.com/FW12C/items/1013?theme_id=30446
240120 T.BOUTSEN 30 1/43FW12C
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1985 (22ND) SPARK OSELLA FA1G H.ROTHENGATTER
ヒューブ・ロッテンガッター キャリアベスト7位 OSELLA FA1G ヒューブ・ロッテンガッター オランダ出身 ヨーロッパF2では1980年7位(1勝) 1980年・81年全日本F2にスポット参戦 ロッテンガッターはオランダの 全国紙に全面広告を掲載 決意と自分自身への信念を アピールしてオランダの家電メーカー フィリップスのスポンサーを獲得する 1984年スピリットでデビュー 1985年オッゼラで2シーズン目 いずれもシーズン途中から資金を 持ち込みシートを獲得する 1985年オッゼラの最終戦 R16オーストラリアで予選25位→決勝7位 ロッテンガッターのキャリアベスト 翌1986年はザグスピード これまた資金持ち込み途中参戦 ロッテンガッターはキャリア 決勝26戦を全て20番台からスタート という珍しいドライバ― ドライバ―引退後はフィリップスの スポンサー関連で1991年に新規参戦 ジョーダンチームの携わり 後に同郷のヨス・フェルスタッペンの マネージャーも務めた モデルはスパーク オランダのGPworld特注 ギフトBOX入り R11オランダGP仕様 予選26位 決勝は56/70周で規定周回不足 個人Marlboro契約ドライバ―で ヘルメット正面に同社のロゴあり
230922 H.ROTHENGATTER 1985 300FW12C
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1989 (30TH) SPARK LEYTON HOUSE MARCH 881 I.CAPELLI
名車 LEYTON HOUSE MARCH 881 ラストレース イヴァン・カペリ 1989年マーチは新車CG891投入まで 開幕~R2まで前年のマーチ881を使用 開幕戦ブラジルGPカペリは予選7位 決勝は22/61周目にトラブルでリタイア チームメイトのマウリシオ・グージェルミンが 地元で自身唯一の3位表彰台を獲得 R2サンマリノGP予選16位 決勝は1周目に接触でリタイアしている エイドリアン・ニューウェイ 出世作ともいえるMARCH 881 前年1988年に予選最高3位 決勝では2位・3位を1回 そして何より日本GP鈴鹿での 16周目の一瞬のリーダーラップ 記憶と記録を残した名車であった モデルはSPARK 大阪のモデルガレージロム別注 ラストレースのR2サンマリノGP仕様 1989年のカラーリングで BPのグリーンがポイントとなっている 限定数300でほとんどの店で品切れ とあるお店で運よく1台だけあって購入 残念ながらインダクションポッド横の BPのデカールが斜めに曲がっていました… 修正したいのですが技量も無く… このまま雰囲気を感じるだけでも良いです https://muuseo.com/FW12C/items/168?theme_id=31437
230906 I.CAPELLI 1989 300FW12C
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1986 18TH SPARK OSELLA FA1F C.DANNER
初代国際F3000チャンピオン クリスチャン・ダナー OSELLA FA1F 1985年初代国際F3000チャンピオン 同年ザグスピードでデビューした クリスチャン・ダナー(ドイツ) 1986年はオッゼラより参戦 OSELLA FA1Fは1984年に作製された 実に2年落ちのマシン エンジンはアルファロメオターボV8 チームメイトはP・ギンザーニ ダナーはこのマシンで6戦出場 1回の予選落ち 他はすべてリタイア R6カナダGPではアロウズのM・スレールの 欠場により同チームからもエントリー 1レースで2チームから登録されたが オッゼラの登録の方が早く優先された ダナーはR7より正式にアロウズに移籍 R12オーストリアGPで6位入賞している ドイツのRACE LAND社の別注シリーズ OSELLA FA1F初の量販モデル化 #F1-1986年
230325 C.DANNER 400 22FW12C
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1992 9TH SPARK TYRRELL 020B A.DE.CESARIS
A・チェザリス TYRRELL 020B R15日本GP 鈴鹿 シーズンベスト4位 1992年ティレルはエンジンが ホンダからイルモアに変更 パワーは劣るものの軽量コンパクト設計が TYRRELL020にマッチしてチェザリスが好成績 R15日本GP鈴鹿では予選9位→決勝4位 4位は1992年のシーズンベストリザルト チェザリスは1987年~1993年まで 生涯鈴鹿には7回出走も入賞はこの1回限り チェザリスの生涯入賞回数は22回で この中では決勝リザルト4位が一番多く7回 モデルは大阪モデルガレージROMUの別注 昨年までティレルのスポンサーであった 日本信販がスポットでコックピット前と リアウイングサイドに同社のロゴが付き 元々リアウイングサイドのユーロスポーツの ロゴがインダクションポッド横に移動している 1991年より約2年半 41GP使用された TYRRELL 020シリーズの最後の入賞モデル
230205 A.DE.CESARIS 350 4FW12C
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1998 TEST PMA FERRARI F300 M.SCHUMACHER
黒いフェラーリ TEST CAR FERRARI F300 M.SCHUMACHER 1998年シーズン開幕前のフェラーリ所有の フィオラノサーキットでのテスト走行 真っ黒な車体にノーズの先端に フェラーリのエンブレムのみが施されている マシンは小型ウイングの類や翼端板などは 付いておらず1998年に導入される グループドタイヤ(溝付)も未装着 現在では限定となると1000台以下が ほとんどですがこのモデルは Limited Edition 12.222pcs. それでもシューマッハ・フェラーリ人気もあり そこまで値崩れしていないモデルです ドライバ―ヘルメットは Marlboro加工してあります ミニチャンプスのフェラーリF1モデルは 1998年のモデルで最後となり 翌1999年よりマテル(HW)中心での発売 (IXOやLOOK SMARTでも一部発売) ミハエル・シューマッハ コレクションも 一度終了 2010年のメルセデスで復活
230202 M.SCHUMACHER TEST CAR 12.222FW12C
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1991 (37TH) SPARK AGS JH25B S.JOHANSSON
開幕直前シート獲得 S・ヨハンソン 連続予選落ち AGS JH25B 前年の1990年オニクスを解雇されて F1のシートを失ったS・ヨハンソンは 1991年開幕直前 フランスのAGSのシート獲得 これはA・チェザリスがAGSから急遽 新規チームのジョーダンに移籍 チームは2台エントリーの罰金を逃れる為 ヨハンソンにオファーしたと言われている チームメイトはガブリエル・タルキーニ 開幕戦のアメリカGP・R2ブラジルGPとも 予選28位で決勝進出はならなかった R3サンマリノ前にAGSは新規オーナーに売却 それと同時にヨハンソンも解雇 資金持ち込みのF・バルバッツァがシートを獲得 ヨハンソンは前年も同時期に 同じような形でオニクスのシートを失っている 1991年シーズン途中ヨハンソンはケガの A・カフィの代役としてフットワークで参戦 ヨハンソン個人としてはMarlboro契約の ドライバ―でヘルメットにはロゴが貼られ 自身も愛煙家 マールボロを吸っていた #F1-1991年 #F1
230128 S.JOHANSSON 18 1/43FW12C
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1984 17TH SPARK TOLEMAN TG184 S.JOHANSSON
ステファン・ヨハンソン F1初ポイント TOLEMAN TG184 1984年ティレルより途中参戦した S・ヨハンソンであったが 所謂 水タンク事件でティレルが活動休止 R14イタリアGPからはトールマンから出場 このGPは移籍問題に絡みチームがA・セナを 出走させなかった為にヨハンソンは カーナンバー19 急遽参戦のP・マルティニが20 予選17位→決勝4位入賞 F1初ポイント獲得 ヨハンソンの通算入賞回数は26回 終盤2戦はセナが復帰したため カーナンバー20で出場も予選ではセナに 大差で敗れ入賞はならなかった 翌1985年は再びティレルに1戦のみ戻り R2~はフェラーリで参戦する
221118 S.JOHANSSON 19 1/43FW12C
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1987 (29TH) SPARK BRABHAM BT56 S.MODENA
寡黙なイタリアン ステファノ・モデナ F1デビュー BRABHAM BMW BT56 1987年国際F3000チャンピオン 同年F1最終戦R16オーストラリアGP ウイリアムズのN・マンセルの欠場に伴い 次年度ウイリアムズシートが確定の R・パトレーゼがブラバムから移籍 空いたブラバムのシートにモデナが起用された チームメイトはアンドレア・デ・チェザリス 予選は15位で通過も決勝は疲労でリタイア 急遽の参戦でマシンになれず 自らリタイアを申し出た このGPをもってブラバムは1年間チームを休業 モデナは翌1988年はユーロブルンで参戦 1989年は再びカムバックしたブラバムへ復帰 #F1-1987年
221111 S.MODENA 7 1/43FW12C
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1983 (21ST) SPARK ARROWS A6 T.BOUTSEN (BELGIAN GP)
振り向けばティエリー・ブーツェン 地元ベルギーGP デビュー ARROWS A6 1981年F2で年間2位を獲得すると 同年の鈴鹿JAFグランプリに参戦 中嶋悟に次ぐ2位を獲得 元ホンダF1監督の中村良夫の進言もあり スピリット・ホンダの契約ドライバーとなった 1982年ヨーロッパF2でホンダの マシンで3勝をあげてランキング3位 スピリット・ホンダでのF1参戦も噂されたが ステファン・ヨハンソンとのシート争いに破れた 1983年は同郷の先輩ドライバーの ジャッキー・イクスの支援とF2での実績により チコ・セラに変わりアロウズより 地元R6ベルギーGPでデビュー モデルはそのベルギーGP仕様(予選18位→決勝R) この後ブーツェンは1993年までF1に参戦 164戦出場 優勝3回 表彰台15回 入賞41回 この年のアロウズはGPごとのスポンサーが多く イギリスGP仕様とはカラーリングがかなり異なります https://muuseo.com/FW12C/items/1013?theme_id=30446 #振り向けばブーツェン #1983年
221106 T.BOUTSEN 30 1/43FW12C
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1980 15TH SPARK FITTIPALDI F8 E.FITTIPALDI
エマーソン・フィティバルディF1ラスト 最後の表彰台獲得 FITTIPALDI F8 スポンサーの変更により チーム名をフィティバルディとして 新たにブラジルの大手飲料メーカー アンベブのビールブランドの SKOLのロゴで参戦 R4アメリカWESTでは予選24位から 混戦を生き残り3位表彰台獲得 エマーソン最後の表彰台は通算34回目 その後R6モナコでの6位が最後の入賞 通算入賞回数は57回 この年限りでF1ドライバ―からは引退 1982年までチーム運営に携わった 1984年はスピリットでテストには参加したが F1には復帰せずアメリカの CARTシリーズに参戦した 🏁エマーソン・フィッテパルディ(ブラジル) 決勝出走回数 144回 予選最高位 PP(6回) 決勝最高位 優勝(14回) ファステストLAP(6回) 👑ワールドチャンピオン 2回 1972年 ロータス 12戦5勝 1974年 マクラーレン 15戦3勝 #F1-ラスト #F-1980年 https://muuseo.com/FW12C/items/988
221030 E.FITTIPALDI 20 1/43FW12C
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1984 (DNQ 35TH) SPARK TOLEMAN TG184 P.MARTINI
Mr.ミナルディ ピエロルイジ・マルティニ 幻のデビューマシン TOLEMAN TG184 1984年トールマンはR10イギリスGPで 負傷したJ・チェコットの代役を探し R14イタリアGPより水タンク事件で 活動中止となったティレルより ステファン・ヨハンソンを起用 更にこのイタリアGPはトールマンとの 契約が残っている中で翌1985年からの ロータスへの移籍を発表したA・セナを 懲罰として出場を停止させて イタリア人 P・マルティニを起用した マルティニは急遽の出場だった事もあり 予選26位のJ・パーマー(RAM)に 0.328足らずに予選落ちとなった マルティニのトールマンでのエントリーは 1戦のみで翌1985年はミナルディで 正式にF1グランプリーデビューとなり キャリアのほとんどをミナルディで参戦した
221027 P.MARTINI 20 1/43FW12C
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1981 21ST SPARK ENSING N180B E.SALAZAR
F1で唯一のチリ出身ドライバ― E・サラザール 初ポイントENSING N180B ブラジルF3参戦時にネルソン・ピケと出会い F1でのデビューにつながる 1981年はRAM(マーチグランプリ)より参戦 R7スペインGP以降はエンサインで出走 多額のスポンサー料を持ち込んだ R12オランダGP 予選24位から荒れたレースを走り抜き 見事6位入賞 サラザール初入賞は エンサインとしては最後の11回目の入賞 マシンにはサラザールの持ち込みと思われる TOYOTAのスポンサーロゴも存在 #F1-1981年
221023 E.SALAZAR 14 1/43FW12C
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1981 (26TH) SPARK FITTIPALDI F8C K.ROSBERG
チャンピオン前年 ケケ・ロズベルグ ノーポイント DNQ 5回 FITTIPALDI F8C 1981年ケケはFITTIPALDIの2年目 エマーソンの引退に伴いNo.1ドライバ― チームメイトはブラジル出身 チコ・セラ マシンは昨年の改良型FITTIPALDI F8C 予選はR3アルゼンチン 8位 決勝はR2ブラジル 9位が最高 モデルはR5ベルギーGP仕様 予選11位→決勝リタイア タイヤはアメリカのクーパー・タイヤ チームはメインスポンサーを失い資金難 後半は予選通過もままならず予選落ち5回 C・セラと合わせてチームは13回予選不通過 メインスポンサーは無いが 1990年代フェラーリもサポートした PIONEER(パイオニア)の青いロゴが目立つ ケケは翌1982年A・ジョーンズの抜けた ウイリアムズに移籍 ノーポイント・予選落ち5回から 翌年はワールドチャンピオン獲得する #F1-1981年 #1981年
220921 K.ROSBERG 20 1/43FW12C